藤原薬子の変とは、平城上皇と嵯峨天皇の対立から発生した政変である
【藤原薬子】
「仲成様が……処刑されました」
その報を聞いた時、私の中で何かが音を立てて崩れ落ちました。
兄が、亡くなった。
今上の帝の命により、捕らえられ、そして処刑されてしまったのです。
「そう……ですか」
私は、静かにそう答えました。
涙は、出ませんでした。
(これで、終わってしまったのですね)
平城京への遷都宣言。
それは、藤原式家の最後の賭けでした。
ですが、今上の帝の動きは速く、私達の思惑を容易く飛び越えられたのです。
坂上田村麻呂。
あの武神とも呼ばれる英雄を味方につけた今上の帝は、瞬く間に平城京側の軍事的な動きを封じてしまわれたのです。
それは無理のない事。
都での警邏しか知らない兵では、遠く奥州で勇を示された英雄とその配下に勝てるはずもありません。
争いすら起きはしなかったのですから、如何にあの英雄を味方につける事が重かったのか……。
(兄も、夫も、都の中しか知らなかったから……)
だから、私たちは、負けたのですね。
このように、決定的に。
(そして、私も……)
兄の処刑の報を齎した使者が、続けて私への沙汰も伝える中、私は、過去を思い返し始めました。
全ては、どこから始まって……どこで道を違えてしまったのか。
それを求めずにはいられなかったから。
藤原式家の娘として生まれた私は、政略的に藤原縄主と婚姻いたしました。
愛など、そこにはありません。
ただ、家の為。藤原式家の権勢の為に。
夫・縄主は、式家のために動く道具の様な男でした。
同時に私に対しても、ただの道具としてしか見ていなかったのです。
夫婦の営みはありました。
ですが、それは形式的なもので、無機質なものでした。
縄主は、私の身体には興味を示しても、私という人間には何の関心もなかったのです。
それでも営みの末に、娘・藤子が生まれました。
「よくやった、薬子。皇太子に嫁がせる駒が増えたぞ」
兄は、そう言って喜びましたわ。
夫も、同じように頷いておりました。
私はそんな二人に、曖昧に頷きながら、否応にも理解させられたのです。
私の娘もまた、また新たな道具になるのだと。
(……私は、何の為に生きているのでしょう)
そんな虚しさを感じ過ごす中、娘の藤子が皇太子であらせられる安殿親王に嫁ぐことが決まりました。
兄や夫は、大層満足な様子ですが、それも無理のない事。
次代の帝の妃と言うのは、それほどにも重いのです。
何れは、その血より帝が生まれる。
それは藤原式家に更なる繁栄をもたらすのです。
そして、私も女官として、宮中に上がりました。
娘を支える為に。
ですが、そこで見たのは……お互いを支え合う、藤子と安殿親王の姿。
病弱な、それでいて聡明な親王を、藤子は献身的に支えていました
そして、親王もそんな娘を愛しておられるようで、送る視線のなんと暖かな事か。
(これが……夫婦というものなのですわね)
私は、密かに羨ましく思いました。
自分と夫では、決して築けなかった関係を。
ですが同時に、娘は夫婦と言う関係に幸福を得ている。それを喜ばしくも思っていたのです。
ですが、運命は残酷でありました。
藤子が、病で早世してしまったのです。
あれ程に元気であったと言うのに……。
「まずい……皇太子の妃という駒を失えば、このままでは式家の権勢維持に支障が出る」
その事に兄は悲しみなど無く、ただ焦っておりました。
夫も同じように焦る姿は、同じ。
そこに肉親の情など見当たりませんでした。
そして、私もまた──悲しみこそあれ、自分が無用の存在になることを、恐れておりました。
私もまた、貴族家の女であるという事でしょうか。
娘を失ったというのに、悲しみと同時に立場も否応なしに気にかかってしまうのです。
(私の価値も消えてしまったのではないでしょうか……)
そう思うと、恐ろしくてなりませんでした。
そんな時です。
兄からの、その命が下ったのは。
「薬子、お前が皇太子と関係を持て」
その言葉に、私は息を呑みました。
「娘の夫と……でございますか?」
「そうだ。お前が皇太子の寵愛を受ければ、式家の権勢は守られる」
「頼んだぞ、薬子」
夫・縄主も、それに同意いたしました。
その言葉に、私は自嘲いたしましたわ。
(私は、何処までも藤原式家の道具でしかないのですわね)
娘の死さえも、利用されてしまう。
私の身体も、利用されてしまう。
ですが……それでも、私は従いました。
他に、生きる術を知らなかったのですもの。
そして、あの夜。
私は、安殿親王を誘惑したのです。
兄の手引きで、既に余計な者達は遠ざけられていました。
薄い夜衣を纏い、親王の寝所を訪れて。
香を焚き、身体を近づけるその様は、きっと端女の様だった事でしょう。
親王は、最初は戸惑っておられました。
ですが、私が触れると……すぐに、堕ちてくださったのです。
聡明な、あの方が、こんな私に、容易く。
その瞬間、私は変わってしまったのです。
(これが……こんなにも……)
夫とは全く違います。
初々しく、私の魅力に抗えない安殿親王。
それが何処までも、私を満たしました。
「薬子殿……そなたは、なんと美しい……」
「安殿様……お慕い申し上げております」
親王が、私を求めてくださる。
私に価値を見出してくださっている。
その声に、その手に、私は震えましたわ。
女としての優越感が、私を満たしました。
そして、それ以上に……娘の夫を、自分のものにしたという、ほの暗い優越感。
もしかすると、親王は私に藤子の面影も感じられていたのかもしれませんが……それでも良かったのです。
心より、私を求める声。
それが、私を酔わせたのです。
兄の命令。夫の同意。藤原式家の為。
そんな理由以上に、一人の男性が、私を求めるという喜び。
……私もまたこの快楽に、溺れてしまったのです。
「薬子……そなたがいなければ、朕は生きていけぬ」
「私も、安殿様なしでは……」
誘惑するほどに、親王は私を求めてくださいました。
その姿に、私も満たされ、何時しか昼の最中にも触れ合うほどになっていました。
そして、何時しか一つの想いが沸き上がりました。
(この方を、帝にしたい)
藤原式家の傀儡という形であっても、この方に権勢を齎したい。
そんな想いを、抱くようになったのです。
そこには確かに、貴族家の女としての野心がありました。
娘の夫への、ある種の歪んだ母性がありました。
そして、ただ一人の男を求める女としての欲望があったのです。
それらが複雑に入り混じって、私を突き動かしていました。
そして、帝の後に、安殿親王が即位されました。
私を求められる殿方が、帝となられたのです。
兄や夫はそこに藤原式家の繁栄を見て、大層喜んでいました。
私もまた喜びに浸り、そして帝となられたあの方と、情を交わしたのです。
ですが、帝が即位されても、その座は盤石ではありませんでした。
だからこそ、伊予親王の件にも、私は加担いたしました。
兄に言われるまま、親王に藤子の死を伊予親王の呪詛だと囁いたのです。
罪悪感は、ありました。
ですがそれ以上に、安殿親王を守りたいという想いが、勝ってしまったのです。
病弱と言う弱みをもつ安殿親王にとって、伊予親王は余りに脅威だと、私の目にも映っていたのです。
そして親王は流刑となり、自ら命を絶たれました。
確かに、この件は冤罪でありました。
ですが、全ては帝を支える為。その傍に私が居る為。
後悔など、ありません。
ですが……やはり、帝は体調が思わしくなく、そう時を置かずに、譲位されたのです。
帝から、上皇へ。
ですが、上皇は変わらず私を求めてくださいました。
「薬子……朕の傍に、いてくれ」
「はい、いつまでも……」
その言葉を交わした夜のことを、今でも覚えておりますわ。
最早、お互い一時であろうと離れがたく、求めあったのです。
ですが、政は動き続けました。
今上の帝との対立。その後ろ盾である藤原北家と、私達藤原式家とのせめぎ合い。
その果てにあったのが、平城京への遷都宣言。
二つの朝廷が並び立つという、私の目から見ても、歪な有様。
それは、私たちの……いえ、兄の最後の賭けでした。
ですが……。
(今上の帝は、私たちより賢かった……いえ、私達のこれまでの行いが、この結末を呼んだのですね)
現在の天皇という立場から、坂上田村麻呂に協力を求められました。
そして、あの英雄は、今上の帝の側に付かれたのです。
何より私達は、宮中で嫌われておりました。
安殿親王の頃から、私が親王を誘惑し続けていた姿を、官人たちは見ていたのですもの。
娘の夫を誘惑する女。
その噂は、広まっておりました。
何より、伊予親王の件。
あの方は人望があったために、冤罪をかけたと噂される私達藤原式家に隔意をもつ官人は、兄が思う以上に多かったのです。
ですから、誰も私たちの味方にはなってくださいませんでした。
藤原式家は、既に孤立していたのです。
そして、兄と夫は捕らえられ、処刑されてしまいました。
その報を聞いた今、私の中にあるのは……悲しみではありませんでした。
(解放された……のでしょうか)
自分を支配し、命令していた兄と夫。
その二人は、もういないのです。
そう思うと、不思議と胸が軽くなった気がいたしました。
ですがそれ以上に、私を苦しめているのは、別のことでした。
冠位を剥奪され、平城上皇から引き離される。
その事実が、何よりも苦痛でした。
(私は……本当に、あの方を求めていたのですわね)
道具として始まった関係でした。
優越感と快楽に溺れただけだと、思っておりました。
ですが……違いました。
貴族家の女。歪んだ母性。一人の女。
全てが混ざり合った、複雑な感情。
私はそれをこう呼ぶより思いつきませんでした。
あの方を、愛していると。
「もう、二度と……お会いできないのですわね」
私は、小さく呟きました。
なら……もう、良いでしょう。
私は、懐から小さな瓶を取り出しました。
毒酒。
苦しまずに、逝けるとされるそれは、密かに用意していたものです。
(これが……初めて、私の意思での選択なのかもしれませんわね)
兄に従い、夫に従い、藤原式家の為に生きて参りました。
ですが、この最期だけは、私が選びます。
もうあの片にお会いできないのでしたら、生きている意味なんてないのですから。
私は、瓶の蓋を開け、その中身を飲み干しました。
その味は、何故か甘く感じました。
死をもたらす毒だというのに……。
(不思議と……可笑しいですわね)
初めて、自分で選んだこと。
それが、死ぬことだなんて。
ですが……後悔はありません。
直ぐに視界が暗くなり、力が入らなくなった私の身体が、倒れていきます。
意識も薄れる中、最期に浮かんだのは……上皇の、あの優しいお顔でした。
「薬子……」
そう呼んでくださる声が、聞こえた気がして……。
(また……お会いできますでしょうか)
その想いと共に、私の意識は──闇に沈んでいきました。
私は、藤原薬子。
藤原式家の女として、一人の女として。
複雑な想いを抱えながら、破滅への道を歩んだ女の、それが最期だったのです。




