第八のお客様:リッチと塩むすび ―大魔術師が思い出した味―
本日の仕込み:
・白米
・粗塩
・薪を少し多めに
・昨夜の湯を残した釜
……夜は冷える。火を落とす理由は、まだない。
夜更けだった。
客はもう来ないだろうと思って、俺は釜の前に立っていた。
火は細く、だが途切れずに鳴っている。ぱち、ぱち、と。
薪が縮む音が心臓の拍と似ていた。
扉が鳴った。
からん
入ってきたのは薬草採りのおばあだった。
肩に籠、外套の裾に白いものが少し付いている。雪だ。
「まだ火、落としてなかったかい」
「……ああ」
「前も、そうだったわねぇ」
俺は返事をしない。
薪を一本足す。
ぱち、と音がした。
「火を見てると、昔の匂いが戻る人もいる」
おばあは椅子に腰を下ろし、ふと、卓の端に置かれた小さな椀を見た。
使われていない。欠けもない。
「……まだ片づけてないのかい」
俺は視線を落とさず、釜の火を見ていた。
「置いてあるだけだ」
「そうかい」
「そうだ」
おばあはそれ以上、何も言わない。
聞かない。
責めない。
ただ、知っている人の距離で、そこにいる。
そう言うと俺は釜から麦粥をよそった。
椀を渡す。湯気が二人のあいだに立つ。
「体があたたまるぞ」
俺がそう言うとおばあは笑った。しわが深く寄る、あの笑い方だ。
「……もう随分と経つんだねぇ」
匙の音。
火の音。
いつもと同じ夜だった。
---
二度目の扉が鳴った。
からん
音が、半拍ずれた。
空気が一段、重くなる。
風が止まった気がした。
入ってきたのは光を吸う影だった。
足音はない。
骨ばった手が、外套の奥で白く浮いている。
「……塩むすびを」
それだけ言った。
おばあは一瞬匙を止め、椀を置いた。
音を立てないように、底を確かめるみたいに、そっと。
それから一度、俺のほうを見る。
俺は布巾を握り頷いた。
「席は空いてる」
骨の手。
光を吸う影。
リッチは古びた椅子に腰掛けた。
おばぁは心なしか頬をゆるめ、口を開いた。
「腹が減るってのは、生きてる証拠だよ」
「――生きてはいない」
「はっはっは!こりゃ一本とられたね」
「……寒い夜だねぇ」
誰に向けた言葉でもない。
おばあはただ、籠を膝に引き寄せて、
指で椀の縁を押さえた。
人と死者が、同じ火を囲む。
---
米を研ぐ。
「しゃっ、しゃっ」
湯が白く濁る。
指先に、冷たい水。
塩をつまむ。粒が指に残る。
釜を火にかける。まだ、音はしない。
おばあは椀を両手で包み、
湯気を逃がさないように、ゆっくり息を吐いていた。
リッチは椅子に腰をかけたまま、背を預けなかった。
俺は釜の前を離れない。
布巾を畳み直し、また広げる。
蓋は、まだ開けない。
三人とも、
同じ火を見ていた。
だが、待っている時間はそれぞれ違っていた。
---
釜の中で、音が変わった。
水気が引いて、米が重くなる音。
俺は火を少し落とす。
蓋に手を置き、一拍、待つ。
白い湯気が押し出され、遅れて甘い匂いが立った。
米が、炊けた。
おばあが小さく息を吸う。
体が先に反応しただけの自然な動きだった。
リッチは動かない。
湯気が骨の指をかすめても、
目の奥の光がわずかに深くなるだけだ。
俺は蓋を取る。
白い粒が揃っている。焦げも、割れもない。
しゃもじを入れると湯気が三人のあいだを通り抜けた。
同じものを見ている。
だが、流れている時間は違う。
炊けた米を掌にのせる。
熱い。
ぎゅ、と。
力は入れない。
入れすぎると、割れる。
ひとつ、置く。
ふたつ目の前で手を止める。
…作ったひとつを皿にのせることにした。
「どうぞ」
「……いい匂いだねぇ」
リッチは、すぐには手をつけなかった。
湯気の動きを確かめるように見ている。
「味はどうだい」
おばぁにそう言われ、骨の指で米を一口つまむ。
しばらくして、低く言った。
「……匂いも、味も、わかりはしないのだ」
おばあは一瞬だけ手を止めた。
だが、すぐに頷く。
「そりゃそうだねぇ」
「だが」
その先を、少し考えるように間を置く。
「――こういう形だった」
「形?」
「三角で、崩れやすくて」
言葉を選ぶように、間が空く。
「急いでいると、よく落とした」
おばあの匙が止まる。
「……誰かと食べたのかい」
「遠い昔にな、弟子たちと」
「そりゃあ、賑やかだったろうねぇ」
リッチは否定しなかった。
「……ああ」
その一音が妙に人間らしかった。
おばあは椀を両手で包み、息を吐く。
「思い出せるなら、それで十分さ」
リッチは答えなかった。
「あったかいもの食べて帰れるなら上等だよ」
「――帰る先は、既にない」
「……そうかい。まぁ、私もあんたとそう変わらんよ」
おばあは麦粥の椀を両手で包み、
何事もなかったように息を吐く。
「ちゃんと噛めるのかい」
「歯は残っているからな」
「あはは。そりゃ、そうだねぇ」
死者と生者が言葉を交わし、笑い合う夜。
火の音はいつもと変わらず低く続いていた。
湯気が卓の上に溜まり、匂いがもう店のものになる。
このまま、何事もなく夜が終わる気がした。
---
「さて、そろそろ帰ろうかね。ごちそうさま。
また来るよ」
「ああ」
「あんたもね、この食堂は寂れるには少しばかり勿体無いからさ」
「そうだな、老婆よ」
「よいしょ」
椅子が、きし、と鳴った。
足元には薬草が入った籠がある。
「おっとっと」
おばあが立とうとして、よろめく。
その瞬間だった。
骨の手が伸びる。
支えようと――
袖口が、触れた。
椀が、落ちた。
おばぁの体が、崩れ落ちる。
そして、息が止まった。
俺は、一歩も動けなかった。
薬草が散らばって床に広がっている。
倒れた椀のそばに白い手が見える。
伸ばせば届く距離だ。
だが、足が言うことをきかない。
布巾を握ったまま、指先だけが強ばる。
呼べば返事がある気がした。
さっきみたいに。
だが、
火の音がしない。
沈黙。
骨の指は宙で止まっている。
伸ばしたままの形だった。
「……奪ってしまったか」
その声が、遠くで鳴ったように聞こえた。
俺は、まだ動けない。
いつだったか、リーナに言われた言葉が頭を駆け巡った。
『いつか、死人が出るよ』
視界の端で、何かが揺れた気がした。
空気が波打つ。
布が沈むように。
おばあの体が、光に溶けた。
祈りでも、儀式でもない。
光の粒になり、世界に還った。
ぱち、と
薪がはぜる。
その音で時間がまた流れ出す。
俺はそこでようやく息を吐き、足元を見る。
そこに、おばあはいない。
散らばった薬草と籠だけがそこにある。
「……全て、俺の責任だ」
俺の声は、自分でも驚くほど静かだった。
火の音だけが、また店に戻ってきている。
「――責任、か。
私は、そういう言葉を使わなくなって久しい」
低い声が闇の奥から落ちてきた。
火が一つ、はぜた。
しばらくしてリッチが外套の内に手を入れる。
骨の指が開くと掌の上に白いものがあった。
「代だ」
そう言って、テーブルの上に置いた。
俺は手を伸ばさなかった。
「足りないなら、言え」
「……十分だ」
それだけのやり取りだった。
次の瞬間、そこにはもう何もいなかった。
消えた、という気配すらない。
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俺は火の強さを整え、釜の蓋を閉じる。
外で風が鳴った。
俺は戸口に立ち看板を見た。
風に揺れて板が、きし、と鳴る。
手が伸びる。
炭を取って、文字の端に触れる。
「魔物歓迎」
線は、まだ濃い。
一画、なぞってみる。
消そうとしているのか、確かめているのか、自分でも分からない。
炭が、折れた。
俺は手を止める。
火の音が背中で鳴っている。
結局、何も消えない。
看板はそのままだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
実はこの話は次回に続きます。
第9話は人間の物語。
卵雑炊と、戦場の外の話になります。
また腹をすかせて、覗きに来てください。




