皇族の長屋王は冤罪により自死に追い込まれた
平城京遷都から数年が経過した。
俺は今、魔力の流れの中で、一冊の書物の内容を確認している。
正確には、この世界で完成したばかりの『古事記』を、魔力を通じて仮想的に再現し、その内容を確認しているのだ。
(アナタ、この八百万の神々の事ですけれど、アナタが生きていた世界のものとほぼ同じなの?)
隣では同じように、ハルカが書物の内容を確認している。
落ち着いた和室を再現したこの領域で、俺たちは隣り合ってこの世界の語り部と編纂者の成果に目を通していた。
俺の生前と同じく、『古事記』は日本語化漢文の様式で書かれている。
かつての俺なら、読み解くのに苦労していただろうけれど、この世界で写し身を使って経験した俺にとっては問題ない。
ハルカもその経験を参照できるため、彼女もしっかりと内容を理解していた。
(ああ、幾つか細かい表現の違いはあるが、大筋は変わっていない)
編纂された古事記は、基本的に俺の生前の物と大差はなさそうだ。
口伝で語られていた豪族の逸話を取り込んだ末に、こういう形になったのだろう。
ただ、一点明確に違う部分があった。
国生みを担う、伊邪那岐と伊邪那美は、俺の生前の古事記の場合、神世七代といわれる区分に入っていた。
その前の五柱──別天津神と呼ばれる、宇宙の根源や抽象的原理を示す神々に続いて現れたとされる、世界の基盤となるべき神々だ。
しかし、この世界ではいささか違い、神世八代として記されている。
神世八代の後半、元の七代では五組十柱とされたところが、六組十二柱。
加わっているのは、根乃国比古命と根乃国比売命のペアで、伊邪那岐と伊邪那美の手前で出現したとされていた。
……俺と、ハルカの事だ。
(なんだか不思議。こんなふうにわたしたちの事が書かれているなんて)
(そもそも、根乃国比古命とか、何処から出てきた名前なんだ……?)
そうやって首をかしげる俺だが、同時に安堵している部分もある。
ダンジョンから放出する魔力が、この世界の歴史をどう変えてしまうのか、俺は懸念し続けてきた。
生前の世界の歴史知識が魔力に影響を及ぼし、この日本の歴史を生前と同じように沿わせてしまうのか、それとも魔力による影響で別物になるのか。
そのどちらの実例も知っているだけに、古事記のような書物を紐解いて確認する必要があった。
『古事記』は和銅五年、『日本書紀』は養老四年に完成した。
どちらも、この国の成り立ちと神々の系譜を記した重要な書物だ。
直に日本書紀も完成するわけで、その時にはそちらを確認する必要があるだろう。
(しかし、イザナギとイザナミの国生み神話も、スサノオのヤマタノオロチ退治も、天孫降臨も……全部、元の世界と同じだな)
(ふふふ、どれもわたしたちが見てきたものばかりね)
(実際に起きた順番はバラバラなのにな)
ハルカと語り合いながら、俺は胸を撫で下ろす。
古事記の記載範囲は、神代から始まり、推古天皇の治世で終わる。
その範囲では、大きな違いはない。
(とはいえ、日本書紀の方はかなり変わっているだろうな……)
日本書紀の記載範囲は、持統天皇の治世──つまり、飛鳥時代の終わりまで。
その範囲となると、明らかな大小の違いが出ているはずだ。
その最たるものが、白村江の戦いの日本・百済連合軍側の勝利だろう。
他にも厩戸王──聖徳太子の一族の存命や、役小角の捕縛時期が変わっていた等がある。
しかし、大きな流れ──律令国家の成立、仏教の伝来と普及、豪族たちの興亡──これらは概ね元の世界通りに進んでいた。
(いまは、大きな出来事もなくて、平和ね)
(ただまあ、遷都後も律令政治の整備は着々と進んでいる。養老律令の発令なんかはそうだな)
平城京は、元明天皇の代に遷都された新しい都だ。
唐の長安を模したこの都は、碁盤の目のように整然と区画され、朱雀大路を中心に左京と右京に分かれている。
その壮麗さは、まさに律令国家としての威容を示すものだった。
先に造られた藤原京の反省が活かされているようだ。
そして今、俺たちは一つの重要な儀式を目撃していた。
(聖武天皇の即位か……)
皇族の首皇子が即位し、聖武天皇となったのだ。
元正天皇から譲位されたこの若き天皇は、わずか二十四歳。
藤原不比等の娘、光明子を妃に迎えていることも、俺の記憶通りだ。
(この代でおおきな仏様が造られるのでしたわね)
(ああ、そして天平の大疫病も……だが、そこまで大事にはならない、か?)
天平の大疫病は、天然痘の大流行だ。
北九州から急激に広まったこの災厄で、民から宮中に至るまで、幅広く被害が出た。
しかし、この世界の日本人は魔力によって疫病にも強い耐性がある。
それどころか、加持祈禱によって病魔を実際に退散させられるため、推定で海外から流れてきた天然痘は精々よくあるインフルエンザ程度の脅威でしかない。
俺自身、アバターで活動中に天然痘に罹ったが、後遺症もなく復帰できていた。
もっとも、インフルエンザレベルの脅威は、決して甘く見てはいけないのだが。
(アナタ、なにか様子が変よ?)
(ああ、きな臭いな。何度か見た流れだ)
時は流れてある年、ハルカの声に俺は頷き平城京の宮中に意識を向けた。
魔力は感情にも反応する。
宮中では、まさにその魔力の揺らぎが発生していた。
光明子を皇后に立てようとする動きに、長屋王が異を唱えたのだ。
所謂、辛巳事件だ。
長屋王は高市皇子の子であり、天武天皇の孫に当たる。
皇族としての矜持と、律令に対する理解の深さから、非皇族である藤原氏の娘を皇后とすることに反対したのだろう。
(確かに、前例のないことだからな)
(でも、聖武天皇は光明子を深く愛しておられるのでしょう?)
(愛情だけで政治が動くわけではない、ということだ。悲しいことだがな)
結局、この事件は長屋王の主張が退けられる形で決着した。
そして、光明子は皇后となった。
非皇族初の皇后誕生だ。
しかし、問題はそれだけでは終わらなかった。
その後皇太子・基王が誕生した。
聖武天皇と光明子の待望の男子だ。
宮中は祝賀ムードに包まれ、皇統の継承が安泰となったかに見えた。
だが、その喜びは長くは続かなかった。
(……祈祷でも及ばず、か)
わずか一歳で、基王は夭折したのだ。
この突然の死に、聖武天皇と光明子、そして藤原氏の一族は深い悲しみと同時に、ある疑念を抱いたようだった。
「まさか、長屋王が呪詛を……?」
「いや、それは……」
そんな声が宮中で囁かれている。
実際、長屋王がそんなことをしたという証拠はない。
しかし、辛巳事件での対立、そして皇太子の不可解な死。
これらが重なれば、疑念が生まれるのも無理はなかった。
そして天平九年、その疑念は最悪の形で表面化する。
「長屋王は左道を学び、国家を傾けようとしておられるのです」
藤原宇合の部下から、驚くべき密告がなされたのだ。
左道──すなわち、呪術による謀反。
(これは……)
俺は嫌な予感しかしなかった。
元の世界の歴史でも、長屋王は謀反の疑いで自殺に追い込まれている。
しかし、この世界には魔力が存在する。
呪術が実在する力として認識されている世界で、『左道を学んだ』という罪状は、元の世界よりも遥かに重い意味を持つ。
(アナタ、これは濡れ衣では……?)
(恐らくな。だが、証明のしようがない……いや、させる気が無いんだな、これは)
聖武天皇は、長屋王の屋敷に兵を差し向けた。
その数、三百人とも言われる。
屋敷は完全に包囲され、長屋王は事実上の軟禁状態に置かれた。
(弁明の機会すら与えられないのか……)
長屋王は、自らの潔白を訴える機会を求めた。
しかし、その願いは聞き入れられなかった。
藤原氏の圧力、聖武天皇の不信、そして何より、基王の死という痛ましい事件が生んだ感情の渦。
それらが、冷静な判断を不可能にしていた。
そして数日の後、長屋王は、妃の吉備内親王、そして四人の子供たちと共に、自らの命を絶った。
(……なんてことだ)
俺は、その光景を魔力の流れを通じて目撃していた。
無念。
悔しさ。
怒り。
そして、理不尽に対する絶望。
長屋王の最期には、そうした感情が渦巻いていた。
(アナタ……これは……)
(ああ、見えるか、ハルカ)
長屋王の身体から、黒い靄のようなものが立ち上り始めていた。
魔力だ。
皇族である長屋王の身には、生まれながらにして相応の魔力が宿っていた。
それは、彼が生きている間は穏やかに内に秘められていたものだ。
しかし今、その死と共に、そして何より、この理不尽な死がもたらした無念と共に、その魔力が暴走を始めている。
それどころか、今まで綿々と大地に沁み込んでいた数多の無念にまみれた魔力も呼び寄せつつあった。
(まずいぞ、これは……)
死してなお、長屋王の魂はその魔力によって現世に留まっていた。
いや、留まっているというより、縛り付けられていると言うべきか。
無念という鎖に。
怒りという楔に。
そして、それは形を成し始めた。
大怨霊。
(嘘だろ……こんなことが……)
俺とハルカは、ただただドン引きしながら、その光景を見守ることしかできなかった。
長屋王の怨念は、黒い瘴気となって屋敷から溢れ出した。
それは瞬く間に広がり、平城京全体を覆い始める。
朱雀大路も、大極殿も、貴族たちの屋敷も、市井の人々の家も。
全てが、その黒い靄の中に沈んでいく。
(平城京だけじゃないわ、アナタ……)
(ああ、この勢いは、日本全体に広がるぞ……)
瘴気は平城京に留まらなかった。
まるで生きているかのように、それは大和国を越え、山城国へ、近江国へ、そして東国へ、西国へと広がっていく。
日本列島全体が、長屋王の怨念に包まれようとしていた。




