疫病で藤原四兄弟は病に倒れ、朝廷に政治的空白が生じた
【藤原四兄弟】
平城京の藤原邸は、かつてないほどの栄華に包まれていた。
「我らの妹君が皇后となられた。これ以上の栄誉があろうか」
長男の武智麻呂は杯を掲げ、弟たちと共に祝杯を上げる。
次男の房前、三男の宇合、四男の麻呂――藤原不比等の遺した四人の息子たちは、今や朝廷の中枢を掌握していた。
父・不比等が敷いた政治の道筋を、彼らは忠実に歩んでいる。
光明子を聖武天皇に嫁がせ、ついには非皇族初の皇后へと押し上げた。
その過程で立ちはだかった長屋王は、左道の罪により自害へと追い込まれている。
「長屋王殿には気の毒なことをした、などと言う者もおるが」
「気の毒? あの方は皇族の矜持に溺れ、時の流れを見誤ったのだ。我らが妹君を皇后とすることに異を唱えるなど、愚かとしか言いようがない」
房前が杯を傾けながら呟くと、宇合が冷ややかに笑った。
「左道の嫌疑も、根も葉もぬ話ではあるまい。基王様の夭折の後、あの方の屋敷からは妙な気配が漂っておったと聞く」
「いずれにせよ、長屋王は過去の人だ。我らは前を向かねばならぬ。光明皇后様のもと、藤原の一族は更なる繁栄を迎える。父上の遺志を継ぎ、この国を導いていくのだ」
麻呂が付け加えると、武智麻呂は頷いた。
四人の顔には、後悔の色など微塵も無い。
彼らは確信していた――自分たちこそが、この国を正しき道へと導く者であると。
朱雀大路を行き交う人々、整然と区画された平城京、遠く大陸から訪れる使節たち。
全てが藤原氏の栄華を物語っていた。
父・不比等が夢見た律令国家の完成形が、今まさに目の前にある。
夜会は深更まで続き、四兄弟は我が世の春を謳歌した。
長屋王の死など、すでに遠い過去のことのように思える。
……しかし、その平穏は長くは続かなかった。
ある年の夏、九州から不吉な報せが届く。
「大宰府より急報。疫病が発生し、多くの民が倒れております」
「疫病とな。規模はどれほどか」
使者の言葉に、武智麻呂は眉をひそめた。
「筑前を始めとした九国二島、更には百済にまで広がっております! 日を追うごとに患者が増えており、大宰府では税の徴収もままならず、朝廷への税の免除を要請したいとのこと」
房前が資料に目を通しながら言った。
「天然痘か。おそらく大陸から流れてきたものであろう。しかし、この地の民は加護で疫病にも強かろう。加持祈禱を施せば、それほど恐れることもあるまい」
「左様。大宰府には適切な対処を命じよ。僧侶を派遣し、祈禱を行わせればよい」
「良い機会ぞ。百済にも僧を派遣し祈祷させよ。恩を売れるであろうな」
宇合が冷静に答える。
彼らにとって、西海道(九州)の疫病は、遠い地の出来事でしかなかった。
むしろ外交上の機会とさえとらえて居る。
だが、日を追うごとに事態は深刻さを増していく。
「大宰府より再度の急報。疫病の勢いは衰えず、加持祈禱も効果が薄いとのこと」
「何だと!? 祈禱が効かぬとは、どういうことだ? 加護があれば、疫病など恐るるに足らぬ筈ではないか」
「それが……僧侶たちの祈禱も、陰陽師の術も、いずれも十分な効果を上げられぬとのこと。まるで民の加護が弱められているかのようだと」
使者の言葉に、四兄弟の顔色が変わった。
「加護が弱められている、とな……?」
武智麻呂が呟く。
その脳裏に、ある顔が浮かんだ。
長屋王。
いや、まさか。あの方は既に亡くなっている。
死してなお、何かを為すなどということがあろうか。
房前も同じことを考えていたようだ。
「兄上、まさかとは思うが……」
「言うな。考えすぎだ」
武智麻呂は弟の言葉を遮った。
だが、その声には微かな動揺が混じっている。
疫病は九州に留まらなかった。
夏が終わり、秋を迎える頃には、山陽道、山陰道へと広がり始める。
「各地で依然患者が発生しております」
「四国でも同様の報告が」
次々と届く報告に、朝廷は対応に追われた。
税の免除要請は各地から寄せられ、人々の不安は日に日に高まっていく。
そして冬、疫病はついに畿内へと迫っていた。
「河内国で患者が確認されました」
「摂津国でも……」
「大和国の南部にも広がりつつあります」
もはや、遠い地の出来事ではなかった。
疫病は確実に、平城京へと近づいている。
藤原邸の空気は重苦しかった。
かつての祝宴の賑わいは消え、四兄弟の顔には疲労と不安が刻まれている。
「何故だ……何故、こうも広がるのだ」
宇合が机を叩いた。
「加持祈禱を行わせ、陰陽師を派遣し、あらゆる手を尽くしているというのに。まるで疫病そのものに意志があるかのようではないか」
「意志……」
麻呂が青ざめた顔で呟く。
「まさか、本当に……長屋王殿の……」
「黙れ!」
武智麻呂が叫んだ。
「そのようなことがあってたまるか。あの方は既に亡くなっている。死者が生者に災いを為すなど、あり得ぬ」
だが、その言葉には説得力がなかった。
彼ら自身が、既に感じ取っていたのだ。
夜ごと見る夢には必ず、長屋王の顔があった。
憎悪に歪んだ、呪詛に満ちた表情が。
「我を陥れた者どもよ。お前たちに安らぎなど、決して訪れぬ」
その声が、耳の奥で反響する。
目を覚ましても、その残響は消えない。
房前は夜な夜な酒に溺れるようになり、宇合は陰陽師を呼び寄せ、屋敷中に護符を貼らせた。
麻呂は寺に多額の寄進を行い、僧侶たちに祈禱を命じる。
だが、何をしても不安は消えなかった。
そして、ついに都で最初の患者が発見される。
「都の中で……!」
報告を受けた武智麻呂は、立ち上がることもできなかった。
脚が震え、冷や汗が額を伝う。
「兄上、我らも避難を……」
「逃げて、何処へ行くというのだ。疫病は既に、この国全土に広がっている。逃げ場など、何処にもない」
房前が提案したが、武智麻呂は首を横に振った。
その言葉通り、疫病は平城京の市井から貴族の邸宅へと広がり、やがて宮中にまで及んだ。
藤原邸でも、次々と使用人が倒れていく。
医師が呼ばれ、僧侶が祈禱を行うが、効果は薄かった。
倒れた使用人達が、苦しげに呟く。
「力が……ぬけておるのです……」
「いつもなら、祈禱を受ければ楽になる筈。しかし……身体の内から、何かが失われたかのよう……」
その言葉を聞き、武智麻呂は悟った。
これは、ただの疫病ではない。
長屋王の怨念が、疫病に力を与えているのだ。
人々の加護を弱め、内なる力を奪い、死へと追いやっている。
「我らの……罪か……」
呟いた時には、既に武智麻呂自身も熱を感じていた。
数日のうちに、四兄弟全員が病に倒れ伏す。
武智麻呂は高熱に浮かされながら、幻を見ていた。
長屋王が、屋敷を包囲する兵たちの前に立っている。
その顔は蒼白で、目は虚ろだ。
「何故だ……私が何をした……」
長屋王の声が聞こえる。
「皇族としての矜持を保ち、律令を守ろうとしただけではないか。それが罪か。それが、左道を学んだことになるのか」
「違う……我らは……」
武智麻呂は弁明しようとするが、言葉にならない。
幻の中の長屋王は、妃の吉備内親王と、四人の子供たちと共に座している。
やがて一人、また一人と倒れていく。
「お前たちが……お前たちが、我が一族を滅ぼしたのだ……」
憎悪に満ちた声。
それは武智麻呂の胸を貫いた。
隣の部屋では、房前が同じ幻に苛まれていた。
「我らは……国のため……藤原のため……」
だが、その言い訳は虚しく響く。
長屋王の顔が、何度も何度も脳裏に浮かぶ。
宇合は高熱の中で、密告の場面を思い出していた。
自分の部下が、長屋王を陥れる証言をした、あの日。
「我は……命じていない……だが、止めもしなかった……」
その事実が、今、彼を責め苛む。
麻呂は最も激しく苦しんでいた。
彼は長屋王の屋敷を包囲する兵の配置を、自ら指揮したのだ。
「許せ……許してくれ……長屋王殿……」
だが、許しなど訪れない。
幻の中の長屋王は、ただ憎悪に満ちた目で彼を見つめ続けた。
その年の暮れ。
わずか数日の間に、藤原四兄弟は相次いで命を落とした。
武智麻呂、房前、宇合、麻呂。
父・不比等の遺志を継ぎ、藤原氏の繁栄を築いた四人は、疫病の前に無力だった。
彼らの最期を看取った者たちは、異口同音にこう語った。
「まるで、何かに責め苛まれているようだった」
「長屋王様の名を、何度も呟いておられた」
「許してくれ、と……ずっと、ずっと……」
藤原氏の栄華は一夜にして潰えたのだ。
【アキト】
俺は、魔力の流れの中で、藤原四兄弟の最期を見届けていた。
(……なんとも、やりきれないな)
隣でハルカも、複雑な表情を浮かべている。
(アナタ、これって……)
(ああ、長屋王の怨念による呪詛だ。直接的にではないが、間接的に四兄弟を殺したと言っていい)
藤原四兄弟の視点では分からなかっただろうが、この疫病の広がり方は明らかに異常だった。
本来、この世界の日本人は魔力による身体強化の一環で、疫病にも強い耐性を持っている。
致死性の高い天然痘程度であっても、インフルエンザ程度まで脅威度が落ちるほど。
その上で、加持祈禱や陰陽術で治療があれば、後遺症ですら完全に回復してしまうのだ。
本来であれば、だが。
実際、俺自身もアバターで天然痘に罹患したが、無事復帰できている。
だが今回は違う。
(長屋王の怨霊が、人々の魔力に干渉している)
(魔力を……弱めているの?)
(そうだ。正確には、病への抵抗力を司る部分を封じている。だから加持祈禱も効きが悪い。人々の身体が、本来持っている力を発揮できなくなっているんだ)
俗な言い方になるが、瘴気による状態異常耐性へのデバフと言っていいだろう。
このせいで、病に罹り易く、また症状も深刻化してしまっている。
結果として、本来なら軽症で済む筈の天然痘が、致命的な脅威となった。
九州から始まった疫病が、瞬く間に全国へと広がったのも、この瘴気の影響だ。
俺たちは魔力の流れを通じて、その仕組みを分析したが、恐らくは都の人々もそれを自然と感じ取っているのろう。
(特に、藤原四兄弟への影響は顕著だったな)
(ええ……あの方たちの周りの瘴気は、他の場所よりも遥かに濃かった)
怨念は、標的を選んでいた。
長屋王を陥れた張本人である藤原四兄弟に対して、最も強い呪詛が向けられていたのだ。
彼らは、長屋王の瘴気に完全に包み込まれていた。
どれだけ祈禱を受けようと、どれだけ護符を貼ろうと、無意味。
既に怨念の力が身体の奥底まで入り込み、抵抗力を致命的に奪い去ったのだ。
結果として、四兄弟は疫病に対して全く無防備な状態で曝され、あっという間に命を落とした。
恐らく疫病が広まらなくとも、彼らだけは只の風邪であっても重篤化して合併症を引き起こし、死に至った筈だ。
(因果応報、というべきか……)
俺は複雑な思いで、その光景を見ていた。
長屋王の死は、明らかに不当なものだった。
証拠もなく、弁明の機会も与えられず、一族全員が死に追いやられた。
その無念が、怨念となって現世に留まるのも、ある意味では当然だった。
そして、その怨念が藤原四兄弟の命を奪った。
これもまた、因果の帰結なのかもしれない。
(アナタ、あれは……)
(ああ、藤原四兄弟は死んだ。そのためか、長屋王の怨念も、かなり浄化されたみたいだな)
ハルカの声に、俺は意識を集中させた。
四兄弟の死後、大怨霊の中心であった長屋王の怨念は消え去っていた。
直接の仇を討ったことで、成仏したのだろう。
だが……。
(怨念が、集まり過ぎている。核になった長屋王が消えても、アレでは霧散しないぞ)
(……もう、中心になった想いは消えたのに)
俺たちは同時に、ある事実に気づいていた。
藤原四兄弟への復讐は果たした。
その部分の怨念は確かに浄化された。
だが、それは大怨霊の中の。長屋王の無念部分のみ。
いつの間にか大怨霊は、各地に沁みついていた無数の怨念の残滓を取り込み、肥大化し、その集合体に成り果てていたのだ。
最早核さえ存在しない。
長屋王の怨念の消滅と共に、疫病への抵抗力デバフは消えたようだが、遠くない内に別の災厄を招き寄せるだろう。
この地全てを呪うほどに。
(……最悪の場合、俺が動く必要があるかもな)
(アナタ……)
長屋王の、藤原四兄弟への復讐は終わった。
だが、大怨霊の蠢動は終わっていない。
むしろ、これからが本番なのかもしれなかった。




