とある中位貴族の一日
【とある貴族】
暁の闇は、未だ深い。
寅の刻。
隈部墨麻呂は既に目を覚ましていた。
二条大路に面した私邸『隈部殿』は、静寂に包まれている。
墨麻呂は、ゆっくりと起き上がった。
寒気が肌を刺す。
だが、これも毎朝のこと。
まず、手水を使い、顔を清める。
次に、楊枝で歯を磨く。
唐より伝わった習慣だが、既に貴族の間では定着している。
身を清めた後、墨麻呂は具注暦を開いた。
日記を兼ねたこの暦には、吉凶が細かく記されている。
「……今日は、大安か」
良い日だ。
宮中での執務も、滞りなく進むだろう。
墨麻呂は、衣を整えた。
中位貴族である墨麻呂の衣は、上位貴族ほど華美ではない。
だが、整っている。
それが、隈部家の矜持だった。
邸内を見回す。
庭には、手入れの行き届いた木々が並ぶ。
池には、鯉が泳いでいる。
華美すぎず、しかし品格を保つ。
それが、中位貴族の在り方だった。
辰の刻。
墨麻呂は、大内裏の太政官庁にいた。
ここは、下々からは雅な世界だと思われている。
だが、それは実態とは程遠いもの。
矢の代わりに漢文が飛び交い、血臭の代わりに墨の匂いが充満する、戦場にも似た官僚の職場だ。
「隈部殿、この草案の文面を確認されたのち、清書をお願い致す」
「承知した」
同僚の声に、墨麻呂は頷いた。
墨麻呂は、木簡に記された文書を読む。
漢文による公文書。
これを、正確に、美しく書くことが、墨麻呂の仕事だった。
墨を磨り、筆を取り、紙に、文字を記していく。
書家として知られる墨麻呂の筆は、流麗だった。
だが、それは単なる美しさではない。
公文書としての正確さ、権威を示す格調。
それらを兼ね備えた、実務の書だった。
「さすがは隈部殿」
「いや、まだまだだ」
同僚が、感心したように言うが、墨麻呂は謙遜した。
だが、内心では相応の自負はある。
磨きぬいた筆の技量が、己を支えているとの、揺ぎ無い自身が、墨麻呂の芯にあった。
しかし、同時に不安もある。
書だけではままならぬ、政治の流れと言うべきものが、朝廷内でうねっているのだ。
特に昨今、藤原北家が、勢いを増している。
対抗する動きもある。伴氏や橘氏がその先鋒であろう。
(しかし、それが何時までもつものか)
下手に大きな動きを見せれば、その荒を突かれ没落しかねぬ。
逆に動かねば、隆盛は無いであろう。
(あれ程隆盛した藤原式家でさえ没落したのだ。恐ろしい話よ)
そして、隈部家は──中位貴族として、その狭間で翻弄されるばかり。
(このままでは、隈部家も……)
墨麻呂は、筆を走らせながら、考える。
北家に与するか……それとも、距離を保つか。
どちらを選んでも、危険が伴う。
(難しい時代だ……)
墨の匂いと、硬い漢語が飛び交う職場。
その中で、墨麻呂は静かに、政治の動きを観察していた。
申の刻。
墨麻呂は、清涼殿の東庭にいた。
天皇御前での詩会。
これもまた、貴族としての重要な務めだった。
庭には、上位貴族たちが集っている。
その中に、ひときわ目立つ者が居る。
(あの方が……藤原良房)
藤原北家の次代を担う、若き俊英。
既に自信に満ちた有様は、近い将来政治の場の主導を握るのだろうと容易に想像がつく。
その良房が思いのほか近くにいる。
墨麻呂は中位貴族でありながら、この日は奇しくも、良房に近い位置に配席されていた。
これを好機と思うほどの野心は、墨麻呂にはない。
しかし、こうも近いのに良房と全く話さないのも、後に引きかねない。
(なんとか、やり過ごすより他ないか……)
墨麻呂は、当たり障りのない笑顔を浮かべ、適度な距離を保とうとする。
……その時だ。
「北辰の光、千里を照らす──」
まだ若い貴族の一人が、朗々と漢詩を詠み始めたのだ。
その詩は見事で、自然と周囲の注目を集める。
(あれは……小野の……)
こちらもまだ若い貴族であり、墨麻呂はその名を知っている。
小野篁。
墨麻呂とは相応に交流のある彼は、漢籍の引用を巧みに織り交ぜ、かつ即興とは思えぬ完成度の詩を見事に披露して見せた。
その姿に、良房が目を細めたのを、墨麻呂は確かに見た。
「見事だ、小野殿」
「恐れ入ります」
大臣の一人から賛辞を受け、篁は静かに頭を下げる。
その様子を、良房は静かに観察しているようであった。
(よくやった、篁殿……)
墨麻呂は、内心で安堵した。
篁の詩が、良房の注意を引きつけたのだ。
おかげで、墨麻呂は目立たずに済む。
だが、同時に感心もした。
(あの若さで、この豪胆さ……)
篁は、まだ若い。
だがその振る舞いは、老練な貴族のようだった。
それでいて、若さの証明の様に注目されることを恐れない。
それが眩しくもあり、そら恐ろしくもある。
その様に墨麻呂が感慨を抱く間にも、詩会は続く。
若い貴族たちが注目を集める中、墨麻呂は笑顔を保ち、適度に詩を詠み、適度に褒める。
当たり障りなく……だが、その裏では、容赦なく神経が削られていた。
一瞬の油断も、許されない。
言葉の選び方一つで、一族の序列が変わる。
出世の道が開けるか、没落の危険が迫るか。
それが、貴族の社交。
それが、詩会だ。
内心で、一刻も早く終わることを墨麻呂が望む中、詩会はその後半刻は続いたのだった。
酉の刻。
墨麻呂は、小野家に招かれていた。
邸内には、他にも数名の客がいる。
皆、文系の貴族たちだった。
主催である篁が、彼らを出迎えた。
「ようこそ参られた、隈部殿」
「お招き痛み入る」
墨麻呂も丁重に出迎えられる。
篁は、墨麻呂の書をいたく気に入り、指南を願った事があった。
その為、以前から交流があり、こうして度々小野家に招かれている。
今夜の集まりは、漢詩について語り合うという名目での、文系貴族達が交流を行う場であった。
持ち回りで主催が代わり、今夜は小野家で開催される。
漢詩の語りあいは夕餉の後と言う事で、集った貴族たちの前に、膳が並べられていく。
膳には、豊かな品々が並んでいた。
近辺遠方問わず集められた様々な珍味。
特に目立つのは、やはり遠方より取り寄せた魚だ。
都では貴重な海の幸は、主菜を飾るにふさわしい。
「これは……なんと見事な」
「今宵の魚は、紀伊の国により取り寄せた物。丁度大漁であったとか」
篁の言葉に、なるほどと貴族たちが頷く。
そして口に運び、貴族たちは顔をほころばせた。
元は干物だったようだが、見事に調理され、柔らかく味わい深い。
同時に、貴族たちは、全員にいきわたるほどの数をそろえた事の意味も理解する。
(小野家の力を、示しているな……)
この宴は、単なる社交ではない。
小野家の家格を示し、客との繋がりを作る場でもある。
(次に主催する家は、比べられるな……)
持ち回りで行われる事の恐ろしさも感じつつ、墨麻呂は美味に舌鼓を打ちづ付けた。
やがて、食事が終わり、漢詩の語り合いが始まる。
「では、一首」
客の一人が、詩を詠む。
「春風、柳を揺らし──」
表面上は、春の情景を詠んだ詩。
だがその裏には、藤原氏の動きへの示唆が込められていた。
(なるほど……そういうことか)
次に、別の客が詩を詠む。
「月影、水に映りて──」
これもまた、表面上は風流な詩。
だが裏には、この場に参加するある貴族家へ行われていると噂される、呪詛への警告が込められていた。
(ああ、そのような動きが……)
墨麻呂は、内心で頷いた。
他の貴族達も同様だろう。
この場は、貴族たちが詩を通じて、表に出せない情報を交換する場でもあるのだ。
明確な言葉での警告や、情報のやり取りなど、迂闊に出来るものではない。
何しろ、今この場でさえ、何者かが放った式神などの目や耳が潜んでいないとも限らないのだ。
しかし、詩と言う表向きの形を装うのであれば、伝えられることもある。
貴族達は、湾曲な表現や比喩を駆使して、様々に情報をやり取りしていた。
もっとも、純粋に詩を詠むこともある。
今夜の主催である篁が詠んだ詩は、まさしくその様なものであった。
「遥かなる山河、隔てて──
思う人の、面影を──
月に問えども、答えなく──
ただ、寂寥の風のみ」
篁が詠み終わった後、僅かに貴族たちがざわめく。
(……これは、珍しい。まるで、恋詩の様では無いか)
墨麻呂にも驚きがあった。
久しく会えぬ身内を想う、寂しさを詠んだ詩。
(篁殿が、そのような……?)
普段、篁はそのような素振りを見せない。
常に冷静で、感情を表に出さない。
だがこの詩には、確かな想いが込められていた。
他の客たちも同じように驚き、密かに言葉を交わし合う者さえいる。
「……見事な詩です、篁殿」
「恐れ入ります」
墨麻呂が、静かに告げる。
篁は、いつもの表情だ。
だが、墨麻呂には分かった。
先ほどの詩には、篁の偽りなき想いが込められていると。
(この若者にも、想う人がいるのだな……)
もしかすると、恋などではないのかもしれない。
しかし、少なくとも親しき人と長らく離れ離れとなった寂しさ、嘆きが込められていると感じた。
その発見が、何故か墨麻呂の心に響く。
故に、その詩は墨麻呂の記憶に深く焼き付いたのだった。
亥の刻。
墨麻呂は、自邸の書斎にいた。
机の上には、無地の紙が置かれている。
墨麻呂は、筆を取った。
今日あったことを、日記として記すために。
これは、単なる気分などで書かれるものではない。
家を繋ぐための、公的記録だ。
後の世に、隈部家がどのような立場にあったか。
どのような人々と交わったか。
それを示すための、証拠だった。
墨麻呂は、丁寧に文字を記していく。
朝の吉凶。
宮中での執務。
清涼殿での詩会。
小野家での宴。
全てを、漢文で記す。
部屋には、焚き染めた香の匂いが漂っている。
静寂の中、筆の音だけが響く。
墨麻呂は、最後に一文を記した。
「今日、小野篁殿の詩を聞く。その才、将来を期待せしむ」
筆を置き、墨麻呂は息を吐いた。
窓の外では、月が輝いている。
その輝きに、墨麻呂は再び篁が詠んだ詩を思い出した。
(……記しておくか)
詠まれた詩を書き起こし、墨麻呂は満足げに頷いた。
そして、筆をおき、月を見上げる。
明日も、また同じ日々が続く。
だが、それでいい。
これこそが、自分の生き方なのだと、墨麻呂は納得している。
隈部墨麻呂は、書家として、貴族として、この時代を、生きていくのだった。
急に架空の貴族が湧いて出た。
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