第8話:神官長の嫉妬は「尋問」の味がする
神殿の宿舎に戻った俺を待っていたのは、極上の笑顔を浮かべたアテナだった。 ただし、その背後には不動明王も裸足で逃げ出すほどの、どす黒いオーラが燃え上がっている。
「……おかえりなさい、ミナト」
アテナはソファに座り、優雅に脚を組んでいた。 その指先には、一枚の紙片が摘まれている。 ――図書館でノアから渡された、あの『栞』だ。
「あ」
「『あ』じゃないわよ。……ねえ、ミナト。私、言ったわよね?教室から出るな、他の女と目を合わせるなって」
アテナがゆらりと立ち上がる。 部屋の空気が一気に重くなる。物理的に重力が強くなった気がする。
「そ、それは……トイレに行きたくて……」
「トイレに行くのに、図書館の香りがつくのかしら?それに……この栞」
彼女は栞を鼻先に近づけ、スゥッと匂いを嗅いだ。 その瞬間、紫水晶の瞳がカッと見開かれる。
「……知らない女の匂いがする。それも、理知的で、冷たくて、生意気な……『知恵の管理者』の匂い」
警察犬かよ。 いや、それ以上の精度だ。
「誰?どこの女?いつ会ったの?何を話したの?どこを触られたの?……ねえ、答えて?」
一歩下がるごとに、アテナが一歩近づいてくる。 壁際まで追い詰められた俺は、逃げ場を失った。 ドンッ! アテナの白魚のような手が、俺の顔の横の壁に叩きつけられる。 完璧な壁ドンだ。ただし、男女逆転の。
「ミナト。あなたは優しいから、悪い虫がつきやすいのよ。……やっぱり、私が徹底的に管理しないとダメね」
「ア、アテナ、落ち着け。ただ本を読んでた時に、落とし物を拾っただけだ」
「嘘」
アテナの顔が近づく。 吐息がかかる距離。彼女の瞳には、嫉妬と独占欲、そして不安が揺らめいていた。
「……私だけじゃ、不満なの?」
その言葉は、恫喝ではなく、懇願のように聞こえた。 強大な力を持つ神官長でありながら、彼女は俺のことになると、とたんに脆くなる。
「私は、あなたがいなくなったら生きていけない。世界なんてどうでもいい。あなただけが、私の世界の全てなの。……だから、お願い。私を不安にさせないで」
彼女の手が、俺の胸元を掴む。 震えている。 こんな顔を見せられて、突き放せるわけがない。
「……悪かったよ。約束を破ってごめん」
俺はため息をつき、彼女の頭に手を置いた。 ポンポン、と優しく撫でる。 この世界の男性は、こんな風に女性に触れたりしないだろう。 だが、今の彼女に必要なのは「服従」ではなく「安心」だ。
「俺はどこにも行かないよ。アテナが召喚してくれたんだろ?」
「……うん」
「お前が一番大事だ。それは変わらない」
半分は本音で、半分は今夜の脱走のための甘い嘘だ。 だが、効果は覿面だった。 アテナの瞳から険しい色が消え、とろけるような甘い色が戻ってくる。
「……ミナト……」
彼女は俺の腰に腕を回し、胸に顔を埋めた。
「今日はもう、離さないから。……朝まで、私だけのものになって」
その夜、アテナの「甘え」はいつも以上に激しかった。 まるで、俺の存在を確かめるように、何度も何度も、抱きしめられた。 彼女が安らかな寝息を立て始めたのは、日付が変わる頃だった。
(……悪いな、アテナ)
深夜2時。 俺はそっとベッドを抜け出した。 隣で眠るアテナの銀髪が、月明かりに照らされている。 彼女の「重い愛」は心地よいが、それだけではこの世界の「違和感」は拭えない。
ノアの言葉。 『歴史は改竄された』。 そして、『本当は男も魔力を……』。
もしそれが真実なら、俺たち男性は「守られる存在」として去勢されていることになる。 アテナも、その「嘘」の上に成り立つ神殿の頂点にいる存在だ。 彼女を守るためにも、俺は真実を知らなきゃいけない。
俺は音を立てないよう窓を開け、夜の学園へと忍び出した。 目指すは、学園の北側にそびえる巨大な時計塔。
夜風が冷たい。 中庭を抜けようとした時、不意に視線を感じた。 誰かいる? いや、気のせいか。 ……そういえば、リナが「夜の魔獣狩りは最高だよ!」と言っていたのを思い出したが、まさかこんな時間に徘徊してはいないだろう。
時計塔の下に着くと、巨大な針の音がカチ、カチ、と重く響いていた。 満月の光が、石畳に長い影を落とす。
「――来ましたね」
影の中から、音もなく少女が現れた。 ノアだ。 昼間と同じ制服姿だが、その手には分厚い本ではなく、複雑な紋様が刻まれた短剣が握られている。
----ᛗᛖᚵᚪᛗᛁᚾᛟᚢᚱᚪᚵᛁᚱᛁ----
「アテナ神官長の監視を抜けてくるとは……やはり、貴方は『特別』なようですね」
「命がけだったよ。……で?真実ってのは何なんだ」
俺が単刀直入に尋ねると、ノアは短剣で地面を指し示した。 そこには、月光に照らされて微かに光る、魔法陣のような刻印があった。
「ここが、世界の『綻び』の一つです。……ミナト先輩、貴方の血を、ここに垂らしてください」
「は?血?」
「貴方は『異界の魂』であり、この世界の理の外にいる存在。貴方の血だけが、この封印を解き、隠された歴史への扉を開く鍵になるんです」
ノアの瞳は真剣そのものだ。 罠かもしれない。 だが、ここで引けば、俺は一生「アテナの愛玩動物」で終わる。
「……わかった」
俺は覚悟を決め、指先を少しだけ噛み切った。 血が滲む。 それを、魔法陣へと滴らせる。
ジュッ! 血が石畳に触れた瞬間、青白い光が爆発的に溢れ出した。 地面が震え、時計塔の針が高速で逆回転を始める。
『――認証。異界ノ因子ヲ確認――』
無機質な声が頭に響く。 そして、俺たちの目の前の空間が歪み、地下へと続く黒い階段が出現した。
「……ビンゴですね」
ノアが口元を歪め、初めて感情的な笑みを見せた。 それは、獲物を見つけた狩人のような、あるいは革命前夜の志士のような、危険な笑みだった。
「ようこそ、ミナト先輩。……ここから先は、『女神の裏切り』の歴史が眠る、禁断の書庫です」
俺はゴクリと唾を飲み込む。 パンドラの箱が開いた。 この先に待つ真実を知ってしまえば、もう二度と、あの甘く平和な「逆転生活」には戻れないかもしれない。
それでも、俺は一歩を踏み出した。 男として、自分の足で立つために。
(続く)




