42 「……そうか、私は泣いていたのだな」
シュタインベルト公爵家嫡男であるセシル君とアデルシャン侯爵家の令嬢である私の婚約が発表されると、社交界はそりゃあもう色々な意味でざわめきました。
理由は色々あるのですが、犬猿の仲とまで言われた両家の子息子女が恋仲になっての婚約とかが大きな理由ですね。
代々仲が悪かった上にゲオルグ元導師とお祖父様が非常に仲が悪かったのが原因でもあるでしょうが、兎に角水と油な関係だったそうで。
そんな両家との間で結ばれた婚約だから、驚きもひとしおなのでしょう。ただ、私達の仲良し具合を知っている人は収まる所に収まったと評していますが。
よく分からないですけど、私達の婚約が決まって年頃の貴族の子は咽び泣いたとか何とか。
まあ狙い目でしたもんね、私は陛下の知己である父様が当主を務める侯爵家の令嬢で魔力は膨大、見掛けはまあそこそこで、気性は荒くないつもり。割と優良物件だった訳です。
それはセシル君にも言えて、セシル君は反乱云々でちょっと落ち目にこそなっていますが公爵家の嫡子。魔導師としての能力、それに加えて研究室を任されるくらいに賢く優秀です。見掛けは月みたいな冷たいけど柔らかさを感じる冴えた美貌。そりゃあもてもてです。
ただまあ、セシル君自身人付き合いが苦手だったので、女性でまともに話してるのは私がフィオナさんくらいなものでしょう。
そんな私達の婚約で社交界が色めき立ったのです。お披露目のパーティーを開かなければと父様コンビが言ってて、私はそれを待つ状態でした。
……そして、私はこの時間に、ある人に会わなければという思いに駆られ、書簡で謁見を賜りたいと願いました。……そう、ユーリス殿下に。
「ユーリス殿下」
二つ返事を頂いた私は、殿下の元に案内されます。
殿下は応接室で窓の外を眺めていましたが、私の声にゆっくりと振り返ります。その表情は、穏やかなもの。社交界であれだけ騒がれているのですから、間違いなく殿下の耳にも届いている筈でしょう。
それでも、殿下は落ち着いた表情でした。
「リズか。話は聞いているぞ、セシル殿と婚約するのだな」
やはり、知っていらした。でも、眼差しは優しくて、怒ったような気配など一切ありません。
それが、逆に申し訳ないのです。
「……申し訳ありません」
「何故リズが謝るのだ」
「私は殿下の想いに応えないまま、殿下の知らない所で婚約しました、から。ちゃんと、向き合うべきだったのに」
そう、私は殿下の気持ちに答えずに、セシル君と婚約を結んだ。
私は殿下の気持ちはとうの昔に気付いていました。私の事が本当に好きなのだ、と。それでも、正式に言われないからと誤魔化して逃げて、そして殿下に不意打ちのように残酷な答えをあろう事か人伝いに教えてしまったのです。
ちゃんと、自分の口で伝えるべきだったのに。
「だからこうして向き合いにきたのだろう?」
「はい」
「では聞こうか。……リズ、私はあなたが好きだ」
「……ごめんなさい。私は、セシル君が好きです。ユーリス殿下の気持ちには、応えられません」
……殿下だって分かっていて、告白したのに。殿下の方が苦しい筈なのに。
それでも、殿下は清々しいような、初夏を思わせる爽やかな笑顔を浮かべたのです。瞳が一瞬翳っても、直ぐに夏の碧空にも似た澄んだ青に戻る。
それが痛みを飲み込んでのものだと分からない程、鈍くはありません。
「構わん。……これで踏ん切りが付いた」
「私を責めないのですか」
「責めて何になる? 私は思い通りにならなければ癇癪を起こすような未熟者に見えたか?」
「そんな事は!」
心外だな、とからかうように笑った殿下に、首を振って唇を噛み締めます。
……そんな事ある筈がないでしょう。殿下は、私が知るよりずっと大人になっている。昔の殿下のように、可愛らしく拗ねたり、思い立ちで行動したりしない。思慮深く、聡明な方に育った。
だからこそ、私の事も、飲み込めたのでしょう。何をされても、私の意思は覆らないと悟っていたから。
「正直言えばとても不愉快だし悔しい。だが、喚いた所でリズの婚約がなくなる訳でもないのだ。幾ら王家とはいえ既に婚約した仲に横槍を入れる訳にはいかない。入れた所で、リズの心が手に入るとは思わないがな」
「……申し訳ありません」
「責めてはいないぞ? リズにとって、良き縁となっただろう。家柄に問題はないしセシル殿は優秀でリズ思いと聞く。リズにとってこれ以上にない程に幸せな相手だと思う」
リズが望んだ相手なら、私が口出ししても仕方ないだろう。そう呟くように口にした殿下の瞳を見て、私はじわりと目頭が熱くなって視界がどんどん滲むのを感じました。
青空から雨が振って、頬を伝っている。あんなにも晴れ晴れとした青なのに、音のない悲鳴を上げるように、次々と雫を零すのです。私が、青を霞ませようとしているから。
「縁の先が私に結ばれていなかったのは残念で仕方ないが、どうしようもない。……リズ、何故泣くのだ」
「殿下だって」
私が涙を落としたのは、殿下の悲痛な色を見てしまったから。卑怯な自分を思い知ったから。……殿下に同情を抱くのは、間違っているのでしょう。私が、振った癖に。
私の指摘に殿下は頬に手を添えると、涙が伝っていた事に気付いたらしく僅かに目を丸くしていました。
「……そうか、私は泣いていたのだな」
染々と呟かれたことばにもう一度謝ろうとすれば、殿下に手で制されます。びくりと体を震わせれば「謝らなくていい、リズの決断なのだから自信を持て」と優しげに囁かれて、堪らずまた涙を落としてしまいました。
……私は私の気持ちを優先したのに、殿下は、私を尊重してくれた。文句の一つくらい言われても仕方ないのに、責められても仕方ないのに。
私が泣くべきではないと分かっていてもひとりでに落ちる涙をそのままにする私に、殿下は穏やかな表情でそっと私の頭を撫でます。
……ああ、いつから逆転したのでしょうか。本当に、私は子供になってしまっている。殿下は、立派に成長した。私なんかより、ずっと。
「……リズ、一つだけ最後に、お願いを聞いて貰っても良いだろうか」
「私に出来る事なら」
私の身勝手な思いを尊重してくれた殿下に少しでも返せるものがあるなら、返します。……この人の十一年を奪ったのは、私だから。
「目を閉じて欲しい。ああ、暴力を振るったり唇を奪うとかはしないぞ」
「……分かりました」
きゅ、と瞼を下ろすと、殿下は静かに私の背中に手を回して、優しく抱き締めます。
それから、嗚咽を堪えたような息遣い。
……ああ、私が殿下を泣かしているんだ。殿下を、傷付けた。殿下の想いを無為にした。ジルの時もそうだった。……私はこの人達でなく、セシル君を選んだから。
どうしようもないって、分かってるけど。それでももっとやりようはあったんじゃないかって、思います。今更言っても詮なき事ですけど。
肩口に顔を埋めて静かに、そして微かに背中を震わせる殿下に、私は口の中で「ごめんなさい」と小さく囁いて、殿下の悲しみも悔しさも憤りも全部受け止めるつもりでそっと手を背中に回します。
暫く抱き締めて満足したらしい殿下は、ゆっくりと離して。
それからもう良いと囁くのです。目を開ければ、頬をやや濡らした殿下の笑顔が、飛び込んでくる。……その笑顔に後悔なんてなくて、とても綺麗で。
「私は、リズとセシル殿の仲を祝福しよう。幸せになってくれ」
「……ありがとう、ございます」
私が泣いてどうするんですか、と歯を食い縛り、震える声ながらも出来る限りの笑顔でそう返して、私は頭を垂れました。
帰りに、研究室にあるセシル君の私室に寄ると、セシル君はやっぱりそこに居ました。
「……リズ?」
俯きがちに、そしてノックもせずに入ってきた私に、セシル君は戸惑いの声。リラックスしていたのかコートは着てなくてシャツでベッドに転がっていたセシル君に、私は躊躇う事なく駆け寄ってそのままセシル君に飛び込みます。
うお!? という驚愕と狼狽の声は聞こえたけれど、今すぐセシル君に触れたくて、そのままセシル君に跨がってセシル君が起き上がるのを待ちます。
はしたないとか、嫁入り前の女児が、とかそんな常識は、今はどうでもよかった。セシル君に触れたかった、声が聞きたかった。
体を起こしたセシル君は何だかとても気まずそうに此方を見るのですが、私の顔を覗き込んで、息を飲みます。それから、そっと背中に手を回して、私を抱き締めてくれました。
「誰かに泣かされたか?」
「……私が悪くて泣いてます。私って凄く嫌な女だと思い知らされるのです」
「お前が嫌な女なら、世の中もっと嫌な女だらけだよ」
「……私は、ずっと殿下の気持ちに向き合わないで、殿下に酷い事してるんですよ?」
「殿下に言ってきたのか」
それだけで何があったのか察したらしいセシル君は、ただ優しく抱き締めては頭を撫でてあやすように触れてくる。
「……殿下は優しいって、改めて思います。私、本当に何でもっと早く言わなかったんでしょう、そうしたら此処まで傷付ける事はなかったのに」
「お前っていつもそうだよな。ジルの時も泣いただろ」
「……ばれてたんですか」
「言わないでおいたけどな。お前が気丈に振る舞っていたから」
我慢して堪えてたから何も指摘しなかった、そう言ったセシル君は最初からお見通しだったのですね。私がジルの事を吹っ切るまで、泣いて罪悪感を胸の内に滞在させていた事を。
……表に出さないようにしてたのにな。
「お前は本当に、抱え込むやつだな」
「だって」
今回は、耐えきれなくて、セシル君に縋ってしまいましたけど、本来なら私が飲み下して内側で消化しなければならなかった想いです。それに、セシル君としては自分の恋人が告白されたって聞くのは、嬉しくないと思って。
「……お前が悪女なら、さしずめ俺は悪魔か何かだよ。お前をたぶらかしたのは俺だから」
「違います! 私の意思でセシル君を好きになったんです!」
「じゃあ仕方ないだろ。言っちゃ悪いがな、幸せなんて誰かの犠牲に成り立つものだ。お前は誰かを犠牲にする度に一々泣くのか?」
「っ」
「ごめんな、言い方が悪かった。……リズは、全部自分のせいだと思い込みすぎなんだよ。リズが選べるのはただ一人だ、選ばれなかったなら選ばれなかった奴に責任がある。それとも、俺を選んだ事に後悔してるか?」
「有り得ません!」
私はセシル君が好きで、セシル君を選んだ。殿下達の事は申し訳ないと思ったけど、自分の心には嘘はつけないし、セシル君を選んだ事に後悔なんて微塵もありません。
それだけは譲れないのできっぱりと答えると、少しだけ嬉しそうに口許を綻ばせたセシル君、私の頬をやんわりと撫でます。
「なら、それは仕方のない事だと割り切ってくれ。……誰もが幸せになれるなんて、思うな」
「分かってる、けど」
「お前にとっては薄情かもしれないが、俺は自分とお前の幸せしか考えるつもりはない。お前は掌に乗る分しか抱えないだろう? お前の掌には、一人しか乗せられないんだ。俺にとってもそうだ、お前しか乗らないから、他の求婚なんて蹴ったしお前を選んだ」
「……ぁ」
……セシル君だって、沢山、求婚が来てましたよね。その中には、本当にセシル君を好きになった人だって、居たかもしれない。
でも、セシル君はそれを拒絶して、私を選んだ。私が好きだから。
「……全部掌には乗らないんだよ。だから、俺はお前を全力で幸せにする。お前が泣いた分よりももっと、幸せにする。それが俺に出来る、俺が不幸にした人への手向けだ」
そう締め括ったセシル君に掌を握られて「これじゃ駄目か」と静かに問い掛けられた私は、力なく首を横に振ります。
……自分ばかり責めて悲観して、ほんと、情けない。セシル君の場合私と殿下のような交友はなかったでしょうが、それでも全部、向けられる思いを断った。思うところだって、あったでしょう。
自分ばかり、本当に情けない。
「……ごめんなさい、当たって」
「いや、良いよ。お前は優しくて甘いからな、そうなると思ってたから」
その上泣き虫だもんな、と茶化すように笑ったセシル君。笑い損ねたような顔の歪め方をする私の事を引き寄せて、密着。
「泣くなら泣いても良いぞ。その分俺が幸せにしてやる」
「……ううん、泣かない、よ。……ありがとう、セシル君。だいすき」
「そりゃ恐悦至極に存じます」
「もうっ」
今度こそ私はちゃんと笑顔を浮かべて、セシル君の胸に顔を埋めて、心で「ごめんなさい」と「ありがとう」をもう一度、呟きました。




