タシト・レヴァント
それは、ほんの一瞬の接触だった。
けれどその瞬間から、何かが確実に動き出す。
第三章です。
その声音は、
十歳とは思えないほど冷たかった。
「……あなたは?」
問いかけに、少年は一拍の間も置かず答える。
「タシト・レヴァントだ」
名乗った瞬間、ユウナギとロロアの表情がこわばる。
タシトは感情の欠片もない瞳で、カナタを評価するように見た。
「レベルゼロは、この世でお前だけだ。
レベル1の普通の人間にも満たない」
「酷い……!」
ロロアが歯ぎしりする。
ユウナギが無意識に、タシトとカナタの間に身体を滑り込ませようとした――
その瞬間。
タシトが一歩で距離を詰め、カナタを抱き寄せた。
時間が止まる。
ユウナギもロロアも理解が追いつかない。
カナタの胸の奥で、何かがほんの一瞬だけ震えた。
それが何かを理解する前に、腕は離れていた。
そして、ぽつり。
カナタの喉から、言葉が零れた。
「……いい香り」
そのまま背を向けるかと思った、その直後――
タシトは、ユウナギを見た。
ほんの一瞬。
感情のないはずの瞳が、
記憶の奥を探るように彼を映す。
ユウナギは息をのんだ。
理由はわからない。
だが、その視線に――なぜか、逃げてはいけない気がした。
次の瞬間――
少年の身体は、光に溶けるように消えた。
その顔は最初から最後まで無表情のままだった。
「い、今……テレポートした!?」
ロロアが叫ぶ。
「なんで……どうしてカナタに……?」
いつも冷静なユウナギの顔に熱が帯びる。
そして、
カナタだけが、ただ静かにその消えた光の跡を見ていた。
*
――夜。
暗い部屋で、カナタはふと腕を抱えた。
あのとき、
なぜ抱き寄せられたのかは、わからない。
ただ、腕の内側に残った感覚だけが、
理由もなく、まだそこにあった。
抱き返した記憶はない。
それでも、確かに触れられていた。
嫌ではなかった。
それが、いちばん困った。
◇
――数日後、
閉館前のルミナリア研究区・中央施設。
ガラス張りの外壁は夕陽を反射し、ロビーの床へ長い橙色の影を落としていた。
展示パネルは順に電源を落とし、館内はもうすぐ終業の静けさに包まれつつある。
「……なんで、また検査なんだろうね。簡易検査って、なんなんだろう?」
ユウナギは首を傾げながら、ゲートをくぐった。
「ついてきてくれてありがとう」
カナタの声は小さく、それでもどこか安堵が混じる。
ただ、その横顔には微かな緊張もあった。
――“研究区”“爆発”。
カナタの記憶の奥に、触れてはいけない影が揺れる。
「ここ、ほんと広いよな……場所、合ってるよな?今さらだけど」
ユウナギがロビーを見回す。
その少し先。
エントランスホールの柱の陰で、低い声が交わされた。
「こちらが最新の解析です。特別にお見せしているのですよ、スコーラオ先生」
「興味深いね。今度は“変異増殖”のデータも見せてもらえる?」
「……そんなものはありませんよ」
スコーラオとガイアス。
二人の会話には、ただの研究者同士とは思えない緊張が滲んでいた。
しかし、カナタたちはまだ気づかない。
閉館放送が静かに流れ、ロビーに足音だけが響く。
「……なんか今日、空気重くない?」
ユウナギの声が揺れた、そのとき――
ピシ……ッ。
空間のどこかが“歪んだ”ような、微かな軋み。
ロビー入口に、青白い亀裂が走る。
「……ユウナギ、あれ」
カナタが指さす。
光がほどけるように開き、そこから――グレーのウェットスーツ姿の少年が出現した。
タシト・レヴァント。
その表情は、以前見た時よりもずっと冷たかった。
「……この前の……!」
ユウナギが息を呑んだ瞬間、
ドッ――!!
狭い範囲で強烈な閃光が弾け飛ぶ。
ロビーの空気そのものが揺れ、カナタの視界が白く霞んだ。
何が起こったのか、把握できない。
音も距離も、すべてがずれている。
煙の向こうで――
ひとり、動けずにいる影が見えた。
「……?」
やがて輪郭が焦点を結ぶ。
ロビーの椅子に座ったまま、立ち上がれずにいる男。
「お父さん……!」
喉が、かすかに震えた。
その直後――
少し離れたエントランス側から、鋭い声が飛ぶ。
「伏せろ!!」
白衣の裾を翻し、長身の男が前に躍り出た。
切れ長の目が一瞬で状況を把握し、
その指先が、空間を掴むように伸びる。
スコーラオだった。
彼は走り込みながら、
タシトの放った光弾を――空間ごと捻じ曲げて逸らす。
衝撃波がロビーを駆け抜け、
展示パネルが悲鳴をあげて吹き飛んだ。
赤い非常灯が、一斉に点滅する。
ユウナギは震える手でカナタの腕を掴み、
バックヤードの陰へ押し込んだ。
「カナタ、ここに隠れて!! すぐ逃げるんだ!」
震えた声で、ユウナギが言った。
「……逃げないと、死ぬ」
カナタはタシトの動きだけを凝視していた。
彼の目が、ほんの一瞬だけ――
自分の方を見た気がした。
その目は冷たく、透明で。
けれどカナタには、どこかで知っている者の目のように感じられた。
赤い非常灯が明滅するロビー。
崩れ落ちた展示パネルの向こうから、
ゆっくりと足音が響いた。
「……やれやれ」
煙の中から現れたのは、
白衣の裾を軽く払うスコーラオだった。
「私の研究材料、壊されると困るんだよね〜」
その声は、場違いなほど軽い。
だが次の瞬間、
空気が“沈んだ”。
タシトが一歩、前に出る。
年端もいかない少年のはずなのに、
その佇まいは明らかに“戦場のそれ”だった。
スコーラオは目を細め、興味深そうに口角を上げる。
「まだ子どもじゃない?
へぇ……凄いねぇ。どこから来たの?」
問いかけに、タシトは答えない。
――代わりに。
視線だけで、空間を測る。
距離、遮蔽物、相手の呼吸。
次に来る“最善手”。
(……能力干渉型。空間歪曲)
出力は、想定以上。
一拍。
タシトの足元で、光が弾けた。
「――!」
瞬間移動。
同時に放たれた光刃が、スコーラオの喉元を裂く――
はずだった。
「残念」
指先ひとつ。
キィン、と高い音がして、
光刃は“存在する前に”歪められ、霧散した。
スコーラオの背後で、
空間そのものが折り畳まれる。
次の瞬間、
タシトの背後に“壁”が出現し、叩きつけられた。
轟音。
床が砕け、衝撃波が走る。
「……っ」
それでも、タシトは即座に体勢を立て直す。
スコーラオは、どこか楽しそうに続けた。
「でも遠慮しないよ。
子どもだからって大目にみるのは、戦えないガキ限定にしててね。私の"慈悲"かなあ」
白衣の内側で、何かが脈動する。
「……っ」
ユウナギは、言葉を失っていた。
あれが――
人の戦いなのか?
理解する前に、身体が本能的に震える。
カナタの手首を、強く掴んだ。
「……だめだ、あれは……」
声が、うまく出ない。
「今の、俺たちが近くにいたら……
巻き添えじゃ、すまない」
スコーラオの背後で、
空間そのものが“静かに”歪んだ。
音はない。
だが次の瞬間、
――重力の向きが、ねじれた。
タシトの身体が宙に浮き、
見えない手に掴まれたかのように、
壁へと叩きつけられる。
轟音。
床がひび割れ、
衝撃波がロビー全体を揺らした。
「君もある意味実験体だよね、今まであってきた中で、案外一番強いかも!」
次の瞬間。
ロビー全体が、
“巨大な実験装置”のように起動した。
重力が歪み、
光が逆流し、
空間が悲鳴をあげる。
そのすべての中心で、
タシトはただ静かに歯を食いしばった。
(……本気、か)
その背後――
物陰に身を潜めたカナタの胸が、
わずかに熱を帯びる。
“力”と言うものを目の当たりにしている感覚だった。
――だめ。
理由はわからない。
言葉にもならない。
けれど、
ここにいたら“終わる”。
「……ユウナギ」
それは命令でも、反射でもなかった。
カナタ自身が下した、初めての意志決定だった。
「逃げよう」
次の瞬間、
ロビー中央で、再び衝撃が弾けた。
スコーラオの一撃が、床を抉り、柱を折る。
「っ!」
ユウナギは反射的にカナタを引き寄せ、
バックヤードへの通路へと身体を投げ込んだ。
「走れ!」
二人の背後で、空間が悲鳴をあげる。
ガラスが砕け、警報音が甲高く鳴り響いた。
――もう、振り返れない。
崩れた展示柱の影で、
ガイアスはその光景をただ見ていた。
歪む空間。
ねじ伏せられる攻撃。
常識の外にある力。
――それでも。
彼の唇は、わずかに吊り上がっていた。
「……化け物」
恐怖ではない。
それは、
期待を超えた素材を見つけた研究者の声だった。
「……やはり、可能性は“個”に宿るか」
壊されているのは施設ではない。
既存の理論そのものだ。
ガイアスの視線は、戦う者達ではなく――
その“先”を見据えていた。
光が弾ける。
タシトの動きが、ほんの一拍だけ遅れた。
――見誤った。
スコーラオの指が、空間を撫でる。
それだけで、タシトの足元が崩れ落ちた。
「……!」
身体が宙に浮く。
制御が、効かない。
初めて味わう、
計算が追いつかない感覚。
「逃がさないよ、絶対に」
スコーラオが楽しそうに告げた、その瞬間――
タシトは、歯を食いしばり、
力を絞り出すように身体を捻った。
青く光る閃光。
狙いは外れた。
だが――
スコーラオの白衣に、赤い線が走る。
一滴、血が床に落ちた。
「……あ」
スコーラオが、目を見開く。
次の瞬間、タシトの身体が床に叩きつけられた。
鈍い音。
少年の口から、かすかな息が漏れる。
――それでも。
タシトの瞳は、まだ死んでいなかった。
彼の手が握りこぶしを作る。
同時に――
ド――ン!!!という轟音とともに、
ガイアスの周囲の壁と柱が粉塵を巻き上げて吹き飛んだ。
「……しまった」
スコーラオが、思わず声を漏らす。
だが、その刹那。
タシトの姿は、まばたきよりも速く掻き消えていた。
「……逃がしちゃったか」
白衣の男は、視線を落とす。
瓦礫の下敷きになったガイアスを見下ろし、
軽い調子で続けた。
「あ、おじさん……死んじゃった?」
白衣に付いた自分の血を見てスコーラオは、ゆっくりと笑った。
「絶対に逃がさないって決めたのに」
衝撃で床が揺れた。
建物が崩れていく。
ユウナギは思わずよろめき、 それでも反射的に――
カナタを背中でかばっていた。
「……っ!」
自分でも驚いた、考えていなかった。
怖い。 逃げたい。 足が震える。
それでも、隣にいる存在をどうしても守らなければいけないと感じた。
「ユ、ユウナギ……?」
かすれた声。
その瞬間、 ユウナギはようやく気づく。
――ああ。 俺、守られてた側だったんだ。
今までは、ずっと。
「大丈夫……」
震えを隠すように、声を絞り出す。
「今度は、俺が――お前を守る」
*
スコーラオが近づいてきた。
ユウナギは、スコーラオの纏う狂気に息をのんだ。
敵か味方かも判然としない。
それでも彼は、一歩、カナタの前へ出た。
「戦えないガキに、私は慈悲深い」
そう言いながら、スコーラオがまた一歩、踏み出す。
だが――
空間に、見えない“膜”が触れた。
「……あれ?」
スコーラオの指先が、何かに阻まれる。
そして、その見えない膜は、触れた瞬間だけ美しく光り、
そよ風のように、キラキラと消えていった。
「君たち、シールド張られてたじゃん。なんで? なんで?」
その瞬間だった。
カナタは、胸の奥に残る熱の“名残”に気づく。
――さっきまで、そこにいたはずの気配。
冷たくて、静かで、それでも確かに“守られた”事実だけがあった。
スコーラオが、楽しそうに笑った。
「……ああ。なるほど」
「心、あったんだぁ」
ロビーには、崩れ落ちる音だけが残った。
カナタは、
自分が守られている理由を知らない。
誰が、
なぜ、
どんな意志で――
そんなことは、何ひとつわからない。
けれど――
確かに思った。
この世界は、
自分が知らない“何か”を土台にして動いている。
そしてその“何か”の中心に、
自分が立たされている気がした。
胸の奥が、わずかに熱を帯びる。
それは恐怖でも、安心でもない。
名前のつかない予感だった。
――この先で、
自分はもう一度、
「目覚める」。
理由は、まだ知らない。
(第三章・了)
第三章、ここまで読んでくださりありがとうございます。
それぞれの思惑が、少しずつ動き始めました。
次章から物語はさらに加速していきます。




