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第4章  嘉吉の乱


第4章嘉吉の乱



 赤松家は初代将軍尊氏を助けて活躍した。それで摂津・播磨・美作など五カ国を貰い、その守護職となっていた。     

 赤松家当主赤松満祐は60歳を過ぎ倣岸不屈の性格で、領国の跡継ぎを考えている時期でもあったが、足利将軍家の動向を大いに気にしていた。

と言うのも、

 今から14年前の応永34年、赤松家に内紛が起きた。

 4代将軍足利義持は、一族の持貞の甘言、讒訴(ざんそ)のままに満祐を攻めた。

しかし、足利義持の寵愛を受けた持貞の専横を厭う攻略軍の諸将が連署し、義持に反抗して赤松満祐の赦免を強硬に願い出た。

 この事件はまさに義持の政治的な失敗であった。その時は寵愛する赤松持貞を自殺させて収まったが、当の赤松満祐は将軍家にふくむところを持つようになった。


 6代将軍の義教は絶えず地方豪族の弾圧を強硬におこなっている。さらに、前騒動の原因だった持貞の子の貞村を義教が寵愛している様子が、満祐にしてみれば一層不気味に思えていた。

 当の貞村自身は義教に忠実に仕えているに過ぎないが、満祐としては警戒の眼を見張り不安の耳を立てずにはいられない。

 その頃に、赤松氏についても瀬戸内の要地を占めるその領国を将軍が取り上げるのが狙いとみられ、満祐が兼ねる播磨・備前・美作(みまさか)三か国の守護職を削り、義教が寵愛する赤松貞村に与えようとしているとの流言、浮説が、洛中の大名や町民たちの口にまでのぼるようになった。

 今度の噂もいつまた現実のものになるかもしれない。

 相手が専制将軍だけにその不安は一層強く、そこで満祐は思い詰めた末、今度の兇行に及んだ。


 嘉吉元年6月24日夕刻、腹の太い足利義教は気にもとめず、造園の好きな自分を新庭に招待してきた満祐がこの際、わだかまりを解きたいと思うているのかも知れぬと、東洞院にある赤松満祐の館へ出かけて行った。

 その日の夕刻にわか雨があった。

「よいよい、よい雨じゃ、これで新しい庭の風情も変わろうというものじゃ。何を案ずる事があろうか。」

 今日の行幸を案じている家臣が取りやめを進言する声を封じて義教が言った。

 雨がやんでから、義教は50人ほどの行列をつくって赤松邸へ向った。

 酒宴たけなわというところ、庭先の能舞台では、義教が贔屓にしている音阿弥が『鵜飼』を演じ始めた。既に大盃は五度座敷内をめぐり、かなり酩酊した義教は、膝を乗り出すようにして舞台に見入っていた。

 と、その時である。邸の庭内でただならぬ物音が轟いた。

 饗宴のさなかに、満祐は館中の馬、十数頭を放ち、

「余興を邪魔して申し訳ござりませぬ。すぐさま鎮めさせまする。」

 その言葉と共にその奔走をふせぐと称して、まず惣門を閉ざした。


 これこそ、将軍弑逆を狙う赤松勢決起の合図であったのだが、そうとは知らぬ義教は、気にもとめず、舞台上の音阿弥に視線を固定したまま、ゆっくり大盃を口に運ぼうとした。

 同時に屋敷内にひそんでいた家来200余人が躍り出し、獰猛果敢に将軍の供廻りや侍臣を斬りまくった。

 満祐は、ひそかに、播磨の領国から200余人の家来を呼びよせ、刀鍛冶の備前泰光に300振りの刀を打たせて準備をすすめていたことが後になってわかった。

 悪夢を見るような一瞬であった。蛍の飛び交う雨あがりの新庭の美しさに酔っていた饗宴の場は、絶叫と、怒声と、飛び散る血にまみれた。

 将軍義教は、満祐・教康の父子に組みつかれたかと見る間に、御座の間に血しぶきが噴き上げ、義教の上体が倒れ込む。その頸には、屏風の蔭から躍り出た赤松家中きっての勇者安積監物行秀の豪刀が食い込み、踏み倒された金屏風の上へ、義教の首が鮮血と共に叩きつけられるように落ちた。

 その間管領・細川持之等は

「われらは将軍家に恨みを持つのみで貴公らはお逃げくだされ。」

 と言う満祐の言葉に、身一つで転がるようにして逃れた。


 赤松満祐は老体を鎧兜に固め、斬死の覚悟で幕府の討手を待ったが、その後7日間、一兵も寄せては来ない。

「公方にへつろう腰抜け大名共も、まさかこれほど腐っていようとはおもわなんだわい」

 満祐は幕府の弱腰を憫笑(びんしょう)した後、館に火を放ち、一族郎党380余人を従え、堂々と暁の町を油小路から東寺へ抜け、播磨へ帰って行った。

 これを追うものもなかったというのは、在京の諸大名は将軍暗殺のことを聞いて、たがいに疑惑と妄想の眼を向け合い、自分たちの防備を固めるばかりであった。

 一ヶ月のちに、細川持之の奔走によって、ようやく幕府は軍を発し、播磨に赤松満祐を攻めた。


 讃岐守護細川持常は数千騎を率いて満祐を蟹坂に攻め、山名氏清が白旗城を抜き、満祐を自刃させ、どうにかこれを滅亡させることができた。

 これが嘉吉の乱である。


 この乱により、幕府の無力さ、将軍の権威のおとろえを衆目にさらすことになり、地方の守護大名の乱立を誘うこととなった。


 話は地方に飛ぶが、当時讃岐国西方守護代として6郡を支配していた西方守護代香川修理亮景光と仁尾浦代官香西氏との間で兵船調達に関わる紛争があった。


 満祐は播磨に逃げ戻った所を幕府軍に攻め滅ぼされたが、義教の突然の死はその施政が過酷であっただけに、世間一般にある種の開放感をもって受け止められたようである。

「看聞御記」は、「此ノ如キ犬死、古来其ノ例ヲ聞ザル事ナリ」

 と記し、

 街角には次の落書が出た。


   いなかにも京にも御所の絶えはてて

       公方にことを嘉吉元年


 先年鎌倉公方持氏が義教殺されたかと思ったら、今年は京の公方義教が非業の死を遂げた。まさに年号通り、公方に事を嘉吉(欠きつ)元年であるという意味である。


嘉吉の乱である。

_________________________________________________________


作者より

今回は歴史を遡るだけで終始しましたが、当時の周辺状況としてご理解ください。

いよいよ次回からは小説本文へと戻ります。



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