月下の響き ー廃寺に響く水琴窟の調べー
なろう夏のホラー企画 第4作目
江戸の終わりのころ。飛脚の弥七は、宿場での交代に遅れまいと、夜の街道をひた走っていた。
旅人で賑わう昼の喧騒はどこへやら、静寂のなか、弥七の荒い息遣いと草鞋の足音が響く。
肩に担いだ竹棒の先、書状を挟んだ竹竿からは、走る拍子に合わせて飛脚鈴がチリン、チリンと規則正しく鳴り響く。
月明かりと手に持った提灯の灯りが、弥七の足元から影を長く伸び縮みさせていた。
さすがに息が上がり、足を止める。前の宿場で買い求めた竹筒から水を煽る。ほてった喉に、ほんのりした甘みが心地よい。新竹の青々とした爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
「このままじゃ、遅れちまうな」
一息ついたところ、目の前には峠へと続く抜け道があった。確か、嶋屋の平七から聞いたことのある道だ。この街道は山裾を大きく迂回して延びている。
山裾の木立ちを抜けるこの道は、うまく抜ければかなりの近道となるが、枝道が多く迷いやすいと聞いた。
月の夜《よ》に さまで急がず
良かりしものを さまで急がずとも良かりしものを
頭上には満月が煌々と輝いている。これだけ明るければ、迷うこともあるまい。よし、行ってみるか。弥七は草木もまばらな抜け道の入口へと足を踏み入れた。
街道では整然と並んでいた松の並木は姿を消し、生い茂る木々が、月明かりを遮り、路面には斑模様の影を落としている。
枝道は、平七の言っていた通り、幾重にも細く分岐して暗闇の奥へつながっている。
ざっ、ざっ、と自分の草鞋が踏みしめる土の音だけが暗闇に響く。
「……静かすぎるな」
虫の声ひとつ聞こえない。
片手に掲げた提灯の小さな火影が、周りの木々を怪しい影として映し出す。
一刻も経っただろうか。そろそろ夜半に差し掛かる子の刻あたり。秋とはいえ山風は冷える。吐き出した白い息が月光に照らされて、生きているかのように揺らめき蠢きながら闇に紛れていく。
峠の頂近くまで差し掛かったところに、ポツリと佇む古い廃寺があった。
夜深き 今ひと息を 入れましものを
「ふう、ちと脚を休めさせてもらうか」
緩んだ草鞋の紐を締め直してから、半ば壊れた門をくぐり、本堂に続く 石畳の参道へ足を踏み入れた。手入れの途絶えたはずの石庭は不思議なことに草一本なく、月の光に浮かび上がる様は、凪いだ海原のようだった。
雲が流れる。月明かりが揺らめき、石庭は凪いだ海原から細波立つ海へと変わる。草木のざわめきは波の音。本堂は波間に浮かぶ大船かのように見えた。
今はもう 遠き在りし日 共に参らむ
その夢幻のような光景に弥七はただ立ち尽くす。どれほど、そうしていたろうか。導かれるように本堂に向かった。
また雲が動く。一陣の風。ざあっと草木のざわめきと共に月が陰り一瞬の暗闇を作り出し、再び月光に照らし出される。風に揺らぐ木々の影が作り出す何者かの残像。
浮世が朧となり、浄土が垣間見える瞬間。
張り詰めた静寂のなか、不意に耳の奥へ届くものがあった。
ピチョン、カラン。
風の音でもなければ、虫の音でもない。透き通るように清らかで、どこかすっと身の引き締まるような、水滴の可憐な響き。
(この音は……)
いつか見た、お屋敷の庭の記憶――水琴窟だ
地中に埋めた大きな甕に水滴を落とし、その静かな反響音を愛でる風流な仕掛け。
(なぜだ……こんな山奥の荒れ果てた寺に、なぜ水琴窟なんぞがあるんだ?)
深山にも あはれなる
響きなつかし 侍るものかな
その美しい音色に心を惹かれ、恐怖が麻痺していく。吸い寄せられるように立ち上がった弥七は、音が聞こえてくる本堂の裏手へと足を向けた。
裏庭もまた、月光に蒼く照らされていた。音の源は、半ば崩れた縁側の下、草むらに埋もれた小さな石組みのあたりだ。
弥七がかがみ込み、おそるおそる覆いかぶさる雑草をかき分けた――その刹那。
雲が流れ月光が刺す。頭上からの月光が、穴の底をくっきりと照らし出した。
そこに置かれていたのは、素焼きの甕ではなかった。
月明かりの中に青白く浮かび上がっていたのは、一つのしゃれこうべであった。
頭頂部には小さな穴が穿たれ、上方の岩肌から滴り落ちる清水が、一滴、また一滴と、その頭蓋の空洞へと吸い込まれていく。
――ピン……コロン……。
骨の空洞で音が共鳴する。
鳴り響くその音は、この世の物とは思えぬほど美しく、そして狂おしいほどに冷たい死者の調べを紡いでいく。
息をのむ弥七の視線は、しゃれこうべの「眼窩」に吸い寄せられる。
深淵を穿つその二つの黒い穴から、弾けた水滴が、まるで涙のように流れ出ていた。
あはれなり 闇を隔てて 人に逢ひ
しらほねの音に 在りし日思へ
弥七は、立ち去ることも忘れ、ただただ月下に響く美しき骸の調べに心を奪われていた。
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