奥州霊異譚 第七幕 神弓、天を射抜く
【阿弖流為】
既に、大猛丸は追い詰められていた。
かつて大怪異から零れ落ちた瘴気の沼。
奥州の山深くに残るその場所で、大猛丸は傷を癒そうとしていた。
黒い泥のような瘴気に全身を浸し、ゆっくりと力を取り戻そうとしているところを、オレたちは強襲したのだ。
だが……それでも、大猛丸は手強かった。
全身に纏う雷が、いまだ健在だったからだ。
「田村麻呂殿、近づくな!」
オレは、叫んだ。
田村麻呂殿が大猛丸に斬りかかろうとした瞬間、その全身から放たれる雷が、地面を焼いて弾けたのだ。
「くっ……これでは、近づけんな」
田村麻呂殿が、天羽々斬を構えたまま舌打ちをする。
雷を纏った大猛丸に対して、どれほどの猛者であっても、直接触れれば只では済まない。
田村麻呂殿の渾身の光の斬撃も、強力ではあるが溜めが必要だ。
その間に大猛丸は黒雲に紛れて動き回る為、なかなか当てることができない。
さらに、その黒雲の中から、配下たる怪異たちが次々と姿を現しては、連合軍に襲い掛かってくる。
「厄介な敵だ、本当に……」
蝦夷の戦士たちの指揮を任せた母禮が、苦々しく言う。
その言葉には、オレも頷くしかなかった。
だが、そんな状況の中心に立っているのが、オレの手にある神弓だった。
天之麻迦古弓。
矢をつがえ、大猛丸を目標と定める。
ただ、それだけでいい。
放った矢は、黒雲に阻まれようとも、雷に弾かれようとも、必ず大猛丸を貫く。
「グォォォァァッ!?」
大猛丸が、苦悶の声を上げる。
また一本、矢が全身を射抜いた。
これで何本目になるだろうか。
傷が癒えきらぬまま、次々と矢を受け続ける大猛丸は、確実に弱っていく。
(……この弓が無ければ、この戦いは成り立たなかっただろうな)
オレは、次の矢をつがえながら、ここに至るまでの事を思いだした。
胆沢の戦いが終わった後のことだ。
高子殿から、大猛丸が蔵王山で傷を負い、弱っているという話を聞かされた。
その言葉は、予知と言っても過言ではなかった。
彼女は、大猛丸がどこに潜んでいるかさえも、正確に見通していたのだ。
「次に向かうべき相手は、大猛丸です。今ならば、仕留められます」
高子殿は、静かに、だが確固とした声でそう告げた。
その言葉に、連合軍の者たちが息を呑んだのをオレは感じた。
蝦夷の戦士たちも、また同様だ。
遠く離れた場所の怪異の居場所を見通し、その状態まで把握する。
そのような力は、いかなる術者にも備わっていない。
(……やはり、この方は神の化身だ)
以前から薄々感じていた事が、確信へと変わった瞬間だった。
蝦夷の戦士たちも、同じように感じたのだろう。
それまで朝廷の術者として見ていた視線が、いつしか深い畏敬の色を帯びていった。
そして同時に、オレはある奇妙な感情を田村麻呂殿に向けていた。
(……神の化身を妻にするとは。この男、豪胆とかそういう話ではないのではないか?)
呆れとも感服ともつかない、そんな想いだ。
高子殿を隣に従えながら、ごく自然に妻として接している田村麻呂殿の姿に、オレは密かに笑ってしまった。
そんな風に打ち解けながら進軍する中、高子殿から神弓についての説明を受けたのだ。
「阿弖流為殿、この弓について、お話ししておかねばならない事があります」
高子殿が、穏やかな声で言った。
「天之麻迦古弓とは、地上に降り立った神が、天よりの使者を射抜いた反逆の弓です。そして、同時にその反逆した神をも射抜いた、神殺しの弓でもあります」
「神殺しの……」
「その力は、当たるべき者に矢が必ず当たるというものです。故に、努々扱いには気を付けて欲しいのです」
オレは、その言葉を聞きながら、一つの疑問が浮かんだ。
「……高子殿。一つ聞かせてほしい」
「はい」
「なぜ、そのような弓をオレに渡すのか?」
オレは、高子殿の目を真っ直ぐに見た。
「この弓があれば、オレは田村麻呂殿をも射抜ける。あなたの夫を、この弓で殺す事もできる。それが判っていて、なぜオレに渡すのか?」
周囲の兵たちが、息を呑む気配があった。
だが、高子殿は微笑んだまま、動じる様子はない。
「そのような事をなさらない方だと、信じているからです」
静かに、だが揺るぎない声で、そう答えた。
「そして、この弓の力は、必ず必要になります。そう感じているのです」
その言葉に、オレは黙り込んだ。
信じる、と彼女は言った。
神の化身が、蝦夷の長であるオレを、信じると言ったのだ。
(……その通りだった、か)
オレは、現在へと意識を戻した。
実際に、天之麻迦古弓の力がなければ、大猛丸を討伐する事は困難だっただろう。
大猛丸が身に纏う雷は、近づく者を悉く焼き尽くしてしまう。
黒雲を呼んでその中に身を隠す特性は、遠距離攻撃をも困難にする。
突風と再生という二つの特性を持っていた大岳丸と同じく、大猛丸もまた雷と黒雲での潜伏という二つの特性を持つ。
その相手に対して、当たるべき者には必ず当たるという天之麻迦古弓の力は、まさしく特攻と言うべき相性を示していた。
高子殿は、それを見通していたのだ。
(……あの方の先見性には、ただただ身が震える)
同時に、オレは奇妙な安心を感じている事に、面白さも感じていた。
つまり、高子殿はオレが田村麻呂殿に弓を引く未来など無いと見通したという事だ。
そして、自分自身でも、分かる。
ここまで共に戦った田村麻呂殿に、弓を引く事などできるはずがない。
田村麻呂殿は、希代の勇士だ。
その武の凄まじさは、オレも十分に知っている。
しかし、オレが彼に感じているものは、武への敬意だけではなかった。
荒れた奥州の地を、手を尽くして立て直していくその姿勢。
かつての官吏の横暴を認め、民の前で頭を下げる誠実さ。
蝦夷の戦士たちを対等に扱い、共に戦う仲間として遇する器の大きさ。
そのような田村麻呂殿に対して、オレは心からの感謝と敬意を感じている自分がいると、今更ながらに気づいていた。
「阿弖流為殿、右側から!」
田村麻呂殿の声が、オレを現実へと引き戻す。
「分かっている!」
黒雲から現れた怪異の群れが、右翼に迫っていた。
オレは、素早く矢をつがえ、次々と放つ。
矢は過たず怪異たちを射抜き、黒い靄を散らしていく。
一方で、田村麻呂殿は天羽々斬の光の斬撃を、大猛丸の逃げ道を塞ぐように放ち続ける。
「もう少しだ! 皆、もう少しで終わる!」
「押せ! 押し切れ!!」
田村麻呂殿の副官と母禮の声が、戦場に響く。
既に全身を矢で射抜かれた大猛丸は、身動きすら困難になっていた。
さらに、大猛丸が弱った事で黒雲も薄れ始め、その中に潜んでいた怪異たちが姿を晒し始める。
姿を隠せなくなった怪異たちは、次々と討ち取られていく。
優勢だ。
その確信が、連合軍全体に広がっていくのを感じた。
その時、オレは天之麻迦古弓から、強い力が湧き立つのを感じた。
(……これは)
今まで感じていたものとは、全く異なる力だ。
どこかに引き寄せられるような、あるいは何かに促されるような。
その力に導かれるように、オレは矢をつがえぬまま、弓を引いた。
すると、本来矢があるべきカ所に、光が集まり始めたのだ。
蒼白い輝きが、みるみると形を成していく。
やがて、そこには、一本の光の矢が生み出されていた。
「……!?」
その光景に、思わず視線を高子殿へと向けてしまった。
高子殿は、穏やかに微笑みながら、静かに頷く。
(放て、という事か)
奇妙な納得感が、胸の内に満ちた。
オレは、迷わず、その光の矢を放つ。
その瞬間、周囲が、閃光に包まれた。
地から天へと貫くような光の柱が出現した。
そう錯覚させるほどの、凄まじい光の奔流が、天之麻迦古弓からあふれ出したのだ。
目を開けていられない。
それほどの輝きだった。
光の奔流は、分厚い黒雲ごと大猛丸を貫いた。
そして、大岳丸の時と同じように、内側から瘴気さえも残らず消滅させていく。
黒雲が、晴れる……いや、消し飛んだと言った方が正確か。
大猛丸の姿ごと黒雲は、跡形もなく消え去っていた。
広がっていた瘴気の沼も、光に照らされたように浄化され、清浄な土へと戻っていく。
静寂が、戦場を包んだ。
既に怪異たちを討伐し終えた朝廷の兵も、蝦夷の戦士たちも、言葉を失い立ち尽くしている。
あまりに凄まじい光景に、皆、我を忘れていた。
オレもまた、自分の成した事に、呆然としていた。
その時、ポンと、肩を叩かれる。
オレは、我に返った。
振り向くと、そこには田村麻呂殿がいた。
天羽々斬を鞘に収め、誇らしげに、だが静かに頷いている。
その一言もない表情に、全てが込められていた。
よくやった、と。
共に戦い誇らしい、と。
(……この男は)
オレは、瞠目した。
蝦夷の戦士であるオレが、これほどの力を示した。
朝廷の将軍として、脅威に思う者もいるかもしれない。
だが、田村麻呂殿には、そのような色が欠片もない。
ただ、同じ戦場を生き抜いた戦友として、その在り様を受け入れている。
そのような器を、オレはこの男に見た。
(……決めた)
オレは、密かにある覚悟を固めた。
まだ、言葉にする時ではない。
だが、いずれ、この男に伝えねばならない事がある。
今は、それよりも前に為すべき事がある。
オレは、天之麻迦古弓を高く掲げた。
「勝ったぞ!! 二体目の怪異の長を、討ち果たしたのだ!!」
その声に、田村麻呂殿が続く。
「我らの勝利だ!!」
一瞬の沈黙の後――
「「「「おおおおおっ!!!!」」」」
連合軍の、朝廷の兵も、蝦夷の戦士も、渾然一体となった歓声が、奥州の空へと響き渡った。
互いに抱き合い、拳を突き上げ、涙を流す者もいる。
朝廷と蝦夷の垣根など、この瞬間には存在しなかった。
オレは、その光景を見渡した。
大岳丸を倒した後の胆沢の地でも、同じ光景を見た。
だが、今この瞬間の方が、さらに深く胸に響くものがあった。
奥州の平和に、また一歩、近づいた。
それだけは、確かな事だ。
(……残りは、大武丸と、悪路王か)
まだ、道は続く。
だが今は、この勝利を、共に戦った者たちと喜ぼう。
それだけの戦いを、オレたちは成し遂げたのだ。
オレは、隣に立つ田村麻呂殿を見た。
彼もまた、兵たちの喜ぶ様子を、温かい目で見守っている。
この男と共闘できた事を、オレは今更ながら、誇らしく思うのだった。




