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Black Rings  作者: 弥百花
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空白の目覚め

失ったのは、記憶だけだったはずなのに。


名前はある。

世界も、日常も、確かにそこにある。

けれど――

自分だけが、どこにも繋がっていない。


これは、

「何も持たない少女」が

再び世界に触れていく、

その最初の物語。


夜明け前の街は、

まだ深い眠りの中にあった。


人気のない病院の廊下で、少女はただ椅子に腰かけていた。

背筋はまっすぐなのに、影だけが小さく歪んでいた。


――泣き方を、どこかに置き忘れてしまったみたいに、

胸だけが、静かに冷えていた。


「……お母さん、お星さまになったの?」


医師はゆっくりと何度も説明した。

爆発事故だったこと。

助かったのは8歳の彼女だけだったこと。


けれど、言葉は少女の胸を素通りしていく。


悲しいはずなのに。

苦しいはずなのに。


心は、まるで空っぽの箱みたいに静まり返っていた。


ただひとつ――

看護師が慌てて落とした白いキーホルダーを目にしたときだけ、胸の奥でかすかに火が灯るような感覚が走った。


レトロなAI部品を模した、ウサギ型の小さなキーホルダー。

初めて見るはずなのに、なぜか懐かしい。


「カナタ……!」


廊下の端から、息を切らした少年が駆け込んできた。

幼なじみのユウナギだ。


少女は、ゆっくりとその姿を見つめ返した。

まるで深い水の底から顔を出すみたいに。



◇  ◇  ◇



広いリビング。

窓際には手入れの行き届いた観葉植物が並び、朝の光が静かに差し込んでいた。


テーブル横の透明スクリーンではニュースが流れている。


《速報》

――ルミナリア研究区で大規模な爆発が発生してから1ヶ月、原因は依然として調査中。

現場周辺は封鎖され、専門部隊が余波の解析を続けて――


スクリーンがふっと暗くなる。

誰かが電源を切ったらしい。


廊下から、一定のリズムで軽く床を叩くような音が近づいてくる。

靴音なのか、何かを持ち歩く音なのか――

今の自分には判別がつかない。


聞き覚えがあるようで、けれど思い出すことのできない音。


ただ世界が動いている。

自分だけが、その動きから切り離されている。

そんな感覚だけが、遅れて胸の奥に沈む。


「カナタさん、カナタさん……大丈夫?」


声に呼ばれて顔を上げる。

――そうだ。この人が、“新しいお母さん”だ。


「え、あ……すみません。食べます」


カナタは、冷めかけたハムエッグを口に運んだ。

味はわかる。

けれど「美味しい」という感情だけが、どこにも見当たらなかった。


「そんなに焦らなくていいのよ。怒ってるわけじゃないの。ただ、少しぼーっとしているから心配でね。もうすぐ学校に行く時間だから」


「……ありがとうございます。ユウナギさんが迎えに来るんですよね」


「ええ。ゆっくりでいいのよ。思い出すのも、慣れるのも」


“思い出す”

その言葉だけが、静かな水面に落ちる石みたいに、心の中で小さく波紋を広げた。


カナタはふと、窓の外へ視線を向けた。


――……おは…よ…う……。


ほんの一瞬。

風の音が、誰かの声に聞こえたような気がした。


「……?」


まばたきをすると、ただの静かな朝に戻っていた。


「どうかした?」

新しい母が覗き込む。


「いえ。なんでも……ないです」


理由は自分でもわからない。

ただ、胸の奥がかすかにざわついただけだった。


窓の外には、空の高い位置を、ゆっくりと巨大な輸送艇が滑っていくのが見えた。


玄関のチャイムが軽く響いた。


カナタがドアを開けた瞬間、 立っていたユウナギは息をのみ、その表情には緊張が走る。


「……カナタ?」


その声には、驚きと困惑と少しの痛みが混ざっていた。


カナタは首をかしげる。


「ユウナギさん。おはようございます」


“さん”付け。

その距離を示すたった一言で、ユウナギの目がわずかに揺れた。


「……今日も“さん”か。俺たち、ずっと——」


言いかけた言葉は、喉の奥でつかえたまま消えた。

“違う”と気づかせるのが、何より怖かった。


カナタが靴を履く。

だが、靴紐がほどけていることにも気づけない。


ユウナギは黙ってしゃがみ込み、彼女の足元に手を伸ばした。


「ほら。昨日みたいに転ばないでよ」


「……ありがとうございます」


響かない声。

温度も、情感も、どこか欠け落ちている。


ユウナギは靴紐を結び終えると、ふと顔を上げて笑った。

明るく、わざとらしいほどに。


「変だな。

前はいつもカナタが俺の靴紐を直してくれてたのに。

最近は逆だなんてさ」


その笑い方が、冗談に見せかけた“痛み隠し”だとは、カナタには、まだ届かなかった。


「そう……でしたか?」


空っぽの声。

どこにも繋がらない言葉。


ユウナギの笑みが、ほんの一瞬だけ揺れた。


「……うん。まあ、いいよ」 彼は視線をそらし、優しく続ける。

「行こう、カナタ。ゆっくりでいいからさ」


カナタは頷き、言われるまま玄関を出る。


ユウナギはその後ろ姿を見つめながら、小さく息をのむ。


――守られてたのは、ずっと俺のほうだったのに。


事故から一ヶ月。


母の喪失と爆発のショックで記憶が抜け落ちている——

そう説明されたユウナギは、違和感に耐えながら、今日も隣を歩くしかなかった。


カナタの歩幅も、声の抑揚も、

昔とはすべて違っていた。



校舎へ続く正門前。

朝のざわめきと電子音が入り混じり、生徒たちが次々と光のゲートをくぐっていく。


光のフレームは、一人が通るたび淡く色を変え、

空中に名前と能力レベルが短く表示された。


ユウナギと並んで歩いていたカナタは、その列の前でふいに足を止めた。


「……心配ないよ。僕と一緒に通れば大丈夫だから」

ユウナギは安心させるように笑う。


「はい。昨日と同じ手順で通過すれば良いのですね」


――昨日。

カナタはゲート前で突然立ち止まり、

まるで“何かを解析するように”通過する生徒たちを観察し続けていた。


「今日は遅刻はなし、ね」

軽く冗談めかしながら、二人はゲートへ近づく。


前の生徒が光をくぐると、

タグが空中に浮かぶ。


《リオ・ライナー:LV2》


その光景を見つめるカナタの瞳に、わずかな反応が生まれた。

好奇心ではない。

ただの“観察”――まるで自分の世界ではないものを見るような。


そして、カナタの番。


カナタがゲートを通る。

白い光が、ふっと揺れた。


《カナタ・アレイシア:LV0(制限中)》


一拍。


ざわり、と空気が遅れて動く。


「……ゼロ?」

「表示、バグじゃないの?」

「制限中って……」


ひそひそとした声が、波紋のように広がっていく。

だがカナタは振り返らない。


ただ、自分の手首に浮かぶリングを、静かに見下ろしていた。


――これが、わたし……?


カナタが小さく首をかしげると、

ユウナギは「……そうだよな」という顔で微笑む。

どこか安堵したような、諦めたような表情で。


「これ。識別リングって言うんだよ」


自分の手首の、薄く光る白いリングを服の袖をまくって指し示した。


「市民データとか“能力”レベルとか、全部ひとまとめ。

 学校のゲートも、これが反応しないと入れないんだ、昨日も通っただろ?」


「……能力?」


「うん。特殊能力のレベル。

 カナタは今、事故の影響で“ゼロ”扱いになってて……」


「そう……でしたか?」


熱のない返事。

まるで他人事のような声。


確かに見えている。

数字も、名前も、意味も理解できる。

それなのに、そのどれにも実感だけが結びつかない。


隣で、ユウナギの肩がわずかに強張った。

昨日と同じ表示のはずなのに、胸の奥の痛みだけが、今日の方が深かった。


白い光が消え、ゲートは次の生徒を待つ状態へ戻る。


日常は、何事もなかったかのように先へ進む。


けれど――

カナタの世界だけが、そこから一歩、取り残されていた。



(第一章・了)


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

第1章は、

カナタが「戦う」物語ではありません。

自分が、世界からどれだけズレているのか。

その違和感に、ただ立たされる章です。

「ゼロ」と表示されたあの瞬間、

彼女は初めて、

世界に“見つけられた”存在になります。

次章では、

周囲の視線と、過去の“名前”が、

少しずつ彼女を縛り始めます。

よろしければ、続きをお付き合いください。


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