第3章 くじ引き将軍
嘉吉の乱へと進むバックグラウンドを今回は書いてみました。
第3章くじ引き将軍
足利幕府は、三代義満に至って南北朝を合体させ、ようやく全国の統一、幕政の確立をなしとげたかに見えた。義満は、社寺の勢力や地方豪族の制圧に成功したばかりでなく、朝廷や公卿ともむすんで、内大臣、左大臣まで歴任し、明国との交易もおこない、壮大華麗な示威と政治力とを見せた。
義満の死後、長子の義持が4代目将軍となった。
その頃から、幕府のもう一つの柱である関東政治を総括していた関東管領が不穏な動きをはじめ、さらに地方豪族たちも、政権をねらって微妙なうごきを示しだしたのである。
父3代目将軍と違い、足利義持には妻妾が少なく子も少なかった。
1923年に、ただ一人の男児義量を5代目将軍の座に座らせ自分は引退して出家した。そんな中、就任後2年で義持が若死にしたので、出家していた義持だったが再度将軍に返り咲いた。
それから3年を経た応永35年(1428)1月、足利義持は足に出来た痒の為に危篤状態になった。衰退する身体を心配して、近侍した畠山満家、細川持元、斯波義淳、山名時熙達要職に在った者が後継者の評議をした。醍醐寺の三宝院満済に義持の意向を確認させた。
義持は力無く嘆いた。
「わが指名した将軍に、皆がそれに従うものでなければ意味が無い。お前たちがこれという人物を選ぶがよい。」
このため、満済らは相談の上、義持の弟で何れも僧籍に入っていた青蓮院義円、大覚寺義昭、相国寺永隆、梶井義承の四人を遡上にあげた。しかしいくら相談しても堂々巡りで結論にならない。そこで籤引によって次の将軍を決めることになった。
籤は満済が作り、山名時煕が封をした。
義持は正長元年正月18日に亡くなった。
用意されていたくじを管領畠山満家が源氏の氏神である石清水八幡宮の社前で引いた。
6代目将軍にくじで当たったのは現青蓮院門跡義円で35歳になる。
義円は3代目将軍義満の四男で、応永10年、10歳でに青蓮院へ僧として入れられ、大僧正に任じ、天台座主に補せられていた。いわば俗世とは無縁の人物であった。
いきさつはどうであれ、くじ引きで決まった将軍というのは後にも先にも初めてのことであり事実である。
それにより義円は還俗し、正長元年3月12日義宣と名を改め、義持の喪明けを待ち、翌正長2年(1429)3月15日に名を義教と再度改め、正式に第六代将軍の座に就いた。
六代将軍となった足利義教は籤引き将軍として不安定な政治の場に立たされた事から専制将軍を志向した。有力守護大名を力づくで抑えこむ方針をとった。
1440年5月には一色義貫・土岐持頼を殺し、嘉吉元年(1441)4月には後に結城合戦と呼ばれる、先に討たれた鎌倉公方足利持氏の遺児を擁して挙兵した結城氏朝をも滅ぼしていた。
豪族のみならず朝廷公卿に対しても極めて厳しく、特に朝廷の綱紀粛正に努めた。
例えば、朝廷内の風紀紊乱を防止するため男女別室の制をも設け、場所柄もわきまえずに情事に耽る者への厳罰を定めた。
さっそくその槍玉にあげられた哀れな人物は楊梅少将兼重である。
愛人の『あちゃ』という女官が禁中で出産した為情事が露顕し、即座に『あちゃ』は追放、兼重は所領没収の上に遠流という重罪に処せられた。
さらに、公家の幕府参賀を年末・年始と節日だけに制限した。これは公家がその権勢におもねて幕府にばかり出入りするので、内裏が火の消えたように寂しい状況となっていたのを憂いて、内裏への出仕の規定を厳重にしたものである。
又、義教の直衣初めの儀が行われた永享2年(1430)11月、東坊城益長はふっと笑い声を漏らした。義教は耳ざとくそれを聞き咎め、益長の弁明も聞かず、所領二箇所の没収と籠居を命じた。
義教によって所領没収、遠流、死罪に処せられた公家・神官・僧・女房などの総数は、永享6年(1434)6月公家中山定親の日記『薩戒記』に書かれているだけでも80名にのぼった。
幕府主脳の畠山満家は、義教の豪毅な性格を利用して幕府支配を好まぬ豪族勢力を制圧しようとした。義教は満家の死後も、その子の持国を管領に任じて、豪族勢力の削減、南都北嶺の僧徒の暴動鎮圧などをやった。
更に、鎌倉に君臨して足利幕府に取って代わろうとする関東管領足利持氏をも、その内紛に乗じて攻め滅ぼした。
次回は嘉吉の乱を書きます。