道鏡天皇事件
【道鏡】
恵美押勝の乱が鎮圧された後、拙僧は予想だにしない高みへと引き上げられた。
「道鏡、そなたを法王に任ずる」
帝――重祚され称徳天皇となられた方は、そう仰せになられた。
法王。仏教界の頂点に立つ、かつて無き地位。
それは、僧としては栄誉この上ないものであった。
だが、同時に拙僧は、己の内なる声を聞いた。
(……これは、過ぎたる事ではないか?)
帝の仏教への傾倒は、確かに深い。
それは純粋な信仰心から来るものだと、拙僧は信じている。
だが、その傾倒の深さ故に、周囲が見えなくなっておられるのではないか?
そして、拙僧もまた……法王という地位に、心のどこかで酔っていたのではあるまいか?。
(いや、拙僧はただ仏法を広めたいだけだ。この国を、仏の教えで満たしたいだけなのだ)
そう自分に言い聞かせながら、拙僧は帝と共に、仏教重視の政策を進めていった。
寺院の建立を推進し、僧侶の地位を高め、仏法による国家統治を目指す。
それは、聖武天皇が大仏を建立された時の理想を、更に推し進めたものだった。
「道鏡、仏の教えこそが、この国を守るのです」
帝は、そう繰り返し仰った。
「仰せの通りにございます」
拙僧は、ただ頷くしかなかった。
だが、朝廷の空気は、日に日に重くなっていく。
藤原氏を始めとする貴族たちの視線が、拙僧に突き刺さる。
帝以外の皇族の方々も、良い顔はしておらぬ。
彼らの目には、明らかな敵意があった。
僧である拙僧が、政治の中枢に居座ることへの反発。
事実、帝と拙僧は専横と取られても仕方ないほど、まつりごとを押し進めている。
拙僧が高位の貴族や皇族の出ならば、また違ったやも知れぬが、所詮拙僧は左程地位の無い弓削の家より出家した者。
侮蔑や敵意を向けられるのは必然であり、それは、日を追うごとに強まっていった。
そして……あの事件が起きたのだ。
「宇佐八幡宮より、神託があったとのことです」
ある日、使者が報告に訪れた。
その内容を聞いた時、拙僧は背筋が凍る思いがした。
『道鏡を天皇とすれば、天下は太平ならん』
(……何という、馬鹿げた話だ)
拙僧は、即座にそう思った。
天皇とは、天照大神の子孫が継ぐもの。
それは、この国の根幹を成す原則だ。
かつて、光明皇后が人臣の身でありながら皇后となった時ですら、朝廷は大いに揺れた。
藤原氏という、それでも皇室に連なる血筋の者ですら、である。
それが、何の血縁も無い、ただの僧が天皇になれば、世が治まる筈がない。
(これは……罠であろうな。それほどまでに、拙僧が目障りとなった、か)
拙僧は、すぐに察した。
藤原氏か、或いは他の皇族か。
拙僧を陥れようとする者たちが、この神託を捏造したのだろう。
「陛下、この神託は……」
拙僧は、帝に進言しようとした。
だが、帝の目には、期待の光が宿っていた。
「道鏡、そなたが天皇となれば……」
(ああ、帝は……本気で、そう考えておられるのか。これは拙僧にも咎がある。帝を諫めされなかったこの身の……)
拙僧は、絶望を感じた。
帝の仏法への傾倒は、もはや周囲が見えぬ程に深まっていたのだ。
結局、和気清麻呂という者が、再度神託を確認するために宇佐へ派遣された。
そして、彼が持ち帰った神託は、こうだった。
『天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし』
つまり、天皇は皇族が継ぐべきであり、道を外れた者は排除せよ、と。
(……やはり、な)
拙僧は、その報告を聞いた時、むしろ安堵した。
これで、この馬鹿げた話は終わる。
だが同時に、拙僧の運命も終わったのだと悟った。
帝は、激怒された。
和気清麻呂を流罪とし、拙僧を擁護しようとされた。
だが、もはや遅かった。
貴族たちは、一斉に拙僧を糾弾し始めた。
「僧の身で、帝位を狙うとは!」
「仏法を利用して、権力を奪おうとした!」
(……そんなつもりは、無かったのだが)
拙僧は、ただ黙って耐えるしかなかった。
弁明しても、誰も信じまい。
元より、女性の帝を誑かした破戒僧などという扱いをされて居たのだ。
拙僧を貶めるにこれほどの好機はあるまい。
そこまで考え、ふと疑念が過る。
(いや……拙僧自身、本当に全く野心が無かったと、断言できるだろうか?)
法王という地位に就いた時。
帝の信任を受け、政治に関わるようになった時。
拙僧の心に、驕りは無かっただろうか?
(……そうか。拙僧は、身に余る立場に、目を眩ませていたのだ)
無意識の内に、拙僧は増長していたのかもしれない。
ただの僧が、国の政を左右する立場に立っていたこと。
それ自体が、既に道を外れていたのではないか?
故に、この結末が訪れたのであれば、これも必然というモノであろう。
程なくして、帝が崩御された。
そして、新たな帝が即位された。
拙僧は、その光景を、遠くから見守った。
もはや、拙僧に政治に関わる資格は無い。
貴族たちは、再び政治の主導権を取り戻し、その中でも藤原氏が、橘氏が、朝廷の中枢を占める。
仏教重視の政策は、静かに修正されていく。
(……拙僧の時代は、終わったのだ)
下野国への左遷が決まった時、拙僧は静かに受け入れた。
都を離れ、遠い地で余生を送る。
それが、拙僧に残された道だった。
下野国薬師寺。
そこで、拙僧は再び、ただの僧として過ごすことになった。
朝の勤行。
経典の読誦。
民衆への説法。
かつて、拙僧が若き日に行っていた、僧としての日常。
それが、今は何よりも尊く感じられた。
(これで、良かったのだ)
夕暮れ時、寺の境内で、拙僧は静かに合掌する。
「南無阿弥陀仏……」
法王として権勢を誇った日々は、まるで夢のようだった。
だが、その夢から覚めた今、拙僧は穏やかな心を取り戻していた。
そして、ある日。
拙僧は、静かに息を引き取った。
最期まで、拙僧は祈り続けた。
この国の平和を。
仏法の繁栄を。
そして、かつて拙僧を信じてくださった、あの帝の魂の安寧を。
【アキト】
(……道鏡の人生も、終わったか)
俺は、魔力の流れの中で作り上げた、和風の庭園のような空間で、道鏡の最期を見届けた。
隣には、いつものようにハルカが寄り添い、アマテラス達も同様の光景を共に見ていた。
(アナタ……道鏡さん、可哀想……)
(ええ、帝との純愛が、周囲に理解されなかったのでしょうね……)
ハルカが、涙ぐみ、アマテラスまで、何やら感動した様子で言っている。
二人とも、どうも男女関係が絡むと、冷静に分析できない傾向があるが、今回は特にその傾向が強いようだ。
(ちょっと待て、二人とも。あれは恋愛じゃないだろう? どちらかと言うと信仰とか崇拝に近くなかったか?)
俺は、思わずツッコミを入れるが、
(何を言うのです、アキト様。あれこそが純愛ですよ! 互いの信仰を通じて結ばれた、魂の絆! ああ、あんな風に悲恋でもいいから素敵な旦那様が欲しい……!)
(そうよ、アナタ! 道鏡さんと帝の関係は、とても美しかったわ!)
ハルカとアマテラスは、恋愛脳を暴走させたままだ。
俺は援軍を求めてツクヨミに視線を送るが、
(姉上はそれでいいのですよ。ともあれ……あれは急伸過ぎた勢力の、政治的な失脚劇と言うべきでしょう)
ツクヨミは基本アマテラスに甘いので役に立たない。
ただ、分析自体は俺も同意見だ。
(そうだな。簡単に言えば、出る杭が打たれた、という話だ)
俺は、頷いた。
そして、ダンジョンのデータベース機能を使って、俺の生前の世界における道鏡の歴史を検索した。
(……やはり、俺の生前の歴史でも、同様の事件は起きて居たんだな)
画面に映し出されたのは、宇佐八幡宮神託事件の詳細だ。
(基本的な流れは、同じか。道鏡が天皇になろうとして、和気清麻呂がそれを阻止した、と)
(その様に伝わっていた、そういう事ですな?)
ツクヨミが、興味深そうに画面を覗き込み、俺はその言葉に頷く。
(そう言う事だ。道鏡が本当に天皇になろうとしたかは、正確な所は判らない。本当に女性の帝を誑し込み、果ては天皇の位まで望んだ破戒僧だったのか……話の題材としては、そっちのが好まれそうだけどな)
チラリとハルカとアマテラスを見る。未だに恋愛脳はフル回転しているらしい。
俺は二人から視線を外し、先ほど見た道鏡の様子を思い出す。
(この世界では、道鏡自身、天皇になるつもりなんて無かった。むしろ、罠だと気付いていた)
(そうですな。これは完全に貴族側の仕掛けた陰謀に他ならない。解りやすいにもほどがある)
ツクヨミが、宮廷の過去の要素を呼び出し、そう分析する。
(そうだろうな。帝主導の仏教政策や仏教優遇路線を否定したい貴族が、帝の権威は維持しつつ、道鏡に醜聞を持たせてスケープゴートにした)
(帝の権威を否定すれば、貴族自身の立場も危うくなる。同時に、仏教全体を敵に回すこともできず……)
ツクヨミが、俺の言葉を継いだ。
(大仏の存在を考えると、な。あの威光を見せつけられた後で、仏教そのものを否定するのは難しい。だから、道鏡一人に全ての咎を押し付けようとした)
(道鏡一人に全てを押し付けるなら、あの神託はまさしく妙手だ。事実、道鏡の全ての権威は失墜した)
(道鏡本人に野心がないのであれば、この流れの妥当性は高いでしょう)
俺たちは、頷き合った。
政治的な駆け引きとしては、見事なものだ。
貴族たちは、仏教勢力の勢いを削ぎつつ、自分たちの立場を守った。
(しかし、ここまで朝廷が不安定だと……)
と、そこでスサノオが口を開いた。
(兄上、東国や奥州の方が騒がしくなってきたぞ)
(奥州?)
俺は、視点を奥州──つまり東北地方に移した。
そこには……
(これは……大怪異の残滓か?)
かつて、長屋王の怨念が引き起こした大怪異。
その残滓である瘴気が、東北各地に残っていた。
そして、その瘴気を元に、朝廷に反抗する勢力が生まれようとしているのだ。
(朝廷の政治的不安定さが、地方にも影響を及ぼしているようだな)
スサノオが、厳しい顔で言う。
(奥州各地に、小規模にこれら勢力が生まれている。坂東等の他の東国でも。こうも広範囲だと、朝廷としても、対応に苦労するだろう)
(それぞれ大怪異ほどの規模ではないが、それでも厄介だな……)
俺は、東北各地に点在する、小さな瘴気の塊を見つめた。
それらは、まるで朝廷への反抗の意思を持つかのように、じわじわと広がっている。
(恐らく、大規模な戦いが始まるかもしれないな)
俺の言葉に、ハルカが不安そうな顔をする。
(また、戦いなの……?)
(ああ。だが、これは避けられないだろう。朝廷が東北を完全に支配下に置くまで、この動きは続く)
俺たちは、静かに東北の地を見つめ続けた。
新たな時代が、また動き始めようとしていた。




