承和の変は、嵯峨上皇の崩御が引き金になったとされる
【藤原良房】
その知らせが届いたのは、卯の刻のことでおじゃった。
「良房様、嵯峨上皇がお倒れになられました」
使者の言葉に、麻呂は静かに筆を置く。
嵯峨上皇。
この朝廷において、絶対的な権威を持つ御方が、病床に倒れたと。
それは、麻呂が長らく待ち望んでいた時であったのでおじゃる。
「……さようでおじゃるか」
麻呂は、平静を装って答える。
だが、内心では既に、様々な算段が巡り始めておじゃった。
嵯峨上皇が倒れられた。
それは、朝廷における力の均衡が、崩れることを意味するのでおじゃる。
これまで、この朝廷は淳和系が政治の本流でおじゃった。
嵯峨上皇の御威光の下、橘氏や伴氏といった勢力が力を持ち、麻呂ら北家は常にその影に隠れておったのでおじゃる。
だが、今や上皇は病床におじゃる。
その重しが失われた今こそ、麻呂らが推す現帝、仁明天皇の系が、政治の中心となる時なのでおじゃる。
麻呂は、立ち上がり、そして、側近を呼び寄せる。
「直ちに、北家の者たちを集めよ。話がおじゃるのでの」
「はっ! 畏まりまして御座います」
側近が、走り去り、麻呂は、窓の外を見つめる。
都の空は、いつもと変わらぬ青さを湛えておる。
だが、この空の下で、権力の争いが始まろうとしておるのでおじゃる。
藤原北家。
麻呂が属する家は、かつて藤原四家の一つに過ぎなかった。
だが、式家が薬子の乱で没落し、南家も勢いを失い、京家もまた力を持たぬ。
今や、北家こそが藤原氏の中心なのでおじゃる。
しかし、それでもまだ足りぬでおじゃろう。
橘氏や伴氏といった他家が、依然として力を持っておじゃる。
淳和系として、嵯峨上皇の威光を背に、麻呂らを抑えてきた者たち。
それらを排除し、北家の隆盛を確固たるものとせねばならぬのでおじゃる。
やがて、北家の者たちが集まった。
皆、緊張した面持ちでおじゃる。
「嵯峨上皇がお倒れになられたでおじゃる。これより、朝廷は大きく動くでおじゃろう。我ら北家も、この機を逃してはならぬのじゃ」
この言葉に一同が頷く中、麻呂は続けた。
「これまで、淳和系が政治の本流でおじゃった。嵯峨上皇の御威光の下、橘氏や伴氏が力を持ち、麻呂ら仁明天皇を支える者は、常に後塵を拝してきたのでおじゃる。だが、今や上皇は病床におじゃる。これこそが、最大の好機でおじゃろう」
その言葉に、一同の目が輝いた。
長らく抑えられてきた北家の者たちにとって、これは待ちに待った機会であったのでおじゃる。
「現在の皇太子は、恒貞親王でおじゃる。じゃが、これは嵯峨上皇の強い意向によるもの。父母ともに皇族の血を引くという理由でな。じゃが、本来であれば、現帝である仁明天皇の御子、道康親王こそが皇太子に相応しいのでおじゃる」
麻呂の言葉に、一同が再び頷く。麻呂の意図を、皆が理解しておった。
皮肉なことに、当の恒貞親王は、皇太子であることを望まれておじゃらぬ。
されど、嵯峨上皇の意思が、これまで辞退を許さなんだ。
故に、これは恒貞親王の為でもあるのでおじゃる。
「麻呂は、道康親王を皇太子とする。そのために、動くつもりでおじゃる」
「ですが、良房様、恒貞親王を支持する者たちが……」
側近の一人が、懸念を口にした。麻呂は、冷ややかに笑った。
「橘逸勢や伴健岑のことでおじゃるな。確かに、彼らは恒貞親王を強く支持しておる。淳和系の中核として、麻呂らに対抗してきた者たちでおじゃる。だが、それこそが我らの好機なのでおじゃる」
麻呂は、そう言って立ち上がった。そして、一同を見回した。
「彼らは、恒貞親王と共に東国へ移ろうとしておる。嵯峨上皇崩御の混乱から離れ、地盤を固めるつもりでおじゃろう。だが、それは謀反と見做すことができる」
その言葉に、一同が息を呑んだ。
かの者らの動きを、既に麻呂が押さえていることに驚いた者も居れば、麻呂の決断にこそ驚いたものも居よう。
麻呂は、続けた。
「東国へ移る。それは、朝廷から離れるということ。そして、恒貞親王を擁して独自の勢力を築くということ。これは、謀反以外の何物でもないのでおじゃる」
麻呂の論理は、明快であった。
確かに、東国へ移るという行為は、見方によっては謀反と取れるでおじゃろう。
それはもちろん詭弁でおじゃった。
しかし、政治とはそういうものなのでおじゃる。
勝者が正義を定める……いや、正義とされるのでおじゃる。
「麻呂は、彼らが動く前に、捕らえる。謀反の企てありとして、捕縛するのでおじゃる」
「ですが、それは……」
「何を躊躇うか。これは、朝廷のため、そして北家のためでおじゃる。橘氏や伴氏が力を持ち続ければ、我らの立場は危うくなる。今こそ、彼らを排除する好機なのでおじゃる。淳和系の力を削ぎ、仁明天皇の系を政治の本流とする。それが、麻呂の目指すところでおじゃる」
麻呂の言葉には、強い意志が込められておじゃった。
一同は、沈黙し……そして、やがて頷いたのでおじゃる。
「承知いたしました」
「兵を手配せよ! かの者らが動き出す前に!」
「恒貞親王を押さえよ。それで奴らは大義名分を失うでおじゃろう」
皆が動き始め、麻呂もまた矢継ぎ早に指示を下す。
こうして、麻呂の計画は動き始めたのでおじゃる。
数日後、橘逸勢と伴健岑は捕らえられ、審議の場に引き立てられておじゃった。
東国へ移ろうとする動きの中兵を集めんとしたことが、謀反の企てありとされたのでおじゃる。
現帝へ麻呂が上奏し、帝が捕縛を命じた以上、これは朝廷としての総意。
二人は、それでも激しく抵抗し捕縛まで苦労したとも聞いておる。
しかし、それもむなしく、今は只麻呂たちに抗議するのみでおじゃった。
「これは濡れ衣だ! 我らは、ただ恒貞親王の安全を考えただけだ!」
だが、麻呂は冷ややかに応えた。
「恒貞親王を擁して東国へ移る。それは、朝廷への反逆でおじゃる。謀反以外の何物でもない」
「そんな馬鹿な話が……!」
「次代の帝たる恒貞親王の保護の為であろうが!」
二人の抗議は、空しく響いた。
麻呂の論理は、既に朝廷内で受け入れられておったのでおじゃる。
帝も、麻呂の行動を支持された。
何故なら、帝もまた、御子である道康親王を皇太子にしたいと望んでおられるからでおじゃる。
その後、橘逸勢と伴健岑は、流刑に処される事とあいなった。
橘氏と伴氏の中心人物を、こうして麻呂は排除したのでおじゃる。
淳和系の力は、大きく削がれたのでおじゃった。
そして、恒貞親王。
彼を支持する者たちが失われた今、親王は孤立しておった。
もともと、親王自身は皇太子であることを望んではおらなかった。
それは、嵯峨上皇の強い意向によるものであったのでおじゃる。
だが、上皇が病床に倒れ、支持者も失われた今、親王はようやく自由を得たのでおじゃる。
「麻呂は、皇太子の座を辞退したく存じます」
恒貞親王の言葉は、どこまでも静かでおじゃった。
だが、その目には安堵の色が浮かんでおられる。
麻呂は、深く頭を下げた。
「親王の御心、痛み入ります」
こうして、恒貞親王は皇太子を辞退した。
聞けば、出家を望まれているとか。
望まぬ政治の舞台から降りるのでおじゃろう。
それが良いと、麻呂も思う。
そして、道康親王が新たな皇太子となったのでおじゃる。
麻呂は、自邸に戻り、一人静かに酒杯を傾ける。
全ては、計画通りに進み、橘氏と伴氏の中心人物を排除し、道康親王を皇太子とした。
これにより、藤原北家の地位は、揺るぎないものとなったのでおじゃる。
淳和系から現帝の系統へ、政治の本流が麻呂の手により移り、朝廷は新たな時代を迎えるでおじゃろう。
しかし、麻呂は満足しておじゃらぬ。
これは、まだ始まりに過ぎぬのでおじゃる。
道康親王が皇太子となった以上、次は天皇とせねばならぬ。
そして、その天皇の外戚として、北家が権力を握る。
それこそが、麻呂の目指す未来なのでおじゃる。
(……そういえば、あれはまさに勇み足でおじゃったな)
そこまで考えて、麻呂はふと思い出した。「無悪善」の立て札のことを。
あれは、北家の手の者が立てたものであった。
嵯峨上皇への呪詛を込めた立て札。
確かに、上皇は政治的に邪魔であった……しかし、あのような下手な手段を使うとは、愚かなことをしたものでおじゃる。
(余計な事を……全てが明るみになっていたら、流刑になっていたのは麻呂達の方だったやもしれぬというのに)
呪詛など、下手な勘繰りを呼びかねぬ危険な手段でおじゃる。
そういう意味で、もし小野篁があの立て札の裏の意味を見抜いたのは、余りに危険な瞬間でおじゃった。
よもすれば、嵯峨上皇への呪詛として大問題になっていたかもしれぬ。
結局、嵯峨上皇自身最高権力者として敵は多く、立て札を立てた者が明らかにならなかったからこそ、事なきを得たのでおじゃる。
(とはいえ、お互い様よの。麻呂も何度呪詛に襲われたものか、分からぬでおじゃるからの……)
もっとも、橘逸勢や伴健岑の側も、似たようなことをしておった。
麻呂や仁明天皇、道康親王への呪詛を、密かに仕掛けておったのでおじゃる。
お互い様、と言えばそれまででおじゃるが、やはり呪詛などという手段は、品が無いのでおじゃる。
(政治は、もっと堂々と行うべきでおじゃる)
麻呂は、そう自分に言い聞かせる。
陰謀や策略は必要でおじゃる。
だが、呪詛のような下品な手段は、麻呂の好むところではないのでおじゃる。
(藤原北家の隆盛……それは、麻呂の使命でおじゃる)
麻呂は、酒杯を傾けながら内心で呟く。
かつて、薬子の乱で式家は没落し、南家も力を失った。
しかし……北家は違う。
麻呂が率いる北家は、これからも栄え続けるのでおじゃる。
そのためには、あらゆる手段を使う覚悟が、麻呂にはあるのでおじゃる。
政治的な駆け引き、時には陰謀も。
されど、それは全て正々堂々と、政治の場で行うのでおじゃる。
呪詛などという下品な手段ではなく、実力で勝ち取るのでおじゃる。
そうでなくては、日乃本を統べる朝廷を背負えぬでおじゃろう。
窓の外では、月が輝いておった。
その光は、冷たく、だが美しい。
麻呂は、その月を見つめながら、決意を新たにした。
「今後も、麻呂は朝廷と藤原北家に栄光をもたらすのでおじゃる。何者にも、邪魔はさせぬ。正々堂々と、実力で」
その言葉は、誓いでおじゃった。
そして、予言でも。
麻呂は、藤原良房は、これからも権力の階段を登り続けるのでおじゃる。
そして、やがて摂政という地位へ……されど、それはまだまだ、先の事でおじゃろう。
今は、ただ一つの勝利を味わうのみ。
此度の変は、藤原北家の勝利であり、麻呂の勝利であった。
淳和系を退け、今上の帝の血筋を政治の本流とした。
この勝利は、歴史に刻まれるであろう。
月明かりの中、麻呂は静かに笑った。
きっと傍から見れば、麻呂の笑みは、冷徹で、だが確信に満ちておったことでおじゃろう。
されど朝廷の頂への道は、まだ始まったばかりなのでおじゃる。
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