傘とアイスと宿題と
前回までのあらすじ。
図書館を出ると外は雨が振っていた。傘を忘れてきてしまった絵奈は、しばらく様子を見て待つことにするが、雨は止むどころか雷まで鳴る始末。そんな中、ひとりの女性に声をかけられる。彼女の気づかいに甘えて、絵奈は一緒の傘でひとまず図書館を出ることにする。
扉を押し開けると、それまでの喧騒が切り取られたかのようにはたりと止んだ。冷涼とした空気が身体の熱を徐々に奪っていく。
吹き抜けの空間。アーチ上の天蓋窓。
向かい合わせの本棚。薄紫色の絨毯。
見慣れた市立図書館である。
夏休みが始まってからというもの、絵奈は毎日のようにこの図書館へ通っていた。初めは参考書を目当てにして訪れたつもりだったのだが、いつの間にかここで宿題をするのが習慣化してしまっていた。
司書の咳払いがわずかに響いた。
今日はあの人来てるかな。
傘を抱えたまま、絵奈はいつも座る学習席へと移動した。
一昨日出逢った女性は、同じ学習席でよく見かける人だった。仕切りから覗く、鼻筋の通った横顔と白い首筋がとても印象的で、二、三度となりに座ったこともあってか、わりあい記憶に残っていた。
もちろん、言葉を交わしたのは一昨日が初めてだった。
ひょっとすると、あの日も近くに座っていたのかもしれない。宿題に集中していたつもりはないが、窓際に座っておきながら天候に気が廻らなかったぐらいだから、となりに座っていたとしてもきっと気がつかなかっただろう。
突然の、しかし珍しくもない夕立。
あの後、特に会話もないまま、ふたりしてひたすらに雨にけぶる通りを歩いていた。男ものの、比較的大きい傘だったために濡れはしなかったが、ひとつの傘で一緒に歩くというのはかなり恥ずかしく、それがほとんど初めて逢う人となればなおのこと、絵奈は自分の足元を見るより他なかった。
帰り道が分かれたのは図書館を出てわりとすぐだった。すぐとはいっても、一本道だったから結構な距離は歩いていたし、走れば少し濡れる程度で済むくらいには家も近かったのだが。
実際雨の中を走ったのは絵奈ではなかった。相手は絵奈に傘を渡した後、あっという間に雨の中に消えてしまったのだ。追うのはおろか声をかけるヒマもなかった。
何やら傘ごと置いていかれた気分だった。
ただ別れ際に相手のいった、じゃあまたね――という言葉は、また図書館で逢おうねという意味だと絵奈は理解していた。だからてっきり次の日も逢えるものと思って昨日も傘を持ってきたのだが。
果たして図書館に彼女の姿はなかった。
明日は休館日だ。
できれば今日、逢えるといいのだけれど。
絵奈は本棚の脇からそっと顔を出し、窓際の学習席を覗き見た。空席の並んだ先、一番奥の席に自然と目がいく。
鼻筋の通った横顔。白い首筋。
いた。
あの人だ。
絵奈は安堵したように小さく息をはいた。
よかった。今日は来てたんだ。
持ち主を見つけただけで、傘を半分返してしまったような気分だった。事実そうだったし、傘を渡せたら今日はもう帰ってもいいかな、とさえ思っていた。
問題はどう声をかけるかだった。
この傘ありがとうございました、でいいのだろうか。いや、それだと唐突過ぎる。何か前に言葉を入れなくては。一昨日この傘を借りたものなんですけど、と切り出すのはどうだろう。
いいかもしれない。
すいません、一昨日この傘を借りたものなんですけど。ありがとうございました。すごく助かりました。これ、お返しします。
よし。
これでいこう。
絵奈は一度本棚の後ろに身体を隠した。深呼吸する。今学習席を利用している人はあの人を除いてひとりもいない。少しくらいなら、声を出しても迷惑にはならないだろう。
大丈夫。
お礼をいって傘を渡すだけだ。
確認するように再び覗き込んだ絵奈はしかし、
「あ」
と間抜けな声をあげてしまった。
細くしなやかに伸びる眉。
二重のパッチリとした瞳。
どうしよう。目が合っちゃった。
「ご、ごめんなさいっ」
慌てて本棚の陰に隠れた。
なんで謝っちゃったんだろう。
絵奈は傘を抱いたままずるずるとしゃがみ込んだ。膝に顔を埋める。耳が少し熱い。
傘を置いてこのままどこかに消えてしまいたいと、いっそう強く傘を抱き寄せた時、ふいに後ろから肩を叩かれた。
反射的にビクついて、そのままでいたらもう一度叩かれた。
ゆっくりと振り返る。
眼前には相手の顔――ではなく、ノートが迫っていた。少し近い。何か書いてある。頭を引いて焦点を合わせると、そこにはとてもきれいな字でこう書いてあった。
『よかったら休憩室で一緒に話さない?』
ゆっくりと降ろされたノートの向こうでは、唇に人さし指を押し当てたきれいなお姉さんが、嬉しそうにウィンクしていた。
休憩室はがらんとしていた。壁際に並んだ自販機が唸る機械的な音が、こもって響いている。
「何か飲む?」
相手は財布を取り出した。
「そんな、いいです」
「じゃあアイスなんてどう?」
絵奈は首を振る。
「遠慮しなくていいのに。あ、なんかこれ新しいの出てるじゃん」
アイスの自販機には、モナカやアイスバーと並んで、薄らと黄色いソフトクリームの絵が載っていた。
「黄粉バニラソフトねえ。おいしいのかしら? でもこうしてアイスになっちゃったら、全然ソフトじゃないよね」
「あ、あの」
絵奈は息を吸った。
「この傘……この傘ありがとうございましたっ」
考えていたはずの言葉はそれ以上ひと言も出てこず、絵奈は抱いていた傘をのろのろとさし出した。けれども相手は、いいよいいよ、といって受け取ろうとはしなかった。
「別にそれアタシんじゃないし。入口に置いてあったのを適当にかっぱらっただけだからさ。結構前から置きっぱなしだったし、一昨日はアタシも傘持ってなかったしね。あっ!」
ジャラジャラと、つり銭口がうるさい音を立てる。
「うわー、全部十円玉で出てきたよ。あ、もしかして昨日も来てた?」
「はい」
「そっか、ごめんね。昨日はアタシ来てなかったんだ」
「いえ、そんな。でも、この傘どうしましょう?」
「どうしようね。もとはといえばアタシが勝手に持ち出したんだし、とりあえずもらっておくよ。後でちゃんと置き傘しておくから」
ありがとねと、ようやく傘を手に取ってはくれたが、
「はい、新作アイス」
と代わりに今買ったばかりのアイスを渡された。
「昨日わざわざ来てくれたお礼も含めて、ね」
「あ、その、絵奈は別に」
「もしかして黄粉嫌いだった?」
「大好きです」
思わず答えてしまった。
「じゃあよかった。あっちの席で一緒に食べよっか」
そういって一番隅の席を指す相手の手にも、絵奈と同じアイスが握られていた。
ふたり、向かい合って座る。
「まあまあな味ね」
舐めるというよりかじるようにして食べながら、相手はアイスをそう評した。
「ここのアイス全部食べたけど、やっぱりどれも同じ感じだねー。十種類じゃ少ないと思わない?」
「そうですよね」
沈黙。
「最近よくここに来てるよね」
それが自分に向けられた言葉だと気づくのにしばらく時間がかかった。
「ほら、学習席でさ」
「あ、はい」
「宿題でもしてるの?」
「はい。そうです」
「やっぱり家じゃやりにくいよねー」
「はい」
「なんであんなにたくさん出すんだろうね。先生もちょっとは考えて欲しいよね」
「そうですよね」
さっきから返事か相槌しか打っていない。アイスを奢ってもらっておきながらかわいくない娘だな、と絵奈は自分でも思う。
今日に限って財布を忘れてしまった。そもそも鞄に入れた記憶がなかったから落としたわけではないにしても、一昨日の傘といい今日といい、実にタイミングが悪い。悪過ぎる。
申しわけなさやら恥ずかしさやらで、絵奈はアイスを食べてもなんの味も感じなかった。そのことでもったいなさが加わって、よけいに気が滅入ってしまった。
早々とアイスを食べ終えた相手がいう。
「学校どこ行ってるの? 一昨日逢った時は家が近いみたいなこといってたけど」
少しだけ迷って、絵奈は学校名をそのまま口にした。相手は少し驚いた様子を見せ、絵奈はその反応で、だいたい相手の考えていることを察した。。
初対面の人はみな、絵奈を見て十中八九同じ勘違いをする。それも仕方ないことだとは自分でもわかっているし、そういった反応にも慣れているつもりだったのだが、
「ごめん、アタシてっきり小学生かと思ってたわ」
といわれるとさすがに少し傷ついた。
「絵奈は高校生だよぅ」
図らずとも、拗ねたような口振りになってしまう。
「ちょっと待って。今何年生?」
「一年です。今年入学したばかりです」
「うわー、アタシと同い年だわ」
「えっ!」
今度は絵奈が驚いた。
「もしかして年上だと思ってた?」
二度ばかり頷く。
やっぱり老けてるのかな、と片肘をついて少し落胆した様子で、相手は溜息をついた。
「そ、そんなことないです」
慌てて否定する。
「その、大人っぽいなって」
「似たようなものでしょ?」
「ご、ごめんなさい」
「いや、別に謝んなくていいよ。それより、えーっと、絵奈……だっけ?」
「あ、はい。絵奈です。小口絵奈です」
「アタシは網代結麗。よろしくね」
「よろしくお願いします」
「同い年なんだからタメ語でいいよ。それより絵奈の高校ってさ、すごいお嬢様学校だよね? 私立だし、学費もバカにならないでしょ?」
「そう……なのかな。こっちに来たばかりだから、絵奈、そういうのよく知らなくて」
「引っ越してきたってこと?」
「うん。去年におじいちゃんが亡くなっちゃって、その、おばあちゃんがひとりになっちゃうからって。だから三月に家族ごとこっちに」
「あ、そうなの。ってことは越境入学?」
「たぶん。でも、前の家からでも電車で二時間ぐらいだから、そんなに遠いってわけじゃないんだけど」
「頭いいんだ?」
「そんなこと!」
激しく首を振る。
「絵奈、全然頭悪いよ」
「いや、アタシここにずっと住んでるけどさ、アソコは色々と違うよ。ってか二時間ぐらいの距離ならさ、あの高校の進学率とか試験の難易度とか、それぐらいは知ってるでしょ?」
「その、えっと」
絵奈は思わず口ごもってしまった。
その態度で結麗はおおかた察したようだった。
「なんだ、やっぱり頭いいんじゃない」
「違うよ。先生に相談したらあの学校紹介されて、それで」
当時はまだ引っ越すことも決定ではなかったし、だから地元の高校を受験する選択肢もあったのだが、正直なところ絵奈としてはどちらでもよかった。担任に相談した時も、相談というより質問に近かった。
もし引っ越した先でも、自分の内申で受験できる高校はあるのだろうか、と。
そこから合格の知らせが来るまではあっという間だった。
よくわからないうちに推薦枠が通ってしまったのだ。正直いって受験をした自覚がなかった。制服を着て高校に行って、自己紹介をして家に帰ったら、数日後に先方から膨大な書類が届いただけなのである。
そして、当然家族も引っ越すことが決定した。
実際どちらが先にあったのかはわからない。祖父が亡くなった時には、もうすでに家族の気持ちは今の家に傾いていたように思う。事実、小学生の弟は転校することになんの抵抗もなかったし、むしろ喜んでさえいた。
なんでもいいから契機が欲しかったのかもしれないと、今では思う。それがたまたま受験だっただけのことで、些細なことといえば些細なことなのだ。
「網代さんはどこなの?」
「普通の公立だよ。絵奈がそんなんだったら、名前をいっても知らないと思うけど」
結麗のいう通り、高校名を聞いてもわからなかった。
「ごめん、絵奈本当によくわからなくて」
「いいよ。偏差値も下の下だし。生徒もアタシみたいなバカばっかりだよ」
「でも共学だったら、その、か、彼氏とかいないの?」
いない、いないと結麗は大袈裟に手を振った。
「クラスでも、まあつき合ってる娘は何人かいるみたいだけどね。そういう絵奈は?」
「そんなのいないよ。女子高だし」
「でもほら、他校の男子が門で待ち伏せとかよくあるじゃん」
漫画やドラマでよく見る光景は、悲しいかな当事者であることはもちろん、一度も見たことはなかった。
「あ、でも、誰かは知らないけど、迎えの車みたいのが停まっているところなら、なんどか見たことはある、かな」
「うわー、さすがはお嬢様学校」
住んでる世界が違うわと、結麗はあきれたような顔でいった。
「やっぱりみんな縦ロールなの?」
「縦ロール?」
「ほら、お嬢様っていったらさ、長い髪をクルクルーって巻いてるじゃない」
そういって結麗は自分の髪を指に絡ませて、下へするすると滑らした。
「見たことはある、けど」
そう多いわけでもない。自分と同じく短い髪型の娘だって結構いる。もっとも、こんなおかっぱのような子供っぽい髪型は自分だけかもしれないが。
「みんな普通だよ」
「そっかー。あ、それよりさ、絵奈」
「何、網代さん?」
「アタシがバカだってことは否定しないんだ?」
結麗がゆっくりと眼を伏せる。
「あっ! それは、その……」
絵奈の反応を見て肩を震わせていた結麗は、
「ふふっ」
と噴き出して、笑った。
絵奈もつられて笑う。
「よかった。笑ってくれた」
「え?」
「いや、ずっと怖い顔してたからさ」
「絵奈、そんな怖い顔してた?」
どっちかっていうと警戒してたかなと結麗はいった。
「そりゃそうだよね。一昨日は傘渡したままどっか行っちゃうし、今日は休憩室に連れ出すし。それに詮索するようなことしか訊かないしね」
「そんなことないよ。絵奈は、その、初対面の人と話す時緊張しちゃう性格だから、それが顔に出ただけで」
そう口に出すとなんとなく気恥ずかしくなって、絵奈はお辞儀でもするかのように下を向いた。手持ち無沙汰に、ようやく空になったアイスの容器を弄ぶ。
「でも、アタシとは初対面じゃないよね。少なくともお互い顔は知ってたわけだし」
「そうだけど、見かけてただけだし。それに絵奈、すごく口下手だから」
「うっそだぁ。こんなにしゃべれてるのに?」
しゃべれているのだろうか。
そういわれてみれば、そうかもしれない。
いつの間にか自然と――という言葉がもう既に不自然なのだが――会話しているのだ。そこには一昨日の帰り道で感じた恥ずかしさも、本棚から覗き見ていた時の緊張感もない。
クラスメイトですら、いまだに上手く話せないというのに。
少しだけ視線を上げると、傘の柄が視界に入った。
網代さん、と絵奈は声をかける。
「一昨日は、その、あの後どうしたの?」
「あの後って?」
「ほら、その、絵奈に傘渡して」
「あー、あれね」
結麗はちらりと、傍らの傘を見た。
「あの時はごめんね。急にどっか行っちゃって。実はバイトに遅れそうでさ。シフト変わってたの忘れてて」
「そうなんだ。どこでアルバイトしてるの?」
「あそこからすぐの、マギって喫茶店。知らない?」
「青い看板の?」
「そう、そこ。もしかして来たことある?」
「こっちに来てからはない、かな。遊びに来てた時は、たぶん二回ぐらいなら」
「あ、そっか。今の家、おじいちゃんのっていってたっけ。アタシもバイト始めたのつい最近だし。じゃあ一回もアソコでは逢ってないってわけか」
「みたいだね。もしかして昨日もアルバイト?」
「昼からだったけどね。実はこの後もあるんだ」
「そっか。大変だね。時間は大丈夫なの?」
「うん、今日はシフト通りだから。っていっても、もう少ししたら行かないといけないんだけど」
やっぱりめんどくさいわーと、結麗は腕時計を恨めしそうに睨んだ。絵奈はその仕草になんとなく笑ってしまった。
「どうしたの?」
「あ、ごめん。ただ、その、網代さんってなんか面白なって」
「そう? 初めていわれたなー、そんなこと。アタシからすれば絵奈のほうがよっぽど面白いと思うけど」
「絵奈が? そうかな?」
「本棚から人のこと覗き見するところとか、特にね」
「あ、あれは、その」
眼が合ったと思った瞬間に思わず洩らした、あの間抜けな声を思い出して、絵奈は黙り込んでしまった。
ごめんごめんと、結麗が手を振りながら笑う。
「まあでも、返しに来てくれるなんて思わなかったから、ちょっとびっくりしたけどね。あ、そうだ絵奈」
といって結麗は座ったまま少し前に出た。桃のような匂いがする。
「明日ヒマ?」
「ヒマ……かな」
実のところ毎日ヒマである。
「じゃあさ、明日ウチの喫茶店に来ない?」
「いいけど、どうして?」
結麗は答える代わりに顔の前で両手を合わせた。
「お願いっ! アタシに宿題教えて」
「あ、網代さん?」
落ち着いて、と上ずった声で絵奈はいった。
「でも、その、学校違うし、習ってるところも違うかもしれないし」
「大丈夫、大丈夫」
アタシんとこレベル低いからと、結麗はよくわからないことをいった。
「じゃあ、せめて一緒に宿題やろうよ。アタシ誰かと一緒じゃないとできないっていうか、一人じゃ全然集中できなくてさ。ダメ?」
「ダメじゃないけど」
絵奈は下を向いた。
本当のことをいえば嬉しかった。同時に少し恥ずかしかった。照れくさいといったほうが正しいかもしれない。
なんだか友達みたいだ。
「網代さん」
「うん?」
「明日は、その」
目だけを上に向ける。
「絵奈は何時に行けばいいの、かな?」
結麗の顔が明るくなった。
「明日は早番だし、お昼頃には終わるつもりだから……あ、そうだ。よかったらさ、早めに来てランチでも食べててよ。ウチんとこのサンドイッチけっこうおいしいし、二階ならいっつも空いてるからさ」
「えっと、それなら一時くらいでいいのかな?」
「いいよ。なんならそれより前でも構わないし」
絵奈が頷くと、決まりねといって結麗は笑った。
結麗は再び時計を確認すると、
「じゃあアタシそろそろ行くわ」
といって立ち上がり、傘を手に取った。
「この傘もちゃんともとに戻しておかなきゃいけないしね。それじゃあ、明日待ってるから」
「あ、うん。行ってらっしゃい」
「ありがと」
手を振る代わりにウィンクして、結麗は休憩室を後にした。




