June 22 21:28
眠っているつもりはなかったが、気づけばニュースは終わっていた。天気予報の次にスポーツが取り上げられたところまでは記憶にあるが、それ以降のトピックについては思い出せなかった。火事や殺人や政界のスキャンダルや、そんな有り触れた話題が頭の中を素通りしていったのだろう。画面の中では名前も知らないタレントたちが、自らの存在を主張しようと声を張り上げている。まるで来るはずもない番を求めて鳴く鳥のよう。必死過ぎて、冬魔はとても笑う気にはなれなかった。
少し逡巡したあとで、テレビを消した。途端にホテルの部屋から空々しい笑い声が消えると、水の弾ける音がした。雨かと思ってカーテン脇から外を眺めるも、一人ぼっちの月は相変わらずそこにいた。
不意にカーテンが開く音がして、水音が大きくなるのがわかった。何のことはない。それは全て部屋の中から聞こえていて、さっきまでベッドの上で仰向けになっていたりょうの姿はなかった。
軽い尿意を感じて、冬魔は立ち上がった。大して強くもないのに、缶酎ハイを二本も飲んだせいかもしれない。ホテルのトイレはユニットバスで、シャワールームと一緒になっていた。そして流れる水の音も案の定、その奥からだった。
――冬魔くんのこと、信じてるから。
そう言ったりょうの言葉を思い出す。一度伸ばしかけた手は躊躇したものの、結局はドアノブを掴んだ。別に、必ずしもそこを使わなくてはいけないくらい、緊急を要していたわけでもない。廊下に出れば、ロビーまで行けば、トイレなどいくらでもあることくらいわかっていた。普段は引き返すはずなのに、やはり酔っていたのかもしれない。ノブを捻ると、それは意外なほど呆気なく回った。
信じてるから――その言葉を反芻する。どっちの意味だよ。そう口の中だけで呟くと、ドアを押した。
白い湯気とともに湿気が逃げていく。その瞬間、シャワーカーテンの向うで息を呑む気配を感じた。併設された洗面台には畳まれたタオルと衣服が置いてあった。そこには黒のブラやショーツといったものまであって、冬魔はすぐに目を逸らした。一枚隔てた厚手のカーテンにはシルエットは映っていない。だけどその先には、一糸纏わぬりょうがいる。
「ここは泳げるぐらい広くて、海岸が一望できる大浴場も売りの一つなんだって聞いたぜ」
入り口の壁に背中を預けると、チェックインのときにポーターが言っていた言葉を告げた。
「いいのか。そんなところで済ませて」
すると蛇口を絞ったのか、シャワーの勢いが弱まるのがわかった。
「冬魔くんこそ行ってこればいいじゃない。きっと寛げるわよ」
その返答に、冬魔は見えもしないのに顔を顰めてみせた。硬い口調は、彼女自身が悲鳴を上げるべきなのか決めかねているせいなのかもしれない。だけど、本当に声を上げないところに彼女の言う信頼が見て取れるようだったし、冬魔もまた、それ以上近づこうとしなかった。
襲う勇気なんてないことくらい、端から見抜かれていたのだろう。
「昔から苦手なんだよ、大衆浴場ってヤツは」
出て行こうとするわけでもなく、冬魔は呟いた。どこの誰だかわからない人間の入った湯に浸かり、どこの誰かも知らない視線に自らの体を晒す。別に他人が自分を注目するはずなんてないことはわかっている。自意識過剰で、ただの下らないコンプレックスでしかない。だけどやはり、それはストレス以外の何ものでもなかった。
私も似たようなものよ――シャワーに流されてしまうくらいか細い声で、りょうは鳴いた。「だって、思い知らされるだけだから……」
元々人の目を集めるのが仕事のモデルだった彼女が、誰かと比べられることを恐れる理由。それを想って冬魔は一人頷いた。同情なんてするつもりもなければ、例えしようと思ってもできはしない。彼女と同じ場所に立ったこともないのだから、同じ景色なんて見られるはずもなかった。それでも、湿った空気を通して伝わってくる胸の痛みがもどかしかった。
「……やっぱり、襲ってはくれないのね」
いつまでも何もしようとしない冬魔に、傷つけられた女としてのプライドがそう口にさせたのかもしれない。努めて明るい声を出そうとしたように思えたから、冬魔も努めて素っ気なく応えた。
「あんたを襲わなくちゃならないほど、落ちぶれちゃいないさ」
虚勢を張っているとでも思ったのだろう。女を知らない男が何を言っているのかと。シャワーカーテンの向うで、りょうが笑ったような気がした。水の流れ落ちる音と、換気扇の音だけがただ、煩かった。
「ねぇ、どうせだから冬魔くんも一緒に入らない?」
そう言うと、りょうはシャワーの水圧を上げた。冬魔の答えなんて、聞かなくてもわかっているというように。なのにそこからは、身動ぎする音一つ聞こえない。挑発の言葉は、水の深さを測ろうと投げ入れた小石だ。そうして彼女は試そうとしている。冬魔を、ではない。恐らく、自分自身を。
勢いの増した水の粒が、りょうの白い肌で弾けるのが想像できた。長く濡れた髪は背中や胸元に張り付いているのだろう。元々化粧気の薄い彼女だから、すっぴんでもきっと見とれるくらいに綺麗に違いない。それなのに鼓動も、欲望も、何も、奮い立ちはしなかった。ただ、押し殺された息でこっちの肺まで詰まりそうで、冬魔は深く呼吸をした。これ以上、下らない冗談に付き合っていられない。そう言わんばかりに、冬魔は壁から背中を離した。
空気が止まっていたから、その気配を敏感に受け取れたのかもしれない。離れていく者を繋ぎとめるようにそっと、りょうは名前を呼んだ。
――ねぇ、冬魔くん……。
そして、相変わらず何も答えようとしない冬魔の目の前で不意に、勢い良くシャワーカーテンが開いた。
遮るものがなくなって、くぐもっていた水の音がより鮮明に聞こえた。それはさながらドラマで別れの場面を演出する雨のよう。煩いはずなのに、何も耳には入ってこなかった。突然現れた透き通るような白がりょうの裸体であると気づくまでに時間がかかり、理解した瞬間、冬魔は思わず目を逸らした。突然のことで、何も考えられなかった。脳の神経が焼き焦げるような、そんな気がした。
「私を見て。お願い、だから……」
りょうのひどく静かな囁きはしかし、はっきりと聞こえた。それでも顔を上げない冬魔に、りょうはもう一度、お願いと呟いた。
恐る恐るというように視線を戻すと、りょうは真直ぐに冬魔を見つめていた。右手にはまだシャワーカーテンを掴んだままで、胸元も、股間も、隠そうとはしない。全てを曝け出したままで、そこにいる。再び顔を伏せようとする冬魔を、りょうは制した。
「……ねぇ、教えて。冬魔くんからは私、ちゃんと女に見えてる?」
――私はちゃんと、女でいられてるの?。
カーテンの裾が小刻みに揺れていた。それを握り締めている右手を通して、りょうの不安が伝わっているようだった。シャワーから流れる水滴が涙みたいに頬を落ちていき、そして彼女は目を細めた。
頷くだけで良いということくらい、冬魔にもわかっていた。それをりょうも望んでいる。自信を持ってそうだと言ってやれるほど、女の体を知っているわけじゃない。それを理解した上でもりょうはなお、気休めの一言に縋りたかったのかもしれない。
シリコンやホルモンを注入して大きく膨らんだ乳房も、股間を切除して造形した割れ目も、男にはない特徴なのは明らかだった。それでも素直に受け入れられないのは、昼間にビーチで水着の女の姿を見たせいなのかもしれない。りょうの広く張った肩幅が、比較的小さめな腰つきが、やや直線的で硬そうな全体的なラインが、どうしても男の頃の名残を思わせる。服の上からなら上手く隠せていたものが、納まりの悪い違和感となってそこに表れていた。
りょうが水着を着れない理由。温泉や銭湯に行けない理由。それは、どうしても嘘を吐き通すことができないから。どうしても、周りと比べずにはいられないから。そんなものに他ならない。目の前のやや筋肉の張った裸体はルネサンス期の彫刻のような美しさを思わせるものの、本人には到底受け入れられないのだろう。
何よりそれが彼女自身を、偽者であると責め立てているのだから。
ねぇ、ともう一度迫られて、冬魔は壁に頭をつけながら天井を見上げた。換気扇が耳障りな音を発しながら、一生懸命水蒸気を吸い上げている。
「悪いが同情を安売りするつもりはねぇよ」
ここで望まれるままにただ頷けば、りょうは満足そうに笑ったのだろうか。そんなことを、ふと思った。だけど、普段バーカウンターで彼女目当ての酔っ払い客を凛として手玉に取る彼女は、お姉さんぶって上から諭してくる彼女は、まりあと共謀して茶化してくる彼女は、そんな下らないものに縋って慰められるような、安い女であっていいはずがない。
それが客観的に信じられる一般論なのか、自分の願望なのか、冬魔にはわからなかった。ただ、いつものように張り合いのある言葉が返ってくるのを待っていた。そうでなければ、面白くもない。
それなのに――りょうは震える手で弱々しくカーテンを引いた。
「……ごめんなさい」
耳を突くそんな言葉に、冬魔は思わず溜息を漏らしていた。水音が遠ざかっていく。白く中性的な裸体も、化粧気のない整った顔も。湧き上がる湯気が遮られて、温度が少しだけ下がったような気がした。それはまるで静かに、浮ついた夢から醒めていくようだった。
「悪いけど、出て行ってくれる? でなければ、大声を出すわよ」
くぐもった声が聞こえてきて、冬魔は小さく首を振ると壁から離れた。湯気が結露してできた水滴が背中を濡らしていて、冷たかった。天井から落ちてきた雫が洗面台で弾ける。冬魔はもう一度シャワーカーテンを引いたりょうの方を見るが、そこからは水が流れる気配しか感じられなかった。
仕方なく冬魔はバスルームを出ると、ドアをそっと閉めた。雨のように水滴が床を叩く音は暫く続き、なかなか耳から離れなかった。