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第14話:神官長の嗅覚と、拭えない『獣』の残り香

 心臓が、早鐘を打っていた。

 全力疾走で「嘆きの森」を抜け、校舎裏の茂みを飛び越え、なんとか学生寮の自分の部屋に滑り込む。

 時刻は午後1時すぎ。昼休みが終わるギリギリの時間だ。


「はぁ……はぁ……」


 息を整え、服の乱れを直す。

 鏡を見る。

 首筋――さっきルナが鼻を押し付け、甘噛みしようとした場所――に、赤いあとは……ない。

 ギリギリセーフだ。


(……いや、アウトか?)


 俺は自分の襟元をクンクンと嗅いでみた。

 森の土の匂い。草木の匂い。

 そして、その奥に混じる、独特のムスクのような甘く野性的な香り。

 ルナの匂いだ。


「……マズいな」


 消臭魔法なんて便利なものは使えない。

 シャワーを浴びている時間もない。

 とりあえず制服の上から消臭スプレー(こっちの世界にある錬金術で作られたハーブ水)を乱射する。


 ガチャリ。


 無情な音が響いた。

 ドアノブが回り、鍵がかかっていたはずの扉が、音もなく開く。

 そこに立っていたのは、銀髪の美少女。

 神官長、アテナだった。


「……おかえり、ミナト」


 アテナは微笑んでいた。

 背景に百合の花が咲き乱れるような、聖女の如き微笑み。

 だが、その瞳孔は開いており、ハイライトが一切ない。


「あ、ああ。ただいま、アテナ。どうしたんだ、急に」


 俺は努めて明るく振る舞いながら、ハーブ水の瓶を背中に隠した。


「『どうした』じゃないわよ」


 アテナは部屋に入ると、パタンと扉を閉め、鍵をかけた。

 密室。

 逃げ場はない。


「昼休み中、ずっと探していたのよ? 教室にもいない、食堂にもいない、図書室にもいない……。トイレにしては、随分と長かったわね」


 コツ、コツ、とヒールの音を響かせながら、彼女が近づいてくる。

 一歩ごとに、部屋の空気が重くなる。


「あー……その、ちょっと腹の調子が悪くてさ。外の空気を吸いに、中庭のベンチで寝てたんだ」


「嘘」


 即答だった。

 アテナは俺の目の前まで来ると、スゥッと鼻を鳴らした。


「……ハーブの匂い。安い消臭剤ね。……何を隠そうとしたの?」


「いや、汗臭いかなと思って……」


「違う」


 アテナの手が伸びてくる。

 俺の胸ぐらを掴むのではなく、優しく、けれど絶対に拒否できない力強さで、俺の頬を包み込んだ。


「……獣の匂いがする」


 彼女の顔が近づく。

 鼻先が触れ合う距離。

 アテナの紫水晶の瞳が、俺の瞳の奥底まで覗き込んでくる。


「それも、ただの魔獣じゃない。……発情した、メスの獣人の匂い」


(……鑑定スキル持ちかよ!?)


 冷や汗が背中を伝う。

 バレている。完全に。


「ねえ、ミナト。……私という婚約者(自称)がいながら、どこの野良犬と遊んできたの?」


 アテナの声色が、低く、甘く、そして恐ろしくなる。


「まさか、あの森に入ったんじゃないわよね? あそこは立ち入り禁止区域よ。……そして、反乱分子たちが潜んでいるという噂もある場所」


 彼女の指先が、俺の首筋――ルナが触れた場所――をなぞる。

 ゾクリとした悪寒が走る。


「……偶然、迷い込んだだけだ。そこで魔獣に襲われかけて……」


「魔獣? ふふ、そうね。……『泥棒猫』の次は『野良犬』かしら。私のミナトに近づく害獣は、一匹残らず駆除しなきゃいけないわね」


 アテナの背後に、ゆらりと青白い炎が揺らめいた気がした。

 本気だ。

 彼女は今すぐにでも森を焼き尽くすつもりだ。ルナやノアごと。


「ま、待てアテナ! 何もされてない! 俺は逃げてきただけだ!」


 俺は必死に弁解した。

 ここで彼女を暴走させたら、レジスタンスとの協力体制どころか、森が生態系ごと消滅する。


「……何もされてない?」


 アテナの動きが止まる。


「本当に? キスも? それ以上のことも?」


「誓って何もしてない。……ただ、ちょっと触られただけだ」


「どこを?」


「……足とか、腕とか」


「……」


 アテナは沈黙した。

 その瞳から炎が消え、代わりに、深くよどんだ闇が広がる。


「……汚らわしい」


 彼女は吐き捨てるように言った。


「あの下品な獣の匂いが、あなたの肌にこびりついていると思うだけで……吐き気がするわ」


 アテナは俺を突き飛ばした。

 俺はそのままベッドに倒れ込む。

 起き上がろうとした俺の上に、アテナがのしかかってきた。


 ドンッ!


 彼女の両手が、俺の顔の横に叩きつけられる。

 覆いかぶさる銀髪。

 甘い香油の匂いが、ルナの野性的な匂いを塗りつぶすように押し寄せてくる。


「消毒するわ」


 アテナの瞳は、もう理性的な光を宿していなかった。

 あるのは、狂おしいほどの独占欲と、執着。


「その服も、その肌も、その匂いも……全部、私が上書きしてあげる。二度と、他の女の匂いなんてさせないように」


 ビリッ!!


 俺の制服のシャツが、魔法によって弾け飛んだ。

 ボタンが床に散らばる音。

 露わになった上半身に、アテナが顔を埋める。


「あっ、アテナ……!?」


「黙ってて!」


 彼女は叫んだ。その声は、怒りというより、悲鳴に近かった。


「どうして……どうしてわかってくれないの!? 私は、あなたがいないとダメなの! あなたが他の女に触れられるだけで、心が引き裂かれそうになるのよ!」


 彼女の唇が、俺の鎖骨に押し付けられる。

 キスではない。

 噛みつかれた。


「いっ……!」


「痛い? でも、我慢して。……これは罰よ。私を不安にさせた罰」


 彼女は何度も、何度も、俺の肌に歯を立て、吸い付き、赤いキスマークを刻んでいく。

 ルナが触れた場所を重点的に。

 まるで、獣のマーキングを消し去り、自分の所有権を主張するように。


「ここは私の。ここも私の。……全部、アテナ様のもの」


 熱い。

 彼女の吐息も、唇も、そして零れ落ちてくる涙も。


 俺は抵抗するのをやめた。

 彼女の暴力的なまでの愛撫は、確かに痛いし、理不尽だ。

 けれど、その根底にあるのは「孤独」だ。


 世界で一番偉い神官長。

 誰からも崇められ、恐れられる存在。

 そんな彼女が、俺という一人の「無力な男」にすがりつき、泣いている。


(……ずるいよな、本当に)


 こんな姿を見せられたら、突き放せるわけがない。

 俺はそっと手を伸ばし、彼女の震える背中を抱きしめた。


「……悪かったよ。もう、心配させるようなことはしない」


「……嘘つき」


 アテナは顔を上げ、涙に濡れた瞳で俺を睨んだ。


「あなたは優しいから、また困っている人がいたら助けるんでしょう? その人が女でも、敵でも……」


「それは……」


「でも、いいわ。……その優しさが、あなたの『強さ』の源なら」


 アテナは妖艶に微笑むと、俺の唇を指でなぞった。


「その代わり、最後は必ず私のところに帰ってきて。……そして、私に乱暴にされる覚悟をしておいてね」


 彼女はゆっくりと顔を寄せ――。

 俺の唇を、深く、情熱的に奪った。


 思考が溶ける。

 ルナとの緊張感あふれる駆け引きとは違う、脳髄を痺れさせるような快楽。

 これが、最強ヒロインの「格」か。


 その日の午後の授業は、当然のようにサボることになった。

 部屋の外では、午後の授業開始を告げるチャイムが鳴り響いていたが、今の俺たちには届かない。


 ――だが、俺たちは気づいていなかった。

 この甘い「密室」の外で、世界が大きく動き出していることに。


 学園長室。

 そこには、冷ややかな目をしたヒルデガルド先生と、水晶玉を通じて報告を受ける「ある人物」の姿があった。


『……ほう。アテナが、そこまで執着する男か』


 水晶玉の向こうから、野太い、しかし知性を感じさせる男の声が響く。


『面白い。その男……湊と言ったか。……彼を「王の選定儀式トーナメント」に参加させろ』


「ですが、陛下。彼は魔力を持たない『男』です」


『構わん。……もし彼が本物なら、この腐った世界のルールをぶち壊してくれるだろう』


 男は愉しげに笑った。


『さあ、見せてもらおうか。……女神の呪いを解く、「反逆の王」の誕生を』


 アテナの腕の中で微睡まどろむ俺は、まだ知らない。

 自分の知らないところで、学園全体、いや国全体を巻き込む巨大なイベントへの参加が決定してしまったことを。


(続く)

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