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「何するのよっ!」
――バシッ。
駅裏の路地に響く鈍い音。
…でも、だって仕方ないと思う。
知り合ったばかりの人に唇を奪われたとなれば。
「いってぇ…ひどいなあ」
頬をさすりながら、彼―舘葉桐梧は苦笑している。
今を遡ること、5分前。
今日もやっと仕事が終わり、疲れた体を引きずるように電車に乗り込んだ。
目的の駅に着き、改札を抜け、アパートまでの道のりをぼんやりと歩いていると、するりと右手の薬指からリングが抜け落ちた。
あっと思う暇もなく、コロコロとリングは同じ方向へ歩く男の人の足元へ向かって転がっていく。
そして、ゆるいカーブを描いたリングはそのままその人を追い越しつつある。
「踏まないで!」
思わず口に出すと、彼は一瞬怪訝そうに後ろを振り返った。
でも、わたしの目線がその人の足元にあることに気付いたのか、自分の足元に目線を返した。
コロコロと転がり続けたリングは彼の足元でその動きを止めようとしていた。
そして、その人は身をかがめ、リングを拾ってくれた。
「これ、おネェさんの?」
視界の中で、彼が軽く首をかしげる。
大きな手に不釣合いなほどの小さなリングは、彼の手の中で街灯の明かりを受け、鈍く光っている。
お姉さんと言われて、ようやくその人の顔をまじまじと見る。
後ろから見てるだけじゃ分からなかったけど、確かに若い男の子だった。
二十歳前後といったところだろうか?
「そうよ…大事なものなの。拾ってくれてありがとう」
その人に追いついたわたしはとりあえずお礼を言う。でも、年下と分かってしまったせいか、口調がくだけてしまう。
「…ふうん。大事なものねえ…」
リングを自分の手からつまみ上げ、目の前でじっくりと観察するように見ている。
早く返して欲しいのは山々だけれど、拾ってもらった手前、何も言えずに彼の手の中のリングを見ていた。
「お礼もらってもいいのかな?」
リングはまだ彼の手の中。
「お礼…?」
ただ転がっていったリングを拾ってもらっただけなのに、どんなお礼をしろと言うんだろう?
そう思っていると、彼の顔が視界いっぱいに広がった。
唇に暖かいものが触れる。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
二瞬目、キスされたことが脳に伝わった。
三瞬目、気が付くと、彼の頬を思い切りひっぱたいていた。
「リング、返して」
口紅が乱れることも構わず、キスされた唇を手の甲で拭う。
彼は頬を片手で押さえながら、じっとこちらを見ていた。
その視線になんだか悪いことをした気分になるけれど、突然キスされたわたしだって被害者に違いないし。
しばらく睨み合うように視線を絡めているわたしたちがいた。視線を逸らした方の負け。そんな感じで。
ようやく口を開いたのは、彼のほうだった。
「おネェさん、意外と気が強いんだね」
リングをわたしの方に差し出し、ニヤリと笑う。
「俺、舘葉桐梧。おネェさんの名前は?」
突然、名前を聞かれたけど、答える義務はない。
黙ったまま、彼の手の中からリングを受け取ろうとすると、彼が手を引いた。
「名前、教えてくれないなら、返さないよ?」
意地悪な笑み。
「…仲嶋結亜」
仕方なく、名前を教えた。
「かわいい名前だね」
そう言われた瞬間に左手を掴まれ、彼のほうへ引っ張られる。
「きゃっ」
体勢が崩れたところを彼の腕の中に抱きとめられた。
キスといい、今といい…わたしには隙が有り過ぎるんだろうか?
そのままぎゅっと抱きしめられた。
どうしよう…?
思いのほか、その腕の中の心地が良くて、抵抗することを忘れてしまいそうになる。
この後自分がどうするべきか、思い悩んでしまう。
…そういえば、こうやって男の人に抱きしめられるのは久しぶりだ。
そうか…異性の腕の中はこんなにも安心できる場所だったんだ…って何考えてるのよ、わたしったら。
「離して…」
我に返り、彼の腕の中から、抜け出そうともがく。
けれど、彼の腕の力は弱まることはなく、むしろ強まっていく。腕の中でじたばたとするけれど、無駄な足掻きにしか過ぎなかった。
「俺のこと好きになってよ…」
わたしの肩に顔を埋めて搾り出すような声で彼が呟く。
声に切なさがにじむ。
「俺…結亜さんが好きだ…」
04.04.20(初出)/10.02.11(改稿)




