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第1章  仁尾浦



第一章仁尾浦



 大小二つの蔦島が、わずか半里先に自然の防波堤として横たわった仁尾浦は、その日も鏡面の様な水面(みなも)を見せ、数曹の漁舟が艫われ、朝日の中に浮かびあがった。


「何、弥五郎が守護代の為をして兵船を仕立てたと申すか。」

 浦代官香西五郎左衛門は代官補船越輿三郎の言葉に白い京面顔を赤らめ怒鳴った。

「お主は何をしておるのじゃ。この仁尾浦での兵船徴発は京におわす細川様家中香西豊前守様よりの命で、我が一手のものでは無いか。これは癖事である。今すぐその弥五郎とその一味を拘引せよ。」

「さらば船はいかが致しましょうぞ。」

「何を申しておる、船も押さえよ。」


 仁尾浦は延文三年(1356)詫間氏の寄進により、京の賀茂社領として人々は平穏な日々を過ごして来た。

 住民は神人又は供祭人と呼ばれ、惣衆と言われる組織を作り、その結合は強固なものであった。

 家数も5、600戸を数え、この時代では大きな港町を形成していた。


 応永22年(1415)10月22日、讃岐守護細川満元より、以後社家の課役は停止。海上諸役のみを行う事を命じられた。

 これは、京都の鴨御祖社領であったことが否定され、公領に転じその公領の知行者に海上諸役を果たすことが命じられたものである。

 更に27年10月17日の文書では兵船負担の忠節を礼し、当浦の神人に対する狼藉をなす者には罪科に処す旨が述べられ、細川氏は自ら所領経営を行うことはなく、代官を派遣する。

 香西豊前守は一族の香西五郎左衛門を浦代官として任じた。

 賀茂神社文書に依ると浦代官は少なくとも、永享10年(1438)1月から嘉吉2年(1442)10月までの間は香西氏がつとめていたとある。

 この段階で、仁尾浦は細川氏の直轄領としての位置付けが出来上がった様である。



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第2話からは本格的なストーリーへと入ります。お楽しみに。

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