伊予親王は冤罪により自死に追いやられた
【安殿親王=平城天皇(上皇)】
朕は、病弱であった。
幼い頃から身体が弱く、激しい運動はおろか、長時間の執務さえ困難だった。
だが、その代わりに、朕は書物を読み、学問に親しんだ。
身体は弱くとも、頭脳は明晰であると、周囲は評していた。
皇太子として任じられて後、朕は将来の帝としての責務も学び始めた。
父である帝の期待を朕は理解していたが、同時に朕自身もその様に在りたかったのだ。
他の兄弟には、伊予親王の様な容姿や才に優れた者も居た。
その中から皇太子として選ばれた意味を、朕は長兄として以外の部分で示したかったのだ。
故にこそ、朕はひたすらに皇太子として、次代の帝としての務めに励んだ。
身体の弱さを、知性で補おうとしたのだ。
そんな朕も、妃を迎える事が出来た。
藤原式家の姫、藤子。
何処か儚げで、物静かな……それでいて、朕を支えようと励んでくれた。
「安殿様、お身体は大丈夫ですか?」
藤子は、いつも朕を気遣ってくれ、朕が執務で疲れれば、そっと肩を揉んでくれた。
朕が病で臥せれば、夜通し看病してくれたものだ。
朕は……その様な藤子を愛していた。
藤子とならば、不甲斐ない身体であっても、未来の帝としての道を歩めると、そう思っていた。
だが運命は、残酷であった。
藤子が、若くして世を去ったのだ。
病に倒れ、朕の腕の中で、静かに息を引き取った。
朕よりも先に、藤子が先に逝くなどとは、世とは何と無情であるのか……。
「朕は……朕は、何も守れなかった……」
朕は、藤子の遺体を抱きしめながら、涙を流した。
身体が弱いために、妻さえ守れなかった。
いや、この身体を看病させたが為に、無理をさせた結果でさえあるやも知れぬ。
そう思うほどに、罪悪感と無力感が、朕を打ちのめした。
その時だ。
そっと、朕の肩に彼女の手が置かれたのは。
「安殿様……お辛いでしょう」
振り返ると、そこには藤子の面影を持つ女が居た。
彼女の母、薬子だ。
輿入れした彼女と共に女官として参内し、宮中で共に過ごしていた彼女。
朕とは親子ほども離れているはずだが、不思議とそうは見えぬ。
精々、藤子の姉程度だと思っていた折に、母と明かされて驚いた記憶がある。
その薬子が、年上の女性特有の落ち着きを以て、朕に傍侍っていた。
「薬子殿……」
「娘が、安殿様のお傍にいられたこと、母として誇りに思います。どうか……悲しみに沈まれませんよう」
薬子は、そう言って朕を慰めてくれた。
娘を亡くした母でありながら、朕を気遣ってくれたのだ。
その優しさに、朕は救われた。
いや、そう思い込んでいたのだろう。
今思い起こせば、その時の薬子は、どこか焦りがあったように思う。
それが何ゆえのものなのか、朕が気付いたのはもっと先の事であった。
(……もし、この時気付いておれば……いや、未練であるな)
それから、薬子は朕の傍に仕えるようになった。
藤子の代わりに、朕を支えると言って。
本来であれば、藤原式家に戻るはずであった彼女は、そうして宮中に留まったのだ。
思い起こせば、最初は、本当に母のような存在だった。
朕の話を聞き、朕の苦悩を受け止めてくれたのだ。
身体に不安がある朕は、その様に確かに救われていた。
だが、ある夜の事。
「安殿様……お一人では、お寂しいでしょう」
薬子が、朕の寝所に訪れたのだ。
その夜衣は、いつもより薄く、身体の線が透けて見えた。
「や、薬子殿……?」
「私も、娘を失って寂しいのです。どうか……お傍に居させてくださいまし」
そう言って、薬子は朕の隣に座った。
その身体の温もりが、朕の肌に伝わってくる。
微かに漂う香りが、朕の心をあやふやにしていく。
「これは……いけない……」
朕は、理性で拒もうとした。
これは、あってはならないことだと。
かつての妃の母親と、などと。
だが、薬子の手が、朕の身体に触れた瞬間、分かった。
思い知らされた。
朕の理性など薄紙よりも脆く、薬子にとってはいかように出来るものなのだと。
藤子を失った悲しみ。
病弱な身体への劣等感。
孤独。
その全てが、薬子の身体によって、溶けていく。
忘我の淵に流されていく。
恐らく、この夜朕は死んだのだろう。
少なくとも、皇太子であり、未来の帝であった朕は。
そして、新たに生まれたのは、薬子という一人の女に溺れるだけの者。
それから、夜ごと、薬子は朕の寝所を訪れるようになった。
それを止める者など居はしない。
元より、あの夜薬子が寝所にやって来た時点で、理由などしれている。
彼女の実家、藤原式家の者が手を回していたのであろう。
既に宮中に快楽に溺れる朕を助けんとする者など居ない。
次第に、昼の執務も手につかなくなる。
しかし、宮中はそれで回っていた。
薬子の兄、仲成が代わって執務を行っている様子であった。
元より身体が弱い朕の代わりと言う、都合のいい言い訳を、仲成は用意していたのだ。
そして夜になれば、薬子が朕の寝所にやってくる。
その身体に溺れれば、全てを忘れられた。
そう、朕は、それに依存していたのだ。
父たる帝も、この頃には病に伏せていたために、それらは明るみに出る事は無く……。
そして、その時が来た。
帝が崩御し、朕が新たなる帝として即位したのだ。
その重責を、朕は理解していた。
だが同時に、朕には、もはや薬子なしでは生きられなかった。
それを思い知らされた事件がある。
即位直後に起きた、伊予親王の一件だ。
伊予親王は、朕の異母弟だった。
才や容姿に優れ、人望があり、多くの臣下から慕われていた。
その為、朕に何かあった時の為に、皇太弟として任じられていたのだ。
しかし、ある日のことだ。
伊予親王が、朕を呪詛したという密告があった。
「何……?」
朕は、動揺した。
伊予親王が、朕を呪う?
そんなことが、あるはずがない。
何より、朕の病弱さを考えれば、呪詛など必要ない筈である。
だが、
「陛下、これは重大な事ですぞ。放置すれば、陛下の御身に危険が……」
薬子の兄、仲成が、朕に進言したのだ。
「し、しかし……」
「そもそも、あれほど健勝であった藤子の早世も、伊予親王の呪詛故であったやもしれませぬ」
「そ、それは……?」
「ああ、藤子、可哀そうな子……私も母として、その様な呪詛、許せませぬ」
更に薬子も、その様に朕に告げてくる。
「陛下、ご決断を」
朕は、迷った。
伊予親王は、冤罪かもしれない。
だが、もし本当に呪詛があったとしたら……朕の命が、危ない。
何より、藤子の名を出されて、仲成らの言葉が正しいように思えたのだ。
「……処断せよ」
故に朕は、そう命じた。
自己保身の念に囚われて。
そして、定かならぬ藤子の死の疑惑に囚われて。
その結果……伊予親王はその母と共に、自死に追い込まれる事となった。
その知らせを持ってきた仲成の瞳を見た時、朕は悟ったのだ。
ある種の勝利を確信し、愉悦に染まった瞳。
それが意味するものは……。
(朕は……朕は、何をした……)
罪のない者を、異母兄弟を、死に追いやった。
藤原式家の思惑に、朕はのせられたのだ。
その事実を、悟ると同時に、朕は震えた。
それは、怨霊への恐怖。
これまで帝の座に絡み、何度も生まれて来た怨霊が、朕の手で再び生まれてしまったやもしれぬ。
伊予親王の怨霊が、朕を呪い殺すのではないか。
その恐怖が、朕を蝕んだのだ。
故に、朕は眠れなくなった。
夜であろうと、昼であろうと、瞼を閉じた闇の中に、伊予親王の姿が見える気がしたのだ。
その様な有様で、元より虚弱な朕が持つはずもない。
度々体調を崩し、執務もままならなくなる。
「陛下……大丈夫に御座います。この薬子と父上が御身を支えますので」
そんな朕を、薬子が抱きしめた。
「怖い……怖いのだ、薬子……」
「大丈夫です。私が、お守りします」
薬子の身体に、朕は逃げ込んだ。
その温もりの中でだけ、恐怖を忘れられた。
大元の原因が、薬子にあると知っていても、朕にはもはやどうする事も出来ぬ。
そうして……朕は、更に薬子に依存していったのだ。
しかし、同時に、朕に最早帝の座は重すぎた。
故に朕は、病を理由に、弟の神野親王に譲位したのだ。
こうして、神野親王は、帝として即位し、同時に朕は、上皇となった。
この時朕は、密かに期待していたのだ。
価値の無くなった朕から、薬子が自然に離れていく事を。
だが、藤原式家が、一度握った権勢を手放すはずもなかった。
一方で、嵯峨天皇の背後には、藤原北家がいた。
彼らは、朕を支える藤原式家を敵視していたのだ。
その対立は、早々にカタチとなって表面化した。
「上皇様、このままでは、我々は力を失います」
藤原仲成が、朕に進言した。
「平城京への遷都を、宣言なさいませ。そうすれば、上皇様の権威を示すことができます」
「へ、平城京……?」
平安京から、平城京への遷都。
それは、嵯峨天皇への対抗を意味する。
二つの朝廷が並立する、異常な事態。
更には、一度距離を置いたはずの、平城京の仏教勢力に近づくことも意味していた。
ここに来て、朕は全てを理解していた。
朕は、薬子を通して藤原式家に操られているのだと。
だが……。
「上皇様……」
薬子が、朕の手を取った。
この手に触れられた時、既に朕の意思は朕のモノではなくなっていた。
「私は、上皇様のお味方です。どうか……お決めください」
「……平城京への遷都を、宣言する」
その手がもたらすものに、朕は抗えないのだ。
朕は、そう告げた。
頭のどこかで、理解していた。
朕は、最早藤原式家の傀儡だと。
薬子に操られているのだと。
だが、身体に刻み込まれた依存は、もはや断ち切れない。
更に僅かに残った理性で、朕は気づいていた。
終わりが、近づいていると。
この様な有様、そして時代を巻き戻すかのような、平城京への遷都など……この道の先に、破滅しかないのだと。
だが、朕はもう引き返せなかった。
二つの藤原家の衝突という、政治の荒波に、身を任せるしかない。
(ならば、せめてその時までは……)
今宵も薬子の身体に溺れながら、朕は静かに忘我の淵に揺蕩う。
破滅の足音が、遠く近づいているのを聞いた気がした。




