平城京の東、若草山の麓で、大仏は建立される
【聖武天皇】
朕は今、ようやく安堵の息を吐いていた。
「陛下、各地の国司より報告が届いております。国分寺と国分尼寺の建立が進むにつれ、瘴気が薄れつつあると」
橘諸兄の言葉に、朕は頷く。
全国に指示した国分寺と国分尼寺の建立。
それは、長屋王の大怨霊に対抗するための、朕の決断だった。
あの日から、朕は常に怯えていた。
長屋王殿の無念。
藤原四兄弟の相次ぐ死。
各地で頻発する災害。
畿内七道地震に、天平の大地震。
藤原広嗣の乱。
全てが、あの怨霊の仕業だと、朕には分かっていた。
いや、否応なしに理解させられていたのだ。
故に朕は、平城の都に留まることが出来ず、様々な地へ居を移した。
恭仁京へ、難波宮へ、紫香楽宮へ。
都を転々としながら、朕はただひたすらに、災厄から逃れようとしていた。
しかし、僧侶たちの進言により、国分寺と国分尼寺の建立を決めた時、ようやく一筋の光明が見えた気がしたのだ。
全国に仏の加護を広げ、瘴気を浄化する。
その方策は、確かに効果を上げつつあった。
「そうか……ようやく、ようやく終わるのだな」
朕は、后の手を握りしめた。
彼女もまた、この長き恐怖の日々を共に過ごしてくれた。
「陛下……」
妃の──光明皇后と呼ばれる彼女の目には、涙が浮かんでいた。
だが、その安堵の時は、あまりにも短かく、脆いものであったのだ。
それは、ある日の朝の事。
朕は、目を覚ました瞬間、何かが変わったことを悟った。
空気が、違う。
いや、正確には、空気の中に混じる何かが、違う。
朕は術者ではない。
陰陽術も、仏法も、朕にかような力は無い。
されど、朕は神の血を引きし帝であり、八百万の神々を祀る祭司の帥である。
故に、分かった。
瘴気が、動いている。
これまで日乃本に遍く広がっていた、あの黒い靄のようなもの。
それが、まるで生き物のように、一つの方向へと流れ始めていたのだ。
「何が……何が起きておるのだ……?」
朕は、震える手で衣を掴んだ。
胸の奥から、嫌な予感が湧き上がってくる。
まだ終わっていない。
いや、これから何かが始まるのだ。
朕の予感は、しばらくの後、最悪の形で的中した。
「陛下! 陸奥国より急報にございます!」
使者が息を切らせながら駆け込んできた。
その顔は、恐怖に歪んでいる。
「陸奥の国、恐山より……巨大な、巨大な怪異が現れたと! それは、今まさに都へ向けて歩みを進めているとのこと!」
朕の血の気が引いた。
「怪異だと……? どれほどの大きさだ」
「それが……山をも超える巨体と聞き及んでおります。まるで、悪夢が形を成したかのような異形の巨人であると」
大納言に任じた橘諸兄が、資料を確認しながら報告を続ける。
「陸奥国司の報告によれば、その怪異は瘴気を纏い、通る場所全てを穢しながら南下しております。恐らく、目指しているのは……都かと」
「ど、どれほどで到達する……?」
朕は、声を震わせながら問うた。
「それが……」
橘諸兄は、僅かに表情を緩めた。
「その怪異は、国分寺を嫌うようでございます。国分寺が建つ街道や平地を避け、険しい山地を超える進路を取っているとのこと。そのため、歩みは極めて遅く、都への到達には、まだ相当の時間を要するかと」
朕は、一瞬だけ安堵した。
だが、すぐにその甘さを自覚する。
時間がかかるとはいえ、確実にやってくる。
それほどに巨大な怪異が。
「朝廷は、どうすればよいのだ……」
朕の呟きに、居並ぶ公卿たちも沈黙した。
誰も、答えを持っていなかった。
山をも超える巨体の怪異。
瘴気を纏い、全てを穢す存在。
それに、人がどう対抗できるというのか。
宮中は、恐怖と絶望に包まれた。
だが、その時だった。
「陛下」
都の高僧たちが、進み出た。
彼らは、国分寺と国分尼寺の建立を上奏した僧侶たちだ。
朕は、その顔を見て、僅かな希望を感じた。
前回の彼らの進言は、確かに効果があり、成果を成している。
ならば、今回も。
「申し上げます。巨大な怪異ならば、同じく巨大な尊きもので対抗すべきかと存じます」
「巨大な、尊きもの……?」
朕は、その言葉の意味を測りかねた。
「左様にございます。巨大なる仏の姿……すなわち、大仏の建立を」
大仏。
その言葉に、朕は目を見開いた。
「仏像は、我らの祈りに応えてくださいます。小さな仏像であっても、魔力を宿し我らの意思に応え、動かれる。ならば、巨大な仏像を建立すれば、その力もまた巨大なものとなるのではないかと」
僧侶の言葉に、朝廷内がざわめいた。
確かに、この地において、仏像はまるで生きているかのように動き、またその威光を光として発することは、広く知られていた。
放たれる光は、現世で迷う亡者の魂を浄化し、浄土へと導くのだと。
事実、戦場ではその様に彷徨う動く屍を、僧が仏像と共に浄化すると聞く。
その様は、この日乃本では当然の事。
ならば、山をも超える巨大な仏像を建立すれば……。
「しかし、そのような巨大な仏像を建立するには、膨大な資材が必要になるのではないか」
参議の一人が問うた。
「左様にございます。木造では、強度の面で不安が残ります。金属で造るべきかと」
「金属……銅か、鉄か」
「しかし、国中の銅や鉄をかき集めても、足りるかどうか……」
公卿たちが、計算を始める。
だが、どう計算しても、時間が足りない。
その時、橘諸兄が口を開いた。
「陛下、一つ、策がございます」
朕は、諸兄を見た。
「地の底へ道、もしくは魔穴とも呼ばれる、各地の霊洞がございます」
「魔穴……ああ、もちろん知っている。古より、この地に多くの恵みをもたらす、あれか」
朕も、その存在は知っていた。
内部には独特の獣等が湧き水のように現れるとされる。それらは古くから民の食となり、また携えている武器や道具は地の底の神よりの恵みであると。
「あの中で手に入る武器や防具は、全て神秘なる力を含んだ金属で出来ております。それらを鋳潰せば、巨大な仏像を建立するための金属が手に入るのではないかと」
朕は、その提案に目を見開いた。
「しかし、そのためには、膨大な量の武器を集めねばならぬだろう」
「左様にございます。故に、国を挙げて、魔穴に挑むべきかと。各地の魔穴へ兵を派遣し、魔物を倒し、武器を集める。これまでにない、大規模な作戦になるかと存じます」
朕は、暫し考えた。
国を挙げての魔穴攻略など、およそ前例のない試みだ。
だが、他に道はない。
同時に、この地の恵みを改めて実感する。
神々の加護は、未だ我らを見捨てては居ないと。
「よかろう。各地の国司に命じよ。兵を集め、魔穴へ向かわせ、あらゆる産物を確保せよと」
朕の決断に、朝廷内が動き出した。
暫くの後、朕の命は実行に移され、大仏は驚くべき速さで造られていった。
都近隣の国々では多くの兵が魔穴に潜り、その成果を持ち帰っては輸送の部隊へと託す。
それらは平城京の東、若草山の麓へと運び込まれ、鋳潰される。
溶けた金属は鋳型に流し込まれ、大仏の細かな構成物へと変じてゆく、
その作業の傍らでは、多くの僧が読経と共に法力とも呼ばれる気を作られる構成物へと送り込んでいた。
一方で、大怪異の動向も都へと届く。
大怪異は時に他の変異した化生を取り込み、また時には瘴気をまき散らしつつ、止まることなく都へと進んでいた。
果たして、大仏が出来上がるのが先か、大怪異が我が元にたどり着くが先か。
身が削れるような焦燥の中、再び高宗らが珍に上奏を申し出て来たのだ。
先に大仏建立を提案した高僧が、朕の前で再び口を開く。
「陛下、恐れながら、提案がございます」
「申せ」
朕は、その僧を見た。
「大仏に、大いなる力の核を埋め込むべきかと存じます」
「核……?」
高僧は、恭しく頭を下げながら続けた。
「魔穴の最奥には、巨大な岩がございます。我らは、それを魔穴核岩と呼んでおります。その岩こそが、魔穴に魔力を供給し、魔物を生み出す源。もしそれを掘り起こし、大仏に埋め込んだなら……大仏は、大怪異をものともしない、真の護国の象徴となるのではないかと」
朕は、息を呑んだ。魔穴の核。
それを、大仏に。
更には、ただ大怪異への対抗ではなく、長く鎮座する護国の化身としようなどとは。
その発想は、余りに大胆不敵。
しかし同時に、理にかなっているようにも思えた。
「……その案、如何なる者が考えたのだ?」
「確か……若い僧の一人が申しておりました。道鏡と申したか……まだ若輩ではございますが、なかなか鋭い洞察を持つ者にございます」
朕が問うと、高僧は一瞬考える素振りを見せた。
道鏡。
朕は、その名を心に留めた。
だが、今はそれよりも、この案の是非だ。
「……分かった。その案、採用しよう」
朕は、そう告げた。
しかしかの岩は、多くが人が両の手を伸ばす以上の大きさだとか。
かようなものを化生が湧く魔穴から持ち出すというのは、容易ならざる行いであろう。
であるならば、掘り起こす石工や特別な力自慢を招集せねばなるまい。
朕は、それらを臣に命じる事とした。
長くなったので、分割して本日2話投下します。
2話目は、夕方18時投下予定。




