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June 23 14:42

 後悔なんてするわけないと、りょうは首を振った。あなたは自分らしく生きることを、拒んだりできるの? と。


 水は高くから低いところへ流れていく。それくらい自然なことだったのだと、彼女は言う。定期的なホルモン注射と造形した性器の拡張、それをやめれば自然と筋肉で固くなり、股間の割れ目は傷口として塞がっていく。そんな身体に不自然に抗いながら、彼女は日々、他ならぬ自分自身に偽者だと告発され続ける痛みに晒されている。それを差し引いてもまだ、選び取った現在が幸福なのだと笑うのだろう。家族を捨てた罪悪感に苛まれても、なお。


 まるで、そうでなければいけないと信じているみたいに。


 記念撮影が終わると、砂糖菓子に群がる蟻のように若い女たちが集まりだす。お決まりのブーケトスが始まるらしい。風は海から陸へと吹いている。上空は少し強いのか、番で飛んでいた白い鳥が流されるのが見えた。風下に集められた女たちは口々にこちらに頂戴と喚き、花嫁はただ、困ったような笑顔を浮かべる。


 花嫁の放ったブーケを受け取れば、次に幸せを掴むことができる。そんなことを本気で信じている人間が、その中に一体どれだけいるのだろう。何の根拠もないただの迷信。そう笑いながらも女たちがどこかで真剣になるのは、その幸福を掴み取るチャンスがまだあるからなのかもしれない。


 遠巻きに眺めるりょうはただ、眩しそうに目を細めた。直視できないほどに幸福と希望に溢れた光景。それを見守るように、チャペルの屋根に備えられた十字架が見下ろしていた。


「あの子たちはいいわね。神様にだって、祝福されるんだから」


 ぽつりと呟くその言葉に、心の底では諦めきれないりょうの無念さが滲み出ている気がした。


 かつて神の最も近くに仕えた天使が堕天した理由の詳しくを、冬魔は知らない。神によって創造された最も美しい天使はしかし、神に背を向けた。神が彼を許さなかったように、神の定めた法に背くしかなかったりょうもまた、許されることはないのだろう。例えそこにどんな理由があろうとも。白く華やかなチャペルにこの先も、りょうの居場所なんてないのかもしれない。


 煙草が欲しくてジャケットの内ポケットに手を入れると、紙の箱がくしゃりと潰れる感触がした。行きがけの空港で買ったばかりの箱の中身は、一本残らず消えていた。思わず舌打ちが漏れる。痛みに耐えるための麻酔がなくなればもう、この場にはいられない。


「ここの神が祝ってくれないって言うんなら、別の神に祝ってもらえばいい」


 ただそれだけのことだと口ずさむと、冬魔はりょうの手首を掴んだ。


「時間切れだ。行くぞ」


 腕を引くと、それに抗う手応えがあった。りょうはまだ、名残惜しそうに妹を見つめている。


 風が凪いだ。チャペルの鐘が微かな金属音を鳴らし、揺れるハイビスカスの甘い香りが満ちてくる。広鍔の帽子がりょうの顔に影を作り、言葉もなく、瞳だけが冬魔を見つめた。


 お願い、もう少しだけ――似つかわしくもなく哀願する声が、聞こえてくるような気がした。そんな言葉、聞きたくもないのに。


 それを無視して、冬魔は再び手を引いた。さっきよりも、強く。


 突風が駆け抜けたのは、そんな一瞬だった。洋上で鳥が煽られたかと思うとすぐに草の萌えた斜面を駆け上がり、短い悲鳴を上げたドレス姿の女性客がスカートを押さえる。


 冬魔に手を引かれてバランスを崩したりょうは、間に合わなかった。


 反射的に添えた手をすり抜けて、広鍔の帽子が風に舞い上がる。雲もなくただ青い空に、くるくると回る帽子の白だけが鮮やかに目に残る。短く悲鳴を上げたりょうの視線の先はしかし、帽子を探してはいなかった。覆い隠すものを失い、露になった顔が真直ぐに向けられていたのは、純白のチャペルを背にした、もう一人の自分。その相手もやはり、同じものを見つけてしまったのだろう。大きく目を見開いた花嫁は、ベールが飛ばされるのも気づかないようにただ呆然と立ち尽くしていた。


 鏡を前にしたみたいに、二人とも同じ表情をしている。強く吹きつけた風のざわめき中で、二人だけが呼吸すらも忘れたように静かに感じられた。時が止まったわけでも、戻るわけでもなく、宙を漂う帽子が崖を滑り降り、青い海へと落ちていく。瞬きすらもどかしいようにりょうは目を瞠っていたが、やがて耐えられなくなったのか顔を背けた。微かに開いた口からは、言葉が何一つ見つからないみたいに音が漏れることはない。


 全てが通い合うには短すぎる時間だった。離れていた七年という歳月はあまりに長い。それでも、何かを悟ったように花嫁は傍らの父親に目をやり、そして顔を険しくした。


 ねぇ、早く、と急かす女の声が聞こえる。気づけば風はとっくに止んでいた。鳥は先ほどと同じように空を滑り、海は穏やかに浜に打ち寄せ、そしてハイビスカスが小さく揺れていた。


 言われるままに花嫁は背を向ける。その気配を察したりょうが、もう一度顔を上げた。かつては自分の後ろばかり着いてきた妹の背中を、今はりょうが見つめている。それはもう、彼女の手には届かないところへ行こうとしていた。


 合図とともに、花嫁が胸元に抱いたブーケを下ろした。女たちが色めき立つのがわかる。肩や肘を張り出して、ポジション争いはもう、熱さを帯びていた。しかし、集団の更に後ろに立つりょうにその熱が伝わることはなく、静かにただ、ことの成り行きを見つめている。


 距離を測るように、花嫁が振り返る。そして顔をまた正面に戻すと、青い空を眺めるように顎を上げる。見上げる先にあるのは小さく揺れるチャペルの鐘。そのもう一つ先で、白い鳥の番が風に煽られるのが見えた。


 それを待っていたのだろう。花嫁の腕が伸び上がったかと思うと、ブーケが宙を舞った。悲鳴にも似た声を上げて手を伸ばす女たち。だけど、風に乗った花束はその頭上を容易く越えていく。驚いた表情を浮かべるりょうに、花嫁が振り返った。風を味方につけた花々は、あたかもそれ自体が意志を持ったみたいにりょうを目指してくる。


 冬魔は握っていた手を離した。駆け出せば、手を目一杯伸ばせば、届くかもしれない。


 胸が詰まるような息苦しさを、冬魔は感じた。厄介なことにりょうの緊張が自分にも伝わっているのだと思った。


 妹から投げられたそれが、りょうの目にはどう映っているのだろう。まるで奇跡にでも憑りつかれたみたいにたどたどしく、りょうの足は歩みを進める。不意に不味い紫煙で胸を一杯にしたい衝動に襲われ、冬魔は乱暴にぼさぼさの頭を掻いた。思い出したくもない兄の結婚式で、あの人が投げたブーケを受け取ったのは誰だったろう。甘ったるい花の香に包まれた自分に向けられたあの人の、とびっきり幸せに満ちた笑顔を見て、冬魔は自分の望む幸せが永遠に訪れることはないと知った。


 りょうは、どうなのだろう。ヴァージンロードを歩く資格のない彼女は希望に縋るように手を伸ばしかけ、しかし夢から醒めるみたいにそれを止めた。


 何の躊躇いもなく走ってきた化粧の厚い女が、りょうの目の前に落ちていく花束を掴むと歓声を上げた。それを見た花嫁は顔を歪ませると、幼子が泣きだすみたいに目を細めた。それを打ち消すようにりょうは首を振ると小さく頭を下げ、そして笑った。ここへ来て初めて見せる晴れがましい笑顔で、冬魔にお姉さんぶるときにするような、いつもの彼女らしい顔で。


 口元だけで、りょうは何かを呟いた。声のない囁き。だけど妹にはそれで十分だったらしい。無理に作ったような笑顔を浮かべると、感極まったみたいに涙を流した。何も事情をわかっていないだろう新郎が、そんな彼女の頭を優しく撫でる。新しく番となった二人が寄り添う姿から、りょうは今度は目を逸らさなかった。


 やがて振り返ったりょうは満足そうな顔をしていた。そのまま冬魔の前に立つと、高い背を低くして胸に顔を埋めてくる。花嫁が初めて冬魔の存在に気付いたように目が合った。あかるさまに勘違いをしたような気配がして、冬魔は顔を顰めた。


「ねぇ、冬魔くん……」冬魔が引き離そうとするよりも強い力で、りょうがしな垂れかかってくる。「泣いても……いい?」


「ダメだ」


 迷いもなく冷たく言い放つ冬魔に、りょうは笑った。


「相変わらず、意地悪なのね」


 その言葉も言い終わらない内に、冬魔は胸の辺りが熱く湿るのを感じた。小さく震える体を抱いてやることもできずに、冬魔はただ空を仰いだ。


 白い鳥の番が見せつけるように青い空でじゃれあっている。睨みつける冬魔を冷やかすように、二羽の鳥は一つ、鳴き声を上げた。

お読みくださりありがとうございます。

私的にはシリーズの弟3部の位置づけですが、これだけでも話が成り立つように書いたつもりです。

実験的に時間軸が入り組んだものを書いてみたいと思い構成を考えたのですが、いかがだったでしょうか?

楽しんで頂けたなら幸いです。

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