天国と地獄
続きます。
自分の席に向かうと後ろの席の夏川はまだ来ていなかった。その代わりか、芦田がそこに座って珍しい人物と話していた。
「よっす、珍しい組み合わせじゃん」
「あっ、さじょっち。おっは〜───って……」
「……大丈夫?」
芦田の横に立っていたのはクラス委員長の飯星さん。隠れ陽キャみたいな存在で、好き嫌いがはっきりしている。クラスのメッセージグループを作った張本人で、嫌いな女子を普通にハブったりするからちょっと怖い。文化祭の打ち上げの話を水面下で調整したのも飯星さんらしい。
「まぁ、大丈夫。こうして普通に学校に来てるわけだし」
「そっか……さじょっちがそーゆーなら」
「気を付けてね、佐城くん」
「うっす。心に焼き付けます」
「ならよし」
「なにその上下関係」
どうやら既に格付けは済んでいたらしい。無意識のうちに欧米の国歌斉唱ポーズをとっていた。おかしい、飯星さんに勝てる未来が見えない。仮に闘う展開になったとして、その瞬間に奥の壁から「やぁ」と濃紺の服のお兄さんが顔を出して来る未来が見えるぜ。
「んじゃ」
飯星さんは頷くと、自分の席へと戻って行った。
見送ったところで机の上に荷物を置く。文化祭が終わって一発目の登校だから、置き勉もできていなかった。ハァ……重かった。
「飯星さんとなに話してたんだ?」
「んー? 何ていうか、原因について?」
「原因?」
「……ん」
「……ああ」
芦田が顎でしゃくった先───俺の前の席の岡本っちゃん。自分の席にじっと座り、机の上をただ見つめている。なるほど、女子も女子で気になってるみたいだな。飯星さんはこれをどうにかしようとしている、と。
「……ま、避けられない道だろ。時間かけて切り替えるしかない」
「おっ、経験者は違うねぇ」
「切り替えられてないけどな……」
「ずるずるだねぇ」
「うるせぇよ」
あまり俺を舐めるなよ、既に市内一周分は心を引き回した。
距離を置いたままで居ればもっと違ったんだろうけどな……いかんせん夏川との距離が近すぎて忘れる余裕なんてありゃしない。恋心ギンギンの状態で夏川のお仲間ムーブをかましてるからな。ボディータッチなんてされてみろ、俺の心の尻尾は船が進むくらいスクリューを始める。
「夏川はまだ来てないんだな。珍しく遅めというか」
「そーなんだよー。はぁ、一日会ってないから早く愛ちを補給しないと」
「ほう、ご相伴にあずかろうじゃないか」
そう言うと、芦田は俺にじっとりとした視線を寄越してきた。こいつッ……まさか夏川を一人占めするつもりか!
「どうせさじょっちは昨日愛ちと会ってるでしょ!」
「そ、それは……え? 〝どうせ〟ってなに? どういうイメージ? まだそんなこっそり夏川を付け回すイメージなの?」
まだっていうか、前もそんなこっそり付け回したりはしなかったけど。あくまで正々堂々、文字通り堂々と付き纏ってたけどな。マジで傍迷惑な奴だった。姉の顔が見てみたい。きっとヤバいんだろうな。
「───あ、噂をすればっ……!」
芦田が嬉々とした顔で立ち上がる。つられて目を向けると夏川が教室に入って来るところだった。逃げるんだ夏川。吸われるぞ。
「愛ち、おはよ! いつもと時間ちがうね!」
「キャッ!? ちょっと……!」
シャッ、と立ち上がった芦田は夏川に肉薄。俺に匹敵するレベルの幻術でゴールデンレトリバーのような尻尾を生やし、夏川の腕に抱きついてこれでもかと振り回す。スカートへの干渉がなく不自然だ、パンツが見えないから不合格。
「おはよ、夏川」
「あ……えっと、おはよう」
声をかけると、俺を見た夏川からどこかぎこちない返事が返って来る。この雰囲気は……白井さんや岡本っちゃんと同じ? まさか……! 夏川も佐々木のことで落ち込んでるってこと!? そんな、そんな……───そんなわけないわな。夏川、佐々木を前に斎藤さんみたいなウットリした顔しないし。俺にもしないし。見たことないし。
最悪の結末を一瞬だけ想像してドキドキしていると、夏川は恐る恐るといった様子で俺に話しかけて来た。
「その……いつもより家、早く出たの……?」
「うん? いや、今日は車で送ってもらったんだよ。だからいつもより遅かったかな」
「あっ……そう、そうよね。その怪我だし、そうよね……」
「……?」
何とも歯切れの悪い様子の夏川。小さく溜め息も吐いたような。俺と話すことで余計に肩を落としたようで何だかショックだ。え、俺のせいじゃないよな……? 何か嫌なことでもあったんだろうか。
「……手は、大丈夫?」
「大丈夫。無理に動かさないようにするし」
「うん……その方が良いと思う」
「愛ちはー? 何かちょっと元気ないように見えるけど」
「え? そ、そんなことないわよ」
「ふーん……?」
「な、なに……?」
芦田は抱き着いたまま訝しげに夏川の横顔を見つめる。近い近い、そんな距離で夏川が横を向いてみろ、触れ合うぞ、触れ合っちゃうぞ。目の前でそんな事されたら俺の脳が焼け──ない? むしろ燃えるのでは? 行けッ……! 行けぇッー!
「まぁ、今回は仕方ないんじゃない?」
「な、何がよっ……」
「何でもー?」
「圭っ……!」
「?」
……? 何だ、この芦田だけ夏川と通じ合ってる感じ……全然分からないんだけど。俺が理解できなくて、芦田だけ察することのできる内容……? いったい俺と芦田の間にどんな違いがあると───ハッ……!?
こ、この件は芦田に任せよう! 好きな人が悩んでるからって何でもかんでも探るような真似はしない方が良いよな。男が無闇に立ち入っちゃいけない領域ってあると思うし、うん。夏川の機嫌が直るまでそっとしておこう。
「よろしくな、芦田。俺はデリカシーだけはあるんだ」
「や、絶対何か勘違いしてるじゃん。しかもキモいこと考えてそう」
「言葉に気を付けよう。俺は怪我人だぞ? 優しくして」
怪我によるハンディキャップを武器に……ふむ、これは使えるな。芦田みたいに言葉の殴り合いでコミュニケーションを取ってくるやつはこうやって黙らせよう。実際、メンタルが落ち込むと痛みが増す気がするし。そう、これは怪我の功名を高めるための、たった一つの冴えたやり方。
「──そうだよ〜、怪我人には優しくしないと、ね?」
「!?」
「!?」
椅子を横向きに座っている、そんな俺の頭を突如として包む柔らかい感触。香水なのか、柑橘系のツンとした甘酸っぱい香りが俺の嗅覚を満たす。幼い頃、親戚の集まりで酒の匂いで満たされた部屋の中、クラクラした時の感覚を思い出す。こ、この香りは……。
「あ、あなたはっ……」
「さじょっちが病院に運ばれたときの……」
二人の視線の向きと反応を見て、俺はいま誰かに横から抱き竦められているのだと自覚する。チラリと左下を見ると、女子生徒のものと思われる短いスカートと、そこから伸びる惚れ惚れするような脚があった。何だ、ここは天国か?
「───お、鬼束先輩、ですか?」
「ピンポーン! せいかーい! 何でわかったの〜?」
「声と、この……香水の香りで」
予想通り、俺に抱き着いたのは保健室で初めて出会ったギャル上がりの先輩こと鬼束先輩だった。確か病院の帰り際に姉貴が『玉緒』って呼んでたな……前にも聞いたことがあるような気が……。
「良い匂いでしょ〜」
「んっ……ちょっ」
ふわりと抱かれる力が強くなり、俺の頭はさらに先輩のお腹に押し付けられた。どうやらこの先輩は二つ下の男子を異性として見ていないらしい。あるいは女子に触れて照れる俺の反応でも見ようとしているのか。にしても距離感がバグってる……やっぱり元ギャルだからか?
「うん、うん───やっぱり」
「ちょ、ちょっとっ……! 何やってるんですか!」
「優しくしてるんだよ〜? 楓の可愛い~い弟クンに」
「お、お姉さんと……?」
「楓とウチは大親友だよ〜」
抱かれながら、鬼束先輩は両手で俺を制服越しに触る。芦田がよく夏川に抱き着いてやっているのと同じ。俗にいう〝ハスハスする〟というやつだ。な、なるほど……される側はこんな気持ちだったのか……夏川が嫌がる素振りをしながらも顔を赤らめて振りほどこうとしない理由がよく分かる。
もうっ……やめてよ!(もっと)
「あんたもっ……! いつまでされてるのよ……!」
「ハッ……ああああの、もう、良いですから」
「さじょっちのエッチ、スケベ」
「うぐっ……!」
しまったッ……! 欲望に忠実すぎた……!
自分から抱き着いていないとはいえ目の前に夏川や芦田が居る状況、もっと言えばすぐ前の席にはたぶん失恋して落ち込んでいる岡本っちゃん、さらにもっと言えばみんなが居る教室内で公然と異性とガチ恋距離してるとかヤバ過ぎる……! ここは一刻も早く距離を取らねばッ!
「───え、やだ」
仕方ねぇッ……そこまで言うなら仕方な───え、何で?
頬にさらに強く先輩の体温が伝わる。
〝同級生の弟〟というステータスが性別の壁を越えてある程度の警戒心を無くしてくれる事は四ノ宮先輩で学んでいる。だから大した親交がなくても出会い頭にからかって来る程度には気安く話しかけてくれるんだろうなとは思っていたけども……異性として見られていないにしてもこれはちょっと行き過ぎじゃない?
それこそ本当に俺のことが好きというなら納得できるというもの。だけど生憎と俺は先輩と出会って過ごした時間のほとんどが鉄臭い。痛みで歪んだ表情しか見せてないのに惚れられるタイミングがあったとは思えない。ていうかこれで好きになられたら趣味ヤバそう。実は姉貴を恨んでてハニートラップを仕掛けてきたんじゃないだろうな……。
「な、なんでっ……!」
「え〜? 何となく」
「なっ……!? ……ッ……!」
柔らかい感触、温かな体温。軽蔑するような白い目と、俺を睨み刺す美少女の鋭い視線。何だ何だと向けられる数多の目と、遠くから男たちの敵意。
フッ……なんだ、地獄か?