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残ったのは、コーヒーを淹れる音だけ

掲載日:2025/11/15




 歳を取り、朝が少しだけ長くなった。

 昔みたいに、布団から跳ね起きることはもうできない。でもまあ、急ぐ理由もない。


 台所でコーヒーを淹れるときだけ、部屋が少しだけ若返る気がする。

 かつて妻が、同じ音を立てていたからだ。


 今は一人暮らし。別れたのは、もう七年前になる。


 正確に言えば、どちらが悪いというわけでもなかった。

 積み重なった生活のほころびが、ある朝、急に音を立てて破れただけだ。

 喧嘩もほとんどなかった。

 逆に、それがいけなかったのかもしれない。


 ――静かな夫婦は、静かに終わる。


 そんな言葉をどこかで読んだが、本当にそうなのだと思う。


 


 今日、ポストに小さな封筒が入っていた。

 差出人の名前を見た瞬間、心臓がすこしだけ跳ねた。


 “元気にしていますか?”


 便箋には、その一行しか書かれていなかった。

 癖のある丸い字は、たしかに彼女のものだった。


 返事を出そうか迷った。

 迷って、結局、出さないことにした。


 いまの自分の生活は、きっと相手の思い出を塗り替えるほど綺麗でもない。

 そして、相手の生活も、きっとそうだ。


 壊れた関係に手を伸ばす勇気は、若い頃に全部使ってしまった。


 


 封筒を机の引き出しにしまって、またコーヒーの粉を計る。

 湯をそそぐと、ふわっとした香りが立ちのぼる。


 ――ああ、たしかに昔と同じ香りだ。


 でも、もう“二人分”にはならない。


 カップを一つだけテーブルに置くと、不思議なほど落ち着く。

 切なさは少しだけあるけれど、痛みではない。


 あれから七年も経ったのだから。

 どちらも、それなりの場所で、それなりに生きて、

 それで十分なのだと思う。


 


 コーヒーをひと口飲む。


 ちょうどいい苦さだった。




そういう設定です。

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