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第九のお客様:人間と卵雑炊 ―戦場の外で―

本日の仕込み:


・残りの米を少し

・卵を多めに

・鶏の骨、残りを

・薪は細めに

……夜明け前は、火の音がよく響く。


夜が抜けきらないうちから、火は残っていた。

細く、長く、竈の奥で息をしている。


ぱち。

薪が縮む音がした。


俺は鍋の底を洗い、灰をならす。

昨日の名残の匂いは、もうない。


俺は何も言わず、米を研ぐ。

水を捨て、もう一度。


一睡も出来ず迎えた朝は、いつもと変わらない色をしていた。




---



——薬草採りのおばあが、来なかった。



夜明け前、そんな話が立った。

最初は井戸端で。

次は納屋の前で。

言葉は少しずつ形を変えながら、村を一周した。


「森に入ったきり戻らないらしい」

「昨日は月が明るかった」

「夜更けまで火を焚いているのを見た者がいる」


誰かが、言う。


「あの食堂の近くだった、と」


声は小さい。

だが、言った本人よりも、聞いた者のほうが長く覚えている。


戸が閉まる音。

足早に去る背中。

挨拶が、半分になる。


誰も断言しない。

だが、誰も否定もしない。


「魔物が出たのかもしれない」

「いや、最近は勇者様が……」

「でも、あそこだろ」


名指しはされない。

だが、視線は同じ方向を向いている。


村の朝は、いつも通りだ。

だが、噂だけが、先に目を覚ましていた。



---



扉が鳴った。


からん、じゃない。

ガン、と乱暴な音。


泥のついた鎧が三つ、四つ。

息の荒い男たちが踏み込んでくる。

湿った革と鉄の匂いが、店の中に流れ込んだ。


剣の鞘が、きし、と鳴った。

誰かが、立ち位置をずらす。

土間の石が、靴底で擦れた。


「婆さんが消えた夜、ここは火を落としてなかったらしいな」


誰かが言う。

若い声だ。怒りと疲れが混じっている。

問いかけじゃない。確認でもない。


「魔物を匿ってるって噂もある」

「森に、魔王の手下が出たともな」


言葉が、少しずつ重なる。

誰の声かは、もう分からない。


俺は火を見ていた。

鍋の底で、湯が静かに動いている。

薪を一本、足す。


ぱち。


「……おい」

「なんで、何も言わねえ」


誰かが一歩、踏み出す音。


「火を焚いてたのは事実なんだろ」

「なら、何を見た」


俺は答えない。

火が、鍋の底で小さく鳴る。


「……危ねえな」


別の兵士が、低く言った。


「隠してる顔だ」

「そういう顔、戦場で何度も見た」


剣の柄に、指がかかる。


「斬って確かめた方が早いかもしれん」


誰も、止めない。

誰も、命じてもいない。


ぱち。


火の音だけが残った。

そのとき——


からん。


今度は、いつもの音だった。


リーナが入ってくる。

外套に埃、頬に走りの熱。


一瞬、俺を見る。


視線が合ったのは、ほんの短い間だ。

だが、その間に、彼女の足が止まった。


目が、俺の顔から外れる。

鍋、火、床。

そして、抜かれかけの剣。


肩が、わずかに落ちる。


——ああ、とうとう。


言葉にしないまま、そう言った顔だった。

彼女は、すぐに口を開かなかった。


「……そっか」


それだけ言って、息を吐く。


兵士の一人が、口を開いた。

さっきより、少し落ち着いた声だ。


「……話をしよう」


誰に向けた言葉か、分からない。

だが、場に残っている全員が、それを聞いた。


「ここは、通り道だ」

「森に入る前も、出たあとも、誰かが寄る」


俺は火を見る。

鍋の底で、湯が静かに揺れている。


「婆さんは、薬草採りだ」

「毎日、同じ時間に森に入る」


「……知ってる」


短く答えた。

それだけだ。


「なら分かるだろ」

「何か、見たはずだ」


沈黙。


「見てない、ならそれでいい」

「だが、黙ってる理由は何だ」


誰かが、苛立ちを隠さず言った。


「庇ってるのか」

「それとも、もう——」


言葉が途切れる。

続きを言えば、戻れなくなると分かっている声だ。


俺は、ようやく顔を上げた。


「………俺の、責任だ」


その言葉が落ちたあと、

店の中から、音がひとつ消えた。


誰も動かない。

誰も、すぐには息を吐けない。


鎧の擦れる音も、

剣の金具の鳴る気配も、ない。


ただ、火だけが鳴っている。


ぱち。


剣の柄に置かれていた指が、わずかに強くなる。

誰かが息を吸い、吐く。


「……ずいぶん、都合のいい言い方だな」


低い声。


「それで終わりか」

「詳しい話は?」


俺は答えない。

視線を落とし、薪を一本、足した。


ぱち。


火は、消えなかった。


「責任だと言ったな。なら、説明をしろ」

「何が起きた」

「婆さんはどこだ」

「魔物を見たのか」


問いが、矢継ぎ早になる。


「何を隠してる」

「黙ってる理由は何だ」

「責任だと言った、ならば話せ。お前は何をした」


俺は、兵士の目を見つめて言った。


「俺が、殺したことにしていい」



その場にいるすべての者が、息を呑んだ。

次の瞬間、声が爆ぜた。


「ふざけるな!」


誰かが一歩、踏み出す。

鎧が鳴り、剣の柄が強く握られる。


「冗談で言っていい言葉じゃない」

「殺した、だと?」

「だったら今すぐ――」


言葉が、怒号に変わる。

正しさが、勢いを持つ。


剣が、半分ほど抜けた。


その前に、影が割り込んだ。


「……やめろ!」


リーナだった。


誰よりも近い位置に立ち、

誰よりも低い声で、叫んだ。


「それ以上、近づくな」


腕を伸ばし、俺の前に立つ。

剣に向けてじゃない。

俺に、背を向けて。


「分かってるだろ」

「こいつが、そんな言い方をする時は――」


言葉が詰まる。

続きが、出てこない。


「……違う」


それだけ言って、歯を噛んだ。


兵士たちが、戸惑う。

刃は止まっているが、下がらない。


「庇うのか」


吐き捨てる声。


リーナは、振り向かなかった。


「庇ってない」

「……立ってるだけだ」


肩が、わずかに震えている。


「ここは、戦場じゃない」

「関係ない」


短く、冷たい声。


「戦場かどうかは、俺たちが決める」


そう言って、兵士たちは剣を抜いた。


刃が、灯りを跳ね返す。

床に刃の影が落ちる。

リーナは動かない。

腕を伸ばしたまま、俺の前に立っている。

刃は、彼女の背中を越えられない。


「どけ」

「……どかない」


声は低い。震えていない。


「関係ないだろ」

「関係は……ある」


刃が、わずかに揺れる。

前に出る者も、引く者もいない。


その間に、火が鳴った。


ぱち。


誰かの視線が、無意識にそちらへ向く。


鍋の底で、湯が静かに動いている。

まだ、煮えていない。

ただ、温度だけが上がっていく。


「……」


言葉にならない音が、誰かの喉で止まる。

剣は抜かれたままだ。


「リーナ、どけ」

「いやだ」

「いいからどくんだ。俺のせいだ」

「いやだ!!」


彼女の目から涙がこぼれ落ちた。

そのときだった。


ぐう、と音がした。


誰の腹か、すぐには分からなかった。

だが、その音は、やけに大きく響いた。


剣を抜いたままの兵士の一人が、

はっとして腹を押さえる。


誰も、笑わない。

誰も、咎めない。


ただ、その場の緊張だけが、

一瞬、形を失った。


「……腹、減ってるだろ」


俺は、そのまま鍋に向き直った。

昨日の残り飯を、木椀から移す。

乾いて、少し固くなっている。

指でほぐすと、ぱら、と落ちた。


水を張る。

音が、はっきり響く。


ちゃぷ。


火を、少しだけ強める。

薪は足さない。

いまの分で、足りる。


湯が温まり、米がほどける。

白く、ゆっくり濁っていく。


誰も、止めない。

誰も、近づかない。


卵を割る。

殻が、縁に当たって鳴る。

とろりと落ちた黄色が、

湯の中で形を変えた。


火の音が、一定になる。


ぱち。


椀を並べる。

数は数えない。


「……」


誰かが、喉を鳴らす音がした。

腹の音かもしれない。

違うかもしれない。


雑炊が、できた。


誰も、椀に手を伸ばさなかった。


湯気が、静かに立つ。

火だけが、仕事を続けていた。


「……」


誰かの喉が、ごくりと鳴った。

兵士の一人が、椀から目を逸らす。


「……食えるかよ」

「魔王の残り火みたいな味、するんだろ」


吐き捨てるような声だった。

そのとき外で、笛の音が鳴った。

短く、乾いた合図。


兵士の一人が、ぴくりと肩を揺らす。

互いに顔を見合わせる。


「……呼び戻しか」

「前線が、動いたな」

「……魔王だ」


剣を握っていた手が、わずかに緩む。

だが、刃はまだ下がらない。


もう一度、笛が鳴った。


さっきより、強く。

急かすように。


「……ちっ」


舌打ち。


「今は、引くぞ」

「覚悟しとけ」


それだけ言って、背を向けた。

剣が鞘に戻る音が、ひとつ。

続いて、もうひとつ。

残りの兵士も、何も言わずに続く。


扉に手をかけた兵士が、ふと足を止めた。

看板を見る。


「……魔物、歓迎だとよ」


笑ったのか、吐き捨てたのか、分からない声だった。


からん。


音が遠ざかり、

店に、静けさが戻った。

次回はいよいよ最後のお客様。

魔王と、黒パンのシチュー煮込みの話です。

人間と同じ食卓で、何が語られ、何が終わるのか。

もう一夜だけ、お付き合いいただけたら嬉しいです。

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