とある陰陽師の一日
【とある陰陽師】
星見台の上で、四辻実忠はゆっくりと目を覚ました。
卯の刻前。まだ夜の名残が空に残り、宮中の屋根瓦は薄い藍色に沈んでいる。
星見台の板に敷いた古い筵の繊維が、寝返りのたびにかすかに軋んだ。
実忠は大きく欠伸をして、肩を伸ばした。
昨夜も、天体の観測に没頭していたのだ。
気づけば朝が来ていた。
「……また、ここで寝てしまったか」
実忠は陰陽師である。
天文の観測は、暦を編纂する陰陽師にとって元々重要であるが、実忠は特にそれを好んだ。
陰陽師となったのも、星の運航を眺める為であると言って良い。
「いかんなあ……わかってはいるのだが……」
自嘲混じりに呟き、実忠はゆっくりと起き上がった。
身体は重く、目の奥に眠気が残る。
だが、胸の奥には満たされた充足感がある。
昨夜の星も、見事であったからだ。
特に、流星が多く見られたのは、良い。
時にそれは吉兆を示す物であり、流れた星宿の位置や方角等から意味を読み取れるのだが……実忠にとっては、そんなもの、些細なものだ。
夜の冷気に晒されながらも、星の運行を追っていた時間は、彼にとって何よりの糧なのだ。
「下手をすると風邪をひきかねんな。こまったものだ」
ぼやきながら星見台を降りると、朝の空気が肌を刺す。
遠くで鶏が一声鳴き、庭先の水盤に朝露が光った。
実忠は袍の裾を整え、漏刻へと向かう。
漏刻──すなわり、水にて刻を示す器具だ。
滴る水の音が正確な時を刻み、朝廷の一日の始まりを支配する。
漏刻の目盛り付きの矢と水位を確かめる。
水の流れは滑らかで、相も変わらず狂いはない。
実忠は小さく頷いた。
陰陽師にとって、時刻の正確さは政治と同じくらい重い責務であった。
もっとも、実忠が漏刻を確認するのは、責務だからではない。
漏刻の観測役は別にいる。
では何故実忠が漏刻を確認したかと言えば……。
「……そろそろ朝餉が出来ている頃合いか」
単に、朝餉の時を測っただけであった。
この男、天文以外の陰陽師の責務に、とんと興味を持たないのである。
陰陽師は貴族の端くれだ。
しかし下級に類する実忠の食事は質素であった。
粥に干し魚、浅漬けの香りが朝の胃に優しく染みる。
実忠は箸を取り、無言で食べた。
(昨夜は良い夜であった……)
噛むたびに、昨夜の星の配列が頭に浮かぶ。
木星の位置、薄雲のかかり方、昨夜多く流れた流星の美しさ。
(……観測を記した走り書きは、あとで清書せねばなるまい)
そのように考えながら、実忠は箸を進めるのだった。
辰の刻。
陰陽寮の執務室は既に人の気配で満ちていた。
算木を弾く音、紙の擦れる音、低い話し声が折り重なり、古い建物の梁に反響する。
実忠の前には来年の具注暦の草案が広げられていた。
暦は民の営みを導く羅針盤であり、日食や月蝕の予測は陰陽師の腕の見せ所だ。
「……この日の日食は……」
算木を弾く指先が止まらない。
カチカチと小気味よい音が続く。
日食の予測を誤れば、陰陽師の名は地に落ちる。
だが、実忠はその重圧を嫌悪するだけではない。
数式と星図を組み合わせ、天の理を読み解く作業は、実忠にとって何よりの遊戯であり、至上の喜びであった。
その様な実忠の隣の机では、別の陰陽師が紙束の山に埋もれ、目を回していた。
「これは、西国からの報告か……こっちは関東だと? 木っ端の怪異など、報告などする前に退治したら良いモノを……」
同僚が書状や、各地に放った式神からの報告、瘴気の流れ、怪異の兆候等を整理していた。
朝廷に上げるべき情報は山のようにある。
実忠の同僚はそれらを淡々と整理し、必要な箇所に朱を入れては、別の同僚に渡していた。
(あのような役目、やりたくはないのう……)
同僚の激務ぶりに引きつつ、実忠は窓の外を見やった。
宮中の庭に立つ松の影が揺れていた。
風が運ぶ松脂の匂いが、彼の鼻腔をくすぐる。
いい天気であった。
そして、現実逃避していた。
遠からず、同僚の激務は実忠にも降りかかってくるだろう。
何とも、厄介な話であった。
「猫の手でも借りたそうな顔をしておるな」
「うむ……まったく、手が足りぬゆえ、猫の式神でも良い、手伝ってくれるのなら」
現実逃避のように告げてみれば、同意の溜息が返ってきた。
今の人員では、行える仕事も限界がある。
術師ではない人手も、術の資源も、そして何より術師も有限だ。
そして、術師と言うのは容易く増やせるものではない。
そんな話をしていると、低い声が部屋に落ちた。
「四辻」
実忠は肩を震わせ、振り返ると、そこにはこの陰陽寮のまとめである、陰陽頭が立っていた。
加茂江人だ。
彼は征夷大将軍・坂上田村麻呂と共に奥州で働いた古参の陰陽師であり、その働きと実力から陰陽頭に任命された男である。
都から出ず、戦とは無縁に生きてきた実忠にとっては、理解が及ばぬ存在であり、同時に術師として絶対に勝てぬと感じる男でもあった。
その陰陽頭の目が、ジットリと実忠を見据えている。
「……愚痴を言う暇があるなら、働け」
言葉は短いが重い。
そこには、人員が足らぬ中で陰陽寮を回さねばならぬ苦悩も混ざっていた。
そこに気付かぬほど実忠も鈍くはない。
すぐに頭を下げる実忠だが、そこへ追い打ちがかかった。
「愚痴る元気があるのなら、午後に開かれる歌会の結界役も出来よう。お前も参加せよ」
歌会。
雅やかな宴である。
しかし裏では、陰陽師は参加する貴族を目に見えぬ危険から守らねばならぬ。
密かに張られる結界には細心の注意を要し、失敗は恥どころか人命に関わる。
実忠は一瞬、言葉を失った。
(ううむ……口は災いの元であったか)
内心で呟くも、しかし上司の命令に逆らうことはできない。
「……承知いたしました」
渋々ながらも、実忠は引き受ける。
そのような方面でも人手が足りないのは、周知の事実なのだ。
理解できるだけに、逆らう気も起きぬ。
その返事に陰陽頭は軽く頷き、部屋を去った。
残ったのは、重い空気ばかりだ。
「………はぁ~」
その重さに負けぬほど、重たいため息を、実忠は零さずにはいられなかった。
申の刻。
急遽参加することとなった歌会は、幾らか興味深い動きがあったものの、無事に終わった。
分類としては下級貴族でしかない実忠は、隅で控えていただけであり、会の中心での上位貴族の動向とは無縁であったのだ。
とは言え、結界に入り込もうとする、微小な怪異を防ぐのに忙しく、中央に居たとしても何かできた訳ではなかろうが。
そんな実忠は一人の下級貴族と向かい合っていた。
その貴族の顔には疲労と焦りが混ざり、手は震えている。
「四辻殿、お頼みしたい儀が」
「……何でしょうか」
実忠は式盤を取り出す。
方位を占うための道具である。
五行の理に基づき、吉凶を読み解くのは陰陽師の常だ。
実忠も陰陽師の端くれとして、その程度はこなし得る。
故にこうして、私的な頼まれごとをされることもあった。
だが、そこには常に人の欲と恐れが絡む。
貴族は神秘にすがり、陰陽師は術と理論でそれを解く。
この度も、そのような案件であった。
「西の方角に、障りがあるようですな。逆に、東の方向には吉兆の兆し有りと見ます」
実忠は静かに告げる。
貴族は僅かに息を漏らした。
「西……やはりあの家の……」
等と言う呟きが、僅かに実忠の耳にも届く。
しかし、実忠は依頼者の様子など素知らぬ顔だ。
だが、彼の感覚は常に周囲の気配を探る。
人の心の奥に潜む瘴気、術の残滓、怨念の匂い。
陰陽師はそれらを嗅ぎ分ける嗅覚を持っている。
「……四辻殿、もう一つお願いしたいことが」
「お止めなされ」
そんな事を言い出したその下級貴族に対し、実忠は首を振った。
何を言い出そうとしたのか、想像がついたのだ。
しかし、実忠ではその役目は重い。
そして陰陽寮で働く以上、後ろ暗い真似は避けねばならぬ。
結局この貴族は、追加の依頼を諦め、幾らかの礼を差し出した。
実忠はそれを受け取り、心の中で今夜の酒代が確保できたと計算する。
同時に、こうも思っていた。
(迂闊な事をせねば良いのだがな……)
都の闇は、余りに深い。
実忠には、下級貴族があえてその深みに足を進めている様にしか見えなかった。
亥の刻。
再び星見台に戻った実忠は、夜空を見上げていた。
宮中は静まり返り、星々だけが冷たく輝いている。
天文密奏。
天体の異変を察知し、天皇に報告するのも陰陽師の務めだ。
だが、実忠にとってはそれ以上に、星を見ること自体が喜びだった。
昼間の煩雑な顔とは違い、彼の目は夜の光を受けて生き生きとしている。
「とはいえ、変事があれば見逃せぬのだが」
本来ある筈の無い星が輝いたり、箒星などが現れる場合、それは異常の前触れとされる。
羅喉星や、計都旗などと呼ばれるそれらは、滅多に現れるものではないが、かの大怪異や奥州の怪異の長達の誕生の際には、これらが天に現れたともされていた。
もっとも、実忠にとっては、そんな変事も天文の一側面であり、興味の対象であるのだが。
実忠は星図を広げ、今夜の木星の黄道上の位置を確かめる。
流れ星が一筋、天の川を横切った。
筆を取り、観測記録に細かく記す。
その様にして過ごすこといくばくか。
「……ん?」
ふとある方角から瘴気が立ち上るのを、実忠は感じていた。
黒ずんだ煙のように濃いそれは、おそらく呪詛。
眉をひそめ、実忠は方角を確かめれば、昼間に占った貴族の屋敷の方角と一致する。
思わず、彼の顔に苦笑が浮かぶ。
(……ふむ。動いてしまったか)
あの貴族は、誰かに呪いを仕掛けたのだろう。
しかし、それを返された。
人を呪わば穴二つと言う。
術の世界も同じく。
(……雇ったのは市井の呪い師と言った所かの)
華やかな都の裏では、誇りと憎悪が混ざり合う。
術師を雇い、呪い、目障りな相手を蹴落とそうとするのは、珍しい話ではない。
しかし同時に、相手もそれに備えている。
抱える術者の質は、上位の貴族ほど必然に高くなるのだ。
つまりあの貴族では、雇えても質はたかが知れる。
更に結果に満足せず謝礼を渋れば、術は裏返る。
あるいは相手側の術師が上手だったのかもしれない。
どちらにせよ、呪いが返るのは常のことだ。
(……まあ、質が低いだけに返されても死にはすまい)
実忠はため息をつき、星空に視線を戻す。
俗世の汚濁にまみれた人間関係と比べ、天は何と清らかであることか。
星々は人の欲や争いに左右されず、ただ静かに運行する。
故に彼はその無垢さに心を寄せるのだ。
だが、完全に無関係でいられるわけではない。
星の運行は人の運命と結びつき、暦は人々の生活を左右する。
だからこそ、陰陽師は夜毎に星を見上げ、数式と式盤を手に取り続けるのだ。
夜風が頬を撫で、遠くで梟が鳴く。
実忠はもう一度、星図に目を落とした。
観測記録の隅に小さく、今日見た瘴気の方角と濃度を記す。
明朝には、陰陽寮の誰かが式神を差し向けて屋敷の様子を確かめるだろう。
だが今は、ただこの瞬間の静けさを味わう。
「……やはり、星が一番だな」
小さな声で呟き、彼は星々の運行を見守る。
政治の駆け引き、呪詛の応酬、権力の争い。地上の喧騒は尽きることがない。
だが、星は変わらずにそこにある。
四辻実忠は、陰陽師として、そして一人の天文好きとして、今夜もまた星を見上げるのだった。
急に架空の陰陽師も湧いて出た。
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