一滴の潤い
続きます。
「うん、うん……よし」
校門際。汗ばむ頬を撫でる涼しい秋の風の心地好さに少女───夏川愛華は微笑んだ。手元のバインダーに挟まった作業チェックリストの紙にペンを入れると、大きな作業を一つ終えた達成感に目を細め、横の髪を耳にかける。時刻は閉会式を終えてから一時間半が経った。
文化祭の撤収作業において、実行委員は指示・誘導の役割を担う。学校内の各箇所において、文化祭前の状態に戻っているか確認するためだ。愛華は視界の端にカラーテープのゴミを見つけると、それを拾い上げて近くの生徒が持っているゴミ袋に入れた。
そろそろ実行委員も撤収か。そう思い周囲を見回す愛華の背中に、一本の影が伸びる。
「───な、なぁ!」
「?」
声変わりして近しいような、男子の少し掠れた声が響く。愛華は周囲の生徒と一緒に声のした方を向く。そこには白のパーカーとオーバサイズのカーゴパンツに身を包み、短い髪を整髪料で逆立てた少年が校門の端に立っていた。日焼けだろうか、浅黒い肌とのコントラストが特徴的だ。気のせいでなければ少年は真っすぐ愛華を見つめている。
「あ、ちょっと。もう関係者以外は」
「───ま、前に!」
「え?」
「が、学校案内をされた時から、忘れられなくて! 気が付いたらずっとあんたのこと考えててッ……! 俺が鴻越高校に受かったら、付き合ってくださいッ!」
突如としてぶつけられる熱い告白。声は大きく、校舎の建物に強く反響する。内容も相俟って愛華は驚きのあまりその場で固まってしまった。頭に思い浮かぶのは、夏休みに中学生達を引き連れて高校の敷地内を案内した記憶。確か、その中にやけに反抗的な中学生の少年が居たと、その時のことを思い出す。
「えー、なになにっ、告白?」
「うっそ、中学生?」
「すっげ、マジかよ……」
「……ぁ……!」
五秒程度の空白を生み、愛華の思考の回転はひそひそと忍ばせた黄色い声によって再開する。大きく目立った事により恥ずかしくなり、顔が熱くなっていくことを自覚しながら、何とかせねばと件の少年に目を向ける。
「───おーら。時と場所を弁えろ中坊」
「あっ!?」
瞬間、少年の肩に黒いTシャツを着た大柄な男子生徒の腕が回される。さっきまで大道具の解体作業に勤しんでいた先輩だ。そこにまた一人、二人と在校の男子達が近付いていき、中学生の少年を校門から外へと遠ざけて行く。
「ちょっ、待っ……!?」
「根性はスゴいんだけどなー」
「迷惑かけちゃ駄目よ」
「よう、大丈夫か? 一年」
「ぁ……は、はいっ」
多くの先輩の働きかけによって、呆然としてる間に事態が収束する。校門の外から黒いTシャツの男子生徒達が戻って来た。手段は分からないが、どうやら話を付けてきたようだった。周囲の同級生からは気を取り直す声や、色恋を好む女子たちの少しがっかりするような声が聞こえて来た。
「まぁ、本当に受かったら考えてやれば?」
「えっ……と……あはは」
近くに居た先輩の女子が他人事のように言い放ってくる。実際その通りなのだが、そんな簡単に薦めてこなくても……と、愛華はどこか納得できない気持ちに包まれた。何とか愛想笑いを浮かべて、それを返事とする。
作業が再開する。とは言っても残るは荷物を持って撤収するだけ。愛華は集中力を削がれた気持ちのまま人波に付いて行く。頭の中ではド直球に告げられた熱い想いが何度もリピートされた。すっかり印象を焼き付けられてしまっていた。
ただ、不思議とそれは未知との遭遇による衝撃ではなく、どこか懐かしく。繰り返される声は、気付かぬうちに別の少年のものに変わっていることに気付かないまま……。
◇
文化祭実行委員会の会議室には多くの生徒が揃っていた。愛華は遅めの帰還だった。先輩を待たせていたかもしれないという申し訳なさから、姿勢を低くして早足で所定の席に向かう。その左隣には同じクラスの実行委員である男子の佐々木が座っており、奥には二年生の同性の先輩である井上も座っていた。
近付くと、その先輩と目が合う。
「───愛を叫ばれたんだって?」
「はひゅっ!?」
ニヤリと笑みを浮かべた井上の口から放たれた言葉に、愛華は自分から今までに発したことの無いような声が出たことに驚き思わず口を押さえる。再び周囲の視線が集まったことに恥ずかしくなって萎縮し、そして口撃を加えた井上は大喜びした。
「慌ててる! かっわいいなーもう!」
「あ、う……」
「ちょっ、先輩……! 当たってる当たってる……!」
「は、キモ」
佐々木越しに手を伸ばし、愛華の背中をバンバン叩く井上。あまり経験したことの無いイジりを、愛華は顔を赤くしたまま甘んじて受け入れた。佐々木は彼氏持ちの先輩の胸部をこれでもかと側頭部に受け、動揺を隠せないようだ。彼女が出来たばかりの彼に救いがあらんことを───。
「それじゃ、お疲れ様。今度の昼休みに小さな打ち上げをやるから、よろしくね」
「はーい」
最後の挨拶を終え、何かとドラマの多かった文化祭が終了した。実行委員の中で特に見た目の変化が大きかったのは委員長の長谷川だろう。真面目を象徴するおさげは無くなりショートカットに。眼鏡をコンタクトレンズに変えて、周囲からはすっかり垢抜けた印象が強まっていた。まるで失恋でもしたかのような変わり様だ。その場を締める声はすっかり余裕を取り戻していた。
「よしっ! そんじゃ、戻るか!」
「斎藤さんも待ってるもんね」
「そ、そうだな!」
解散まで緊張感のある最終ミーティングに愛華は何とか冷静さを取り戻した。ただ自分の教室に戻るだけのことに気炎を吐く佐々木に、愛華は最近のトレンドをピックアップして応える。女は恋にときめくところから始まるもので、それは愛華も例外ではなく───佐々木に対する注目度は教室に待ち受けているであろう大和撫子との交際開始前より明らかに高くなっていた。
(───そっか……)
佐々木の隣ではなく、一歩後ろを歩く愛華はどこか余裕の無い背中を見ながら思う。最近、そういう話が増えたな、と。中学生の頃とは異なる人間関係の変化に、愛華は時の流れを感じずには居られなかった。
(どう、しよっかな……)
先ほどの衝撃的な出来事、少年の感情のこもった叫びを思い出しながら、自分の表層の蓋を開けて中を覗き見る。
心の底に、淡い気持ちがある。おそらく最近できたものだ。ポトンと沈殿する雫の塊のようなそれは、表面をなぞると強い刺激を愛華に返す。一思いに触れると、堪らずに声を上げてしまいそうな衝動が込み上がり、愛華の手足に抑え切れないエネルギーを伝える。だから、迂闊に触ることができない。
目の前を歩く佐々木の、その交際相手の少女にもきっと自分と同じものがそこにあるのだろう。なぞったとき、触れたとき、同じ刺激が体を伝わって驚いたことだろう。持て余して悩んだことだろう。そして今、彼女はやっとの思いで掴んだ存在とともに満を持してそれに触れようとしているのだろう。きっと───理想的なかたちで。
(どうすれば、いいのかな……)
もの足りないと感じるほど、心の渇きは一気に加速する。そうなってから初めて過去を後悔する。それを拭う方法は、本能という名の説明書には書かれていない。まったくもって人の心は不完全だ。
そんな神の不手際を、人は理性によって自分をコントロールすることで尻拭いする。それを為しえて人は初めて大人となる。自分を満たすため、時には他者を必要とすることに気付かない愛華は未熟に尽きた。
そんな中、心の底が渇き切ることがどれだけ寂しいことかを知った。この一滴の潤いを失くさないようにするためにはどうすれば良いか。乙女心という特殊スキルによって、愛華はその答えが目の前のサンプルの行く末にあるのではないかと感じ取っていた。
「───ぁぅっ」
「おっと」
何らかのハプニングを感じ、気が付けば床に向けていた視線を上げる。廊下の曲がり角、前を歩く佐々木に一人の小柄な女子がぶつかったようだ。幸いにも転倒するなど大事には至らなかったらしい。少女が御守りのように両手で胸に抱えているスマホが目に入る。そんな彼女のあまりにひたむきな様子を見て、愛華は目を細める。
「あれ、一ノ瀬さん。どうしたんだ?」
彼女の心にも、同じものはあるのだろうかと。
スキル───発動。