義父のけじめ
結婚後家庭内で不和があるというのはよくある事なのですが、幸い私はそういう事はありませんでした。
「イヴァン様!」
「父さん!」
私とシリル君の声が重なって一つのものになったのは、お昼を過ぎてもう少しでお茶の時間という時でした。
二人して咎める声を飛ばしたのですが、肝心のイヴァン様は何処吹く風。いつもの事ですし良いのですけど、これが恒例になるというのも複雑な気分です。
「あのですねイヴァン様、家の者に言付けなしにフラフラ出て行って頬に腫れ作って帰ってきたら慌てますからね。何故連絡を寄越さなかったのですか」
「お忍びならお忍びで家の者に声をかけてください、というか父さん何で腫れてるんですか。もしかして殴られました? あなたという人がわざわざ黙って殴られるなんて余程の事をしたのでは?」
「……いやうん、分かってるんだけど君ら遠慮なくなったよねえ」
姉弟で声を合わせて追及すると、イヴァン様が苦笑します。
イヴァン様が自由人なのはいつもの事ではあるというか慣れてしまいましたが、流石に頬を腫らしたとなるとへらへら笑ってスルーは出来ません。
何処かにぶつけた、という線がなくはないのですが、故意のように見受けられるのです。もし誰かが公爵家当主に暴力を振るったとなれば大問題に発展しかねません。
でも暴力を振るわれた、と断定するにはイヴァン様が呑気すぎるのですよね。怒りとか微塵もないようですし。
「兎に角、治癒術かけますからそこに座って下さい」
何が理由にせよ流石にこのままにしておく訳にもいきませんので、手当てはさせて頂きます。
腫れくらいなら治癒術をかければ直ぐに引くでしょう。セシル君の負った傷とか程酷いなら別ですけど、これくらいならお茶のこさいさいです。
ちょっと戸惑い気味のイヴァン様の手をとってソファに座らせ、そのまま頬に手を翳して治癒術をかけます。
抵抗はせずにされるがままになってくださるので、私としても有り難いのですが……一体何故腫れを作ってきたのでしょうか。……イヴァン様なら痴情のもつれも有り得るな、と一瞬失礼な想像をしてしまったので反省しなくては。
「……で、何故このような腫れを拵えて来たのでしょうか。ご説明頂けますか」
腫れが完全に引いたところでシリル君がやや刺々しげに問いかけます。
けど悪意がある訳じゃなくて心配からだと分かっているので、イヴァン様も笑みのまま。
「えーと、そうだね。殴られた?」
「父さんがですか」
「うん。別れ話を切り出したら殴られたよね」
……やっぱり痴情のもつれじゃないですか。
私が嫁いでからはそういう噂は聞かなくなっているのですが、元々イヴァン様は女性と懇ろになって色々としているらしくて、まあ……はい、いわゆる女遊びをしていたというやつです。
女性は嫉妬深い方も多いですし、ふらふらとあっちへこっちへ行き来しているイヴァン様にお怒りになる方もいらっしゃるでしょう。
ですので、殴られる……事はまあ、ある種仕方ないのかもしれません。
怒らないのは、多分起こってしまえば家同士の問題になるからでは。
シリル君は聞いただけで呆れた顔です。……でも驚きがなかったのは、多分女性関係でいざこざがあるのは想定内だったからかもしれませんね。
「あのですね父さん、あなたの女癖の悪さは身に染みて理解しているつもりなのですが、流石に殴られるまで恨みを買っていたなんて」
「いやまあ、これは弁解の余地はないねえ。僕が悪い訳だし」
「……何を言ったのですか」
「親交のあった女性全員に別れを告げてきた」
あっさりした口調で告げられた言葉に、私もシリル君も目を丸くして顔を見合わせます。
……全員に別れを? あれだけ噂になっていたイヴァン様が?
いえ確かに私も女遊びは止めた方が良いとは言いましたけど……。
何と言っていいのか分からない私にイヴァン様は苦笑して、すっかり腫れの引いた頬を掻きます。
「少しずつ別れを切り出して納得させてきたんだ。基本的には互いに火遊びとして会っていたし、後腐れのないように互いに割りきった関係だったから。でも最後の女性がどうも僕にご執心だったらしくて。まあちょっといざこざあって、一発頂いた」
「……どうして別れを切り出したのですか? 縁を切るにしても、もっとやんわりする事も出来ましたよね」
女遊びを止めた、というのが私には不思議です。イヴァン様は良くも悪くも女性が好きです。それに何かあってものらりくらりとかわすイメージがあります。
なのに何故別れを、そして話をこじらせる事になっているのでしょうか。そこが私には分からないのです。
シリル君も同様だったらしく、殴られた事よりもどうしてそんな話を切り出したのか気になっていて、何処か困惑げ。
「んー。……どうして、と言われるとアレなんだけどね。清算したかった、のかな」
「清算?」
「君達が結婚する前に完全にしておきたかったんだけどね。ちゃんと、家庭をやり直そうと思ったから」
その一言に固まった私とシリル君。
イヴァン様は私達の硬直を理解して、その上で飾り気のない、ありのままの微笑みを浮かべます。
いつもの意味深な笑みでも、飄々とした笑みでも、女性を惑わせるような蠱惑的な笑みでもない。穏やかで、何処か憂いげにも思える繊細な笑み。
「驚く事はないだろう。向き合うと言ったのは僕だしね。君も止めた方が良いと言っただろう?」
「……その為に?」
「そうだね。リズベットに言われた後から止めていたんだよ。ちょっとずつ、別れを切り出してきた。……せめて誰か一人に決めたら良かったものを、後妻も取らずにふらふら女遊びをしていたのがそもそも悪いんだけどね。温もり求める癖に、誰にも心を移せなかったんだから」
イヴァン様、特定の相手は作りません。
私も人伝に聞く限りでしたが、誰かにご執心とかは聞きませんでしたし、イヴァン様も誰か一人に決めていた訳でもなく、ただ遊んでいたそうで。
……それが孤独を癒やす為だった、と思うと何とも言えない気持ちになります。
手段が間違っている、と断じるのは簡単です。
でも、イヴァン様にはイヴァン様なりの理由でそうしていた。一概に責められるものでもありません。
「……父さん、一つ聞いても良いですか」
「何だい」
「……父さんは、母さんを、愛していたのですか」
恐る恐る投げられた、問い掛け。
イヴァン様はその言葉に少しだけ金眼を丸くしたものの、直ぐに和らげます。
「そうだね、まあ信用ならないかもしれないが、僕なりに彼女を愛していたつもりだったよ。……分かりにくすぎて、妻を追い詰めてしまっただろうけど」
「……そう、ですか」
「別に、僕を責めてくれても良いんだよ。妻が心を病んだ根本的な原因は僕にあるのだから」
「……いいえ。誰が悪かった訳でもないと思います。あなたも、兄さんも。ボタンを、かけ違っただけで」
「そうかい」
その言葉に少しだけ端整な顔をくしゃりと歪めたイヴァン様。
シリル君にも蟠りはあったのかもしれないけど……それでも、受け止めて、飲み込んで、受け入れて、家族になった。
それを再確認したようで、イヴァン様は少しだけ困ったように眉を下げて……でも、嬉しそうに笑うのでした。




