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June 23 14:16

 女は男の着物を身に着けてはならない。

 男は女の着物を着てはならない。

 このようなことをする者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。

(申命記22章5節)



 青い空に吸い込まれるように鐘が鳴る。それに誘われた白い鳥の番が舞い上がり、雲一つない空を滑っていく。目を疑うほど澄んだ海が、静かにたゆたう。草の香りを含んだ風を掴まえて飛ぶ鳥の白は、空の青にも海の青にも映えていた。時に追いかけるようにして、時に交わるようにしてじゃれ合う番は、どこかの歌人が歌ったような孤独とは無縁に感じられた。


 まるで絵に描いたような幸せな風景だな。冬魔は苦い煙草の煙を吐き出しながら思う。


 見渡す限りの青い空に青い海。目を凝らさなければ見つけられないくらいに水平線は混じり合い、そこへ手を伸ばすように岬が突き出している。表面を覆う瑞々しい草の緑は照りつける太陽の光に萌え、時折吹く風に波打っていた。それらを背景にして佇む純白のチャペル。地中海風を意識した白壁の隣で、赤いハイビスカスが揺れている。


 誰かが馬鹿みたいに憧れて、陳腐なまでに具現化した、そんな景色。


 建物の入り口前に設けられた赤レンガの階段脇に礼服の人が並ぶと、もう一度高らかに鐘が鳴った。それに合わせて焦げ茶色した木目調のドアが厳かに開く。奥から出てきたのはやはり、一組の男女の番だった。それを冬魔は、噴水のあるロータリーを挟んだ反対側で見つめている。


 二人が一歩陽の下に歩み出ると、人の列から歓声が上がった。同時に花びらが振りかけられる。お幸せに――漏れ聞こえるそんな言葉が、独り身の冬魔の胸を衝く。タキシードとウェンディングドレスの白の眩しさに、冬魔は眉を顰めた。


 半分以上も燃え残った煙草を投げ捨てると、美味くもない煙を吐く。ニコチンだかタールだかの成分が血管を縮ませ、思考を、そして感情を鈍らせる。それは心に打つ麻酔みたいなものだ。だからこうして、あの時とは違って冷静に、目の前で繰り広げられる儀式を眺めていられる。


 コンクリートの上で弾けた吸殻を革靴の底で踏み潰すと、隣のりょうに目をやった。クリーム色のワンピースにデニムのボレロを羽織った彼女は、海から吹き付ける風に長い髪を遊ばせていた。猫背気味の冬魔よりも高い位置にある肩は確りと張られ、根を下ろした木のように微動だにしない。少し赤味がかった髪と白い広鍔の帽子が顔を覆い隠して、表情は見えなかった。だけど僅かに覗く顎の角度で、彼女が新婚の二人を見つめているのがわかった。


 いつか白馬に乗った王子様が迎えに来てくれるのが夢なの。以前柄にもなく女の子らしいことを言って笑ったりょうには、目の前の景色はどう見えているのだろう。車で通り過ぎようとしていた冬魔を、りょうが止めてここに降りた。少し見ていきたいから、と。それなのに、部外者が邪魔しちゃ悪いからと言い訳をして、それ以上近づこうとしない。隔てた僅か数十メートルの距離。それが彼女と、彼女の望むものとに横たわる決定的な溝のように思えた。白馬の王子様は未だりょうの前には現れないし、冬魔のもとにもまだ、お姫様はいない。


 二人の番は一歩いっぽ、ゆっくりと階段を降りてくる。一つ歩みを進める度に、脇にいる友人や親戚が祝福の声を上げる。新婦の女友達が、自分の方にブーケを投げてくれるようにせがむのが聞こえる。そこは温かな幸せで満ちているのに、冬魔たちのいる場所は冷たい静寂の底に沈んでいた。互いに痛みを胸の中に抱えているからこそ、うっかり口を開いて、感情が溢れ出してしまうのを恐れている気がした。りょうはきっと、体を震わせることも、叫ぶこともしないだろう。涙を流すことさえも。本当に苦しいときは多分、悲鳴すらも上げられない。


 もういいだろと言いかけて、だけど冬魔は黒いジャケットの内側からもう一本煙草を取り出す。口に挟むと少し迷ったあとで、結局火を着けた。


 安っぽいドラマを眺めているようだと、冬魔は思った。そう思わなければやっていられない。海岸線のドライブも、観光名所巡りも、それほど強い興味があるわけでもない。だが、ここにいるよりずっとマシに思えた。ここにいてもただ、時折甦る記憶の残滓が不味い煙草をいつもよりも余計に不味くするだけだ。なのに、言葉を失ったように立ち尽くすりょうに結局、冬魔は何も言えなかった。彼女の依頼でここに来て、彼女は望んでそこにいる。彼女が歩き出さない限り、冬魔はどこへも行けやしない。


 いつまでも終わらない祝福が、胸を焦がす。階段を降りきった主役の二人が、振り返って参列者に向かって会釈をする。その中で誰かが調子に乗って、もう一度キスして見せてと囃し立てる。照れてあたふたする新郎の肩に、新婦はそっと手を置いた。そして風に揺れていたベールを上げると、新婦の顔が露になる。


 瞬間、隣で息を呑む気配がした。りょうの肩が小さく揺れるのを、冬魔は見逃さなかった。それでも尚、彼女は視線だけは動かさない。


 今更ながらに気づく。りょうが見つめていたのは幸せに満ちた二人なんかではなかった。彼女が見ていたのはただ一人、新郎に抱き寄せられて目を閉じる新婦。そこにりょうと同じ顔をした、もう一人の彼女がいた。


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