June 23 17:49
「本当はね、おめでとうって言いたかったの」
車の助手席で、窓から吹き込む風に髪を遊ばせながら、りょうは今更な告白をする。西日に照らされて朱色がかった姿が、余計に憂いを濃くしているようだった。ハンドル操作をしながら冬魔はりょうを見る。だけど彼女は、海に沈んでいく夕陽ばかりを見つめていた。
「あの子はきっと大好きな人の腕に抱かれ、いつか大切な人の子供を産むの。そんなこと、信じられる? ただ女に生まれたっていうそれだけで、あの子は私がどんなに願っても叶えられない幸せを手にするの」
――ただ、女に生まれたというだけで……。
そう思うと何も言えなくなったのだと、相変わらず独り言のようにりょうは呟いた。
同じ親から生まれて、同じ環境で育った。同じような顔をして、同じようにままごとや人形遊びをして、同じように白いウェディングドレスに憧れた。それでも、同じような未来は訪れなかった。四十六ある染色体の内の、たった一つが異なっていたために、りょうは子宮を持ち得なかった。ただ、それだけで、彼女の望む幸せなんて初めから、約束されていなかったのだ。
妹に嫉妬するなんて馬鹿みたい。そう、りょうは淋しそうに笑った。冬魔はアクセルペダルを、少しだけ強く踏み込んだ。
あの人と結ばれた夏樹の結婚式で、自分は兄とどんな言葉を交わしたのだろう。そんなことをふと思い返す。生まれたばかりのまりあを抱いた兄に、自分はどんな言葉を送ったのだろう。深く記憶を探ろうとしても、冬魔はもう、そこに辿り着くことはできない。兄弟なんてものは合わせ鏡の世界みたいだ。自分と同じ場所から始まったのに、自分とは違う現実を見せ付けてくる。近い存在だからこそ何も言えないなんてことはきっと、いくらでもあるのだろう。
暫く海岸線を走った。その間りょうはずっと、煌く水面を眺めていた。変わり映えのしない景色を瞳に映しながら、心はまだ、先ほどまでいた結婚式に囚われているのかもしれない。車内はワインレッドに満たされていく。無言の隙間を埋めるように鳴るラジオが空々しくて、冬魔はオーディオを消した。低いエンジン音だけが、耳につく。
「怒ってるのか?」
五つ目の信号に掴まったところで冬魔は、遂に煙草を咥えた。表情を窺おうとしてもりょうはまた、振り向きもしない。やれやれと思いシガーソケットに手を伸ばす。助手席から吹き込む湿り気を帯びた風は彼女の長い髪を潜り抜けて、ほんのりとシャンプーの匂いがした。
「どうして怒らなきゃいけないの?」
顔も見えない、平坦な声が聞こえた。煙草の先に火をつけると、冬魔は苦い煙をゆっくりと吐き出した。
「あまりにも俺が何もしなかったから、ツケの分確り働けって」
結婚式を眺める間中、冬魔はただりようの横に立ち、彼女が傷ついていくのを眺めていた。慰めることも、優しい言葉をかけてやることもしなかった。そうして無関係を決め込まなければ多分、自分の奥に潜む胸の痛みに耐えられそうもなかった。
りょうが何を期待していたのかは、結局わからない。隣に立っているだけの男なら、他に見栄えのいいヤツは幾らもいたはずだ。そいつならきっと、泣きもせずに小さく震えるその広めの肩を、抱いてやることぐらいしたのだろう。
大丈夫か? の一言くらい、かけてやったに違いない。
だけど、りょうは笑って小さく首を振った。
「冬魔くんにそんなこと期待したって、仕方ないじゃない」
別に優しさを求めていたわけじゃないと、彼女は言った。纏わりつくような慰めは鬱陶しいだけだから、と。ではどうしてかと問うと、りょうは少し考えるように息を吐いた。
「普段は吸いたくもない煙草の匂いが、真新しいシャツの袖に染み付いてた。そういう人だからよ」
言われて袖口を嗅ぐ。吐き気を催す匂いに冬魔は眉を寄せ、また吸っていた煙草を灰皿に押し潰した。今日何度、そんなふうに吸殻をもみ消したのだろう。胸の中に残った鈍い痛みを見透かされた気がして、冬魔は少し荒く車を発進させる。子供地味た冬魔の行動に呆れるようにりょうの肩が揺れ、吹き込んでくる風に遊ばれる髪をかき上げた。
「ありがとう。それから、ごめんなさい」
「ありがとうなんて、言われる筋合いはねぇよ」
「そんなことないわ。こんなところまで、ついてきてくれた。それにずっと、傍にいてくれた」
「請求書の束で脅して連れてきたくせに」
わざと悪態をつく冬魔に、ミラー越しに見えるりょうの横顔は愛おしそうに笑った。
「本当に嫌だったら、あなたは来てくれなかったでしょ? まりあちゃんもよく言ってるわ。気乗りのしない仕事は絶対に受けなくて困ってるんだって。もっと家計のことも考えて欲しいって」
まりあの名前を聞いて、冬魔は顔を顰めた。その場にいなくても小うるさいヤツだ。得意げな顔をして冬魔の愚痴をこぼす姿が目に浮かぶ。まるで長年連れ添っている兄妹のように、あるいは父娘のよう。そんなのを微笑ましいとでも思ったのか、りょうは目を細める。視線の先にある夕陽はもう、頭まで水平線に浸かりそうで、最後の光を目に焼きつけさせようと、一際眩しく輝いていた。
「ずっと一人で生きていかなきゃって思ってた。もの同士の間には摩擦が生まれるみたいに、人も触れ合えば多かれ少なかれ、傷つけ合うものなのかもしれない。特に私は普通ではないのだから、それは仕方のないことなんだって、諦めてた」
――諦めようとしてた……。
大勢のマスコミに取り囲まれた家族の写真が脳裏に浮かぶ。好奇のうねりに突き落とされた彼らを、だけどりょうはただ眺めていることしかできなかった。自分が出ていけば、大切な人たちをもっと苦しませてしまうとわかっていたから。
まるでハリネズミのジレンマだ。深く互いを求め、体を寄せ合うほどに、自らの針で相手を傷つけてしまう。それが嫌だから、遠くに離れるしかないのだと、彼女は思ったのだろう。家族は身勝手に消えてしまった自分のことなんて綺麗に忘れてくれるのだと、そんな幻想を抱きながら。
「まるっきり馬鹿げている」
冬魔が吐き捨てると、りょうが頷く気配がした。
「そうね。全くその通りだわ。どんなに時が経っても、あの子は私のことを必要としてくれた。どんなに強がっていても私は、寄りかかればただ受け止めてくれる冬魔くんを求めていた。そんなことに、今まで気づかなかった」
人はどう足掻いても一人では生きられないものなのかもしれない――観念するように、りょうは呟いた。
――だけど、それが嬉しかったの。