とある国司の成れの果て
【悪路王】
(ふははははははッ!)
大地が、揺れる。
否、揺れているのではない。
儂が、呼吸しているのだ。
地の底より湧き上がる力が、儂の全身を満たすたびに、岩が軋み、泥が蠢き、この恐山そのものが儂の意思に応えて震えるのだ。
見よ、この景色を。
眼下に広がる恐山の地獄谷。
硫黄の臭気が立ち込め、至る所から蒸気が吹き上がる、この不毛の地。
かつてはただの山に過ぎなかったこの場所が、今は儂の玉座となっておる。
恐山が儂の身体となり、大武丸が儂の心臓となり、地脈が儂の血管となった今……儂に不可能はない。
今はまだ、この地を離れられぬ。それが唯一の制約であるが……。
だが、時が経てば、その制約も消えよう。
地の底からの力が、この身に満ち溢れれば、儂はこの地を離れ……奥州を、そして日乃本の全てを、手中に収めるのだ。
その日が、来る。必ず来る。
(ふははははっははっは……は…………長い、道のりであったな)
高揚の中、儂は、ふとここに至るまでの遠く険しい道を思い返した。
それがどれ程の悪路であったか、他の者には判るまい。
故に儂は名乗るのだ……悪路王と。
そう、全ての始まりは……あの屈辱からだ。
儂の名は……もはや覚えておらん。
いや、捨てたのだ。そのような人の名など、今の儂には不要故。
だが、明らかな事はある。かつて儂は、朝廷に仕える国司だった。
陸奥の国の国司。
北の果ての、僻地の長官。
それが、儂に与えられた役目だった。
「陸奥の国司に任ずる」
その言葉を聞いた時の屈辱を、儂は今も忘れておらん。
朝廷の貴族どもが、儂を見る目。
憐れみと侮蔑が混じった、あの目。
北の果てに厄介払いされる者を見る目だ。
儂とて、都で働いたのだ。
奴らに劣らぬ才を持っていたのだ。
それを、なぜ。
なぜ、こんな辺境の地に飛ばされなければならん!
(許せぬ……何時か見返してやる!)
その憎しみを胸に抱えながら、儂は陸奥の地に赴いた。
そして、その怒りの矛先は……蝦夷共に向けたのだ。
奴らこそが、儂をこの地に縛りつける原因。
奴らさえ居なければ、こんな地に国司など不要だったはず。
であれば、苦しませてやるのが道理というものであろう?
重税を課し、労役を課し、奴らの訴えを握り潰す。
都からの官吏だという権威を盾に、好き勝手に振る舞った。
それの、何が悪いというのか?
全ては、儂を国司に据えたが故。
想いのままに振る舞って何が悪いというのか!
しかし、蝦夷共がああも歯向かうとは。
やはり蝦夷などと呼ばれる者共の野蛮さを甘く見ていたことは否めぬ。
なんと、蝦夷の愚か者達が反乱を起こしたのだ。
無論、儂は即座に退いた。
尊き儂が刃に晒されるなど、あってはならぬ故に。
しかし、供の者たちは、次々と儂を見捨てた。
烏合の衆めが!
あれほど儂に媚びを売っておった奴らが、最後には儂を置き、逃げ去ったのだ!
その為、一人になった儂は、山中を彷徨った。
腹は減り、足は痛み、雨風に打たれながら。
(こんな筈では……こんな筈では、なかったのだ……!)
怒りと恨みが、儂の心を蝕んでいく。
朝廷への怒り。
蝦夷への怒り。
儂を見捨てた者どもへの怒り。
その怒りの全てを抱えたまま、儂は山中を彷徨い続けた。
そして……見つけたのだ。黒き沼を。
大地に染み込んだ、どす黒い泥の沼。
近づくだけで、全身に力が染み込んでくるような感覚がある。
怖ろしいものだとは、分かっておった。
だが、もはや怖れる必要もない。
儂は、全てを失ったのだから。
何より、その泥にはどこか近しいものを感したのだ。
故に、一歩踏み込んだ。
その瞬間、儂の全身が黒い泥に包まれた。
痛みは、無い。
ただ、灼けるような、引き裂かれるような憎しみがそこにあった。
ああ、なるほど、近しいものを感じる訳だ。
儂の内にある怒りと同じなのだ、この泥は。
それを理解利た時、……力が注ぎ込まれ、溢れた。
底知れぬ、圧倒的な力が。
並みの者であれば、この力に心が呑まれ、消えていたであろう。
しかし、儂の心は消えなんだ。
当たり前だ。このような怒りなど、儂の中に元より溢れておる。
暗愚なる朝廷へ貴族共の、無知蒙昧なる蝦夷共への怒りと憎しみ。
儂の中に満ちていたそれらが、瘴気と分かちがたく混ざり合ったのだ。
負の感情に染まった魔力と、負の感情そのものである儂の憎しみが。
その結果、儂は人を失いながら、知性だけを残した怪異と成り果てた。
だが……それに何の不満があろう?
儂は、尊き儂に相応しき力を得たのだ。
この力あれば、儂を蔑ろにした者達全てに思い知らせることも出来よう。
(……いや、まだ足らぬな)
だが賢き儂は、そこで考えを改めたのだ。
蝦夷程度ならばこの力を以っていかようにも出来よう。
しかし、都の者達に思い知らせるには、足らぬ。
故に儂は、さらなる力を求めて動き始めたのだ。
聡明なる儂は、ただ本能のままに瘴気を求める愚かな怪異どもとは、違う。
儂には、意図がある。計画がある。
瘴気の沼がどこに多く存在するか。
それを儂は探り、一つ一つを辿っていった。
そして……この地にたどり着いた。
恐山。
かつて都さえも脅かした、大怪異が生まれ出でし地。
ここだ、と儂は確信した。
この地は、大怪異の残滓が、最も濃く残る場所である。
大地に染み込んだ瘴気が、最も深く、最も広く広がっている場所。
目の前に広がる黒い沼は……儂のこれまで見てきた沼とは、比べ物にならない大きさだった。
変異した儂の巨体が、丸ごと沈むほどの広さに、深さ。
これと比べれば、各地の残滓は水たまりに過ぎぬ。
(ふ、はははははは!)
変容した儂の声は、最早音にもならぬ。
しかし、湧き上がる黒い喜びに、笑いがあふれ出た。
躊躇などなかった。
儂は、その沼に自ら身を投じたのだ。
頭の上まで、黒い泥が覆う。
全身が、瘴気に満たされていく。
一つ、一つ、儂の全てに染み渡っていく。
苦しさなどないが、あまりの力に、意識が何度も途切れかけた。
しかし、儂は手放さなかった。
多くの者どもへの怒りを。
その全てが、儂を繋ぎ止めた。
そして、沼の全てを取り込みきった時……儂は王となったという事実を、自然と理解していた。
(……王か。であるなら、儂は悪路王と名乗ろう)
蛮地たるこの地は全て悪路。
故にこの地に君臨するものの名として、これ以上のものはあるまい。
そして……同時に理解したのだ、
この地の全ての怪異が、儂の前にひれ伏したのだと。
長どもでさえ、儂の意思一つで動かせると知った時、儂は笑った。
ようやく、尊き儂に相応しい立場を得たのだと。
(朝廷め……蝦夷め……思い知らせてやる)
儂は、怪異どもを操り、奥州を苦しめ続けた。
朝廷の勢力を追い払い、蝦夷の民も苦しめ続けた。
あの憎き者どもが、同じように苦しむのを見るのは……なんと愉快だったことか。
……しかし、愚かにも朝廷は、田村麻呂なる男を差し向けたのだ。
この者の軍は、異様であった。
明らかに神の加護を受けており、怪異共は浄化され、村々が解放される。
あまつさえ蝦夷と朝廷が手を組むなどとは。
(正気とは思えぬ!? 何を考えておるのだ、あの男は!?)
怪異共の目を通して見えるのは、蝦夷共にさえ頭を下げ媚びへつらう武様な姿。
しかし、儂の怪異の軍は、その様な者に押され続けておる。
忌々しい。
だが、聡明なる儂は慌てはしなかった。
儂には、計画があったからだ。
瘴気が、この地に満ちる魔力と本質的には同じもの。
そして、その大元は地の底にある大きな力が変じたものだ。
それに気付いた時、儂の策は定まった。
無尽蔵の力を得るのだ。
各地にある魔穴にて、地の底から力を引き出しているのは最奥にある核岩であると知られておる。
ならば、儂が疑似的な核岩を作り、その力を横から奪い取ればよい。
瘴気に満ちた儂には、核岩の作り方さえ、朧げに理解できているのだ。
しかし、それにはいくばくかの時が必要であろう。
故に、大岳丸を囮に使い、時間を稼いだ。
大猛丸には、神域の魔穴を狙わせた……作らずとも奪えぬかと思ったのだ。
儂が住まう恐山にも魔穴はあるが、同じ核岩であれば質の良いモノを狙うが道理であろう。
しかし、失敗に終わった。
如何なる魔穴であっても、核岩を狙わんとすると強力な化生が現れるものらしい。
それが分かっただけでも収穫ではあった。
……だが、いずれも本命ではない。
本命は、大武丸なのだ。
豪雨で視界を遮りながら、奥州各地に残る瘴気の残滓を全て掻き集める。
儂が地脈を支配しようとしていた事への対処に、奴らが手間取っている間に、大武丸は着々と瘴気を蓄えた。
二匹の怪異の長を失ったのは、想定の範囲内だ。
いや、むしろ、それを惜しむ余裕など儂にはない。
大武丸が、恐山にたどり着いた時点で、全ては完成したのだから。
膨大な瘴気に自我さえ失った大武丸を、儂は凝縮させた。
抵抗などなかった。あれには、最早心などなかったのであろう。
そうだ。やはり部下は心など無いに限る。
心ある者など、何時裏切るかわからぬのだから。
そして……儂の疑似魔穴核岩が生まれた。
今もその力が、地の底より湧き上がってくる。
この力は、尽きぬ。
恐山の火山が燃え続ける限り、地脈が力を持ち続ける限り、儂の力もまた尽きぬのだ。
今はこの地、火山より離れられぬが、何れは……。
そう思うと更に笑いが溢れてくる。
そして今……儂の眼下に、蟻の如き連合軍が見える。
山々の向こうから、進軍してくる影たち。
朝廷の兵。
蝦夷の戦士。
そして、田村麻呂とやらに、阿弖流為などという者。
儂を打ち倒そうとしている、愚かな虫けらどもよ。
(ゆけ。押しつぶせ)
儂は、怪異どもに命じた。
すでに、儂の力は変わった。
いかなる生き物であろうと、瘴気に触れさせれば変異させ、操れる。
この恐山に近づくものは、鳥も、獣も、虫でさえも、全て儂の手駒となるのだ。
その数、無尽蔵。
向かってくる連合軍がどれほどの数を誇ろうとも、儂の軍には終わりがない。
さあ、精々苦しみ、儂を楽しませよ。
田村麻呂とやら。
阿弖流為とやら。
名高き英雄どもよ。
儂のこの手の中で、どれほど足掻けるか、その様を嘲笑ってやろう。
圧倒的な力に無尽蔵の軍勢。
そして、最後には儂がこの大いなる手で全てを握り潰す。
その光景を夢想しながら、儂は哄笑した。
ゴォォォォォォッ!
儂の巨体は、咆哮ひとつで空を震わせる。
山肌の岩が、崩れ落ちる。
地面が、大きく揺れる。
迫り来る連合軍の先頭が、一瞬怯んだのが見えた。
(ふ、ふははははははは!!!)
堪らぬな!
儂を蔑んだ者達が、ああも怯え怖れる。
それでよい。まずは、恐れよ。
そして、絶望せよ。
精々、儂を愉悦させるがいい。
あの者らをどう甚振り殺すか……愉しみに浸りながら、儂は待ち続けるのだった。




