川原のラン友
ゼロであることは、
何も持たないことではなかった。
持たないからこそ、
走ることを選び、
立ち止まらずに進むことを選べた。
この章で描かれるのは、
「力」ではなく、
意志が出会う瞬間。
名前を知らなかった者と、
本当の名を隠していた者。
川原という、
世界の端のような場所で――
物語は、静かに未来と接続される。
川原まで走って、
それでも、涙は止まらなかった。
——泣いている理由は、
自分でも、よくわからなかった。
「今日は、凄い速いね」
横にエルナスが現れ、並走してきた。
カナタは涙をぬぐう。
エルナスはすぐに気づいた。
「何かあった?」
「私、能力がないんです」
二人は川辺に腰を下ろした。
*
「そんなことが……」
「転校は出来ないんです」
川の流れる音だけが、静かに耳に届く。
そのときだった。
カナタは、自分の頬を伝うものに気づいた。
――泣いている。
(私、エルナスの前で泣いてる)
初めてかもしれない、こんなふうに誰かの前で涙を流すのは。
悲しいはずなのに、
胸の奥が、少しだけ温かい。
泣いているのに、
どこか嬉しい。
そんな不思議な感覚に、カナタは戸惑っていた。
「引きこもってしまう?それも選択かもね」
エルナスは、何か良い方法がないかを考えていた。
「ねぇ、知ってる?レベルって、たとえ3とか4でも、その人の“器”がしっかりしていないと力は発揮されないんだって」
「うつわ?」
「そう、器。精神力、包容力、共感力、体力など…揃ってないと、レベルが外れたときに発狂して病院送りとかざらにある。だからレベルがあっても、発揮されない人は大勢いる」
「……ユウナギが言ってた」
「ユウナギ?」
「うん。すごく強くて、すごく優しくて、すごく頭がいいの」
「……ふ~ん、そうなんだ」
二人の間に静かな沈黙が流れる。
「私、ユウナギに心配かけたくない」
「……」
どれくらい時間が経ったのだろう。
突然、エルナスが立ち上がった。
「ねぇ、武術教えたげよっか?」
「え?」
カナタは思わずエルナスの顔を二度見した。
「護身術だと思って。ゼロだからこそ、本当の力を鍛える!」
微笑むエルナス。
「あ!ちなみに私もレベル1、ゼロみたいなものだよ」
「やっぱり!!」
二人は自然と笑いあった。
それ以来、カナタはエルナスと朝のランニングを共にし、
そのあとで簡単な武術を教わるようになった。
それは、力を得たというよりも――
自分の足で立っている、という感覚を
少しずつカナタに与えてくれた。
*
放課後の校舎裏は、授業の喧騒が嘘のように静かだった。
コンクリートの壁に囲まれたその一角は、監視も人目も届かない。
「……でさぁ、聞いた?」
乾いた笑い声が響く。
「おまえって、レベル高いって噂だけどさ。
結局リングで制御されてるんだろ?」
男の一人が、ユウナギの胸元を指で突いた。
「外せもしねぇ力で、イキってんじゃねえよ」
「外すのは上官の判断が必要なんだよな?
ははは、じゃあ一生そのまんまだな」
三人の男子が囲み、少し離れた場所で女子が腕を組んで見ていた。
「ねぇ、いい加減にしなよ」
口では止めるような口調なのに、目は冷たい。
「ムカつくのはさ、あのカナタって女なんだよ。
ゼロのくせに、あんたの隣にいるの」
ユウナギは何も言わなかった。
反論すれば、力を使えば、余計に事態が悪化することを知っている。
拳が飛んだ。
腹に、肩に、背中に。
リングは力が解放されることを忘れてしまった様に、ただ静かに回っている。
「ほら、強いんだろ?」
「Attack資質レベル7だっけ?」
嘲る声。
「使ってみろよ、俺たち相手に」
ユウナギは歯を食いしばった。
――理不尽な挑発。
私用で使うことは許されない特殊能力。
使えないと知った上で、彼らはあざけ笑っている。
そのときだった。
「……やめて」
震えているのに、はっきりとした声。
振り返った四人の視線の先に、カナタが立っていた。
「出た~、ゼロの登場!」
「見学者は帰れって」
次の瞬間、男子の一人がユウナギの腹を蹴り上げた。
「っ……!」
それを見た瞬間、
カナタの中で、何かが“切り替わった”。
――考えるより先に、身体が動いた。
踏み込み。
手首を取る。
肘を極め、体重を乗せる。
「……え?」
鈍い音とともに、一人が地面に沈む。
「な――」
次の男が腕を振り上げたが、
カナタは半歩横にずれ、足を払った。
重心が崩れる。
倒れる。
呼吸が詰まる。
そこへ重い一撃食らわした。
「ごはっ……」
残り二人が一瞬、動きを止めた。
「……ユウナギは何も悪くないのに」
カナタの声は、驚くほど静かだった。
次の男もあっという間に地面にねじ伏せられた。
「こんなに弱かったんだ……」
いつかの、事実だけを受け止めた純粋で冷たいカナタの言葉。
女子が一歩後ずさる。
だがカナタの攻撃は止まらない。女子の足を踏み、顔面に二本の指が突き刺さろうとする。
――止めなければ。
その判断だけが、遅れて追いついた。
だが――
カナタの動きは、もう止まらなかった。
「カナタ止めろ……」
ユウナギの言葉に、一瞬の間があき
ストレートの拳に変わった。女子は吹き飛んだ。
「カナタ……」
地面に尻餅をついたまま、ユウナギが呆然と呟く。
「その動き……どこで習ったの?」
カナタは自分の手を見つめた。
震えていない。
「……護身術、だよ」
倒れた四人は動けない一人を抱え、何も言えずに、よたよたと逃げるように去っていった。
校舎裏に残ったのは、二人だけ。
ユウナギは、ゆっくり立ち上がりカナタを見た。
「……あ、りがとう」
さも攻撃的な戦い方に言葉が詰まる。
そして、少し遅れて、確信する。
(――違う)
(あれは、護身術じゃない)
カナタは気づいていない。
けれど、あの動きは――
戦うための技だった。仕留めるための技だった。
*
夕暮れが校舎の影を長く伸ばし始める頃、
二人は並んで歩いていた。
先ほどまでの騒ぎが嘘のように、
校舎裏は静かで、風に揺れる木々の音だけが残っている。
「……カナタ、さっきの動き」
ユウナギが、ぽつりと口を開いた。
「どう考えても、
“護身術”には見えないよな……」
カナタは少し困ったように笑って、視線を足元に落とす。
「朝、ランニングしてる時にね。
たまたま知り合った人に、教えてもらってるだけ」
「たまたま?」
「うん。
毎朝、川原で会う人」カナタは、ちょっと嬉しそうに話す。
その言葉に、ユウナギは一瞬だけ足を止めた。
「へぇ、そんな人が……名前は?」
「え?」
「その人の名前」
カナタは首を傾げて、思い出すように言った。
「えっと……
エルナス・リュシオン、って名乗ってた」
——その瞬間。
空気が、わずかに変わった。
ユウナギの表情から、血の気がすっと引く。
「……エルナス、リュシオン?」
声が、かすかに震えていた。
「ど、どうしたの?」
「……いや……」
ユウナギは無意識に胸に手を当て、握りしめた。視線は遠くへ向かう。めまいにも似た感覚。
「それって……
この国の――」
言いかけて、言葉を切った。
「いや……
……同姓同名、かもしれない」
そう言いながらも、
その声には、明らかな違和感が混じっていた。
「青く濃い瞳で、青い髪とかじゃない?
確か……十五歳くらい」
「え? 十五歳なの?
……もっと歳上かと思ってた。
でも、確かに髪も目も青かった」
「……そんな」
言い切ろうとして、ユウナギは言葉を止める。
それは、否定というより――
自分自身に言い聞かせるような声音だった。
小さく、ほとんど独り言のように続ける。
「そんな人が、
一人で川原を走ってるわけ、ないよな……」
沈黙。
ユウナギが、制服の裾を揺らした。
「ね、ユウナギ?ごめん。なんか私悪いことした?」
カナタが不安そうに名前を呼ぶ。
ユウナギは、はっとして首を振った。
「……ごめん。
気にしないで、ただちょっといろいろ思うとこがあって」
「技のこと?」
「いや、あ、でもあの技は、使う時がくるまで使わない方がいいかも。これから武術の授業もあると思うから」
だが、その視線は、
すでに“答え”を探す者のものになっていた。
「……もし、また会えるなら」
ユウナギは、静かに言った。
「今度は、俺も一緒に行っていい?」
「え?」
「朝のランニング」
カナタは少し驚いたあと、
なぜか安心したように微笑んだ。
「うん。
一緒に走ろ」
こうして――
二人の知らないところで、
運命は、再び川原へ向かって静かに動き始めていた。
(第五章・了)
その出会いが、
何を変えてしまったのか。
その時、
誰もまだ、気づいていなかった。




