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第七のお客様:シャドウと鍋焼きうどん ―影を食らウ魔物―

本日の仕込み:

・鶏肉ひと切れ

・太いうどん玉

・卵ひとつ

・葱とほうれん草

・土鍋を温める炭火


……三日月の夜は影が薄い。そんな晩に、客は腹をすかせてやって来る。

夜は深く、灯りの届かぬ隅で、闇がゆっくりと濃くなっていった。

外の空には細い三日月。

光は弱く、地に落ちる影はかすれて頼りない。


風もなく、虫の声すら絶えたその時――扉が「からん」と鳴った。


だが入ってきたのは、足音でも人影でもない。

土間の上に、黒い水を流したような影が、すうっと広がった。


床石に吸い付くように揺れ、柱にまとわりつき、竈の火の赤を呑み込む。

それは外から来たものではなく、夜の闇そのものが形を変えて、ここに生まれ落ちたように見えた。


影はするすると俺の足元へ寄り、ぴたりと止まった。


思わず息を呑む。背筋に冷たいものが走り、手の汗で布巾がしっとりと重くなる。

竈の火は確かに燃えているのに、厨房の空気は急に温度を失ったようだった。


やがて、低い声が掠れた風のように響いた。


「……オマエ」


胸の奥で、思わず息を呑んだ。

冷たいものが背筋を這い上がり、布巾を握る手がじっとりと濡れる。


「……オマエの影を、食わせロ」


俺は再び息を呑んだ。背骨の奥に、刃を当てられたような感覚が走る。

それでも竈に向き直り、短く答えた。


「席は空いてる。……料理を待て」



土鍋を火にかける。

出汁を張り、昆布と鰹の香りを立ちのぼらせる。

じわじわと湯が白く濁り、やがて「ぐつぐつ」と音を立てはじめる。


鶏肉を焼き入れ、じゅうっと脂の匂いが広がる。

太いうどんを沈め、湯がきらきらと跳ねる。

刻んだ葱を散らし、ほうれん草を添え、海老天を横たえる。

最後に卵を割り落とすと、黄身が月のように浮かんだ。


湯気が立ちのぼり、土鍋の縁から濃い影がゆらゆらと広がった。



待っているあいだ、影はじっとしていられないようだった。

黒い腕のような揺らぎを伸ばし、壁の棚にかけた皿や鍋をなぞっていく。


「……こノ皿の影、にがイ」

「……こノ鍋の影、くさイ」


ぽつりぽつりと感想を漏らす。

料理を待つ客というより、品定めをする獣だった。



やがて鍋が煮え、湯気が店内を包み込む。

影は椅子に座るような姿勢を取り、湯気に顔を寄せた。

《すぅ……じゅる……》と湿った音がして、黒が鍋の縁から吸い込まれていく。


「……影にも 鮮度が ある。イま うごいてルやつ ダけ、味に なル」

「……よく ゆれル。まだ こどう ノこってる 影 ダ」

「……熱 うつってル。イきた かげノ 味 ダ」


淡々と告げる声は、まるで食レポのようだ。

だが俺の目には、ただ湯気が立っているだけにしか見えない。


「……ニンゲン ノ 影、イちばん あまイ。なんども くっタ」

「……焚き火 ノ まえで くった 影、香ばシかっタ」


影はふいに沈んだ声で続けた。


「……むかシ、海辺ノ村で、月のない夜二 みな 影を あつめテ くっタ。

 おとなモ こどもモ、影を わけあって、すぐ なくなっタ」


「……影ノ宴、にんげんハ しらなイ。

 にんげんノ宴と、影ノ宴……けっして まじわらなイ」


ぞっとする。背筋の奥で、血が騒ぐのを感じた。

やはり魔物は人とは違う。

言葉を交わしても、同じ火を囲んでも、その根は決して交わらない。


影はさらに揺れ、低く囁いた。


「……イま ここで、オマエの影 つぶしても イイ」

「……喰っタ ところで、だれモ とがめなイ」


心臓が速まり、思わず剣に手が伸びそうになる。

今すぐ切り伏せたい衝動が胸を焼く。




だが俺は歯を噛みしめ、竈に向かい続けた。

剣ではなく、鍋の湯気を見つめる。


ほんの少しだけ、汁が減っていた。


「……悪くなイ。イまは、じょうとうダ」


影はわずかに震え、土鍋の縁に黒を残した。


「……三日月の夜は、影 うすイ。すぐ はらへル」

「……ダから くル。ここの 影、たすかル」



食べ終えた影は、そのまま夜へ溶けようとする。

俺は呼び止めた。


「おい。勘定は?」


一拍の沈黙のあと、影が俺の影に重なる。

胸の奥に冷気が突き抜けたかと思うと、手のひらに小さな黒い欠片が落ちていた。


「……夜の かけらダ。これで 足りルか」


黒い石は微かに揺らぎ、指の間から闇がにじみ出るようだった。

俺は黙ってそれを壺に収める。中には鱗や血の瓶と並んで、不気味な輝きが沈んでいく。


 「……夜ノ奥ニ、もっと深イ影ガいル」


そう呟いてシャドウは宵闇に溶けていった。



竈の火を見つめながら、布巾を握り直す。

胸の奥で冷たい思いがうずいた。


「……これで、いいのか」


俺が食われるなら構わない。

だが、もし他の客がいる時に――あの影が牙を向いたら。

魔物歓迎の看板は、本当に掲げ続けていいものなのか。


そのとき、遠い昔の光景が脳裏をかすめた。

叫び声。血の匂い。刃がぶつかり合う金属音。

誰かの影が地に倒れ、二度と立ち上がらなかった夜。

思い出すだけで、胸の奥に黒い炎のようなものが広がっていく。


心臓が速まる。指先が震え、背筋の奥から熱がせり上がる。

戦いを捨てたはずの体が、もう一度血の海に戻ろうと騒いでいる。

斬り伏せろ、燃やせ、喰らえ――そんな声まで聞こえそうになる。


俺は歯を噛みしめ、布巾を握りつぶした。

ここは戦場じゃない。

剣を振るうために火を起こしたんじゃない。


必死にその熱を押し殺す。

筆を取る手が止まる。




けれど次の瞬間、土鍋から立ちのぼる湯気が目に入った。

揺れる湯気の影は、確かに生きていた。


俺は深く息を吐き、筆を握り直す。

看板の隅に小さな字を刻んだ。


「影も歓迎」



土間には、まだ黒い残響が揺れていた。

消える間際、掠れた声が聞こえる。


「……まタ くル。次は モっと イきのイイ 影を

……たノしみに してイル」


お読みいただき、ありがとうございます。

文化の違いは難しいですね。


次回は「リッチと塩むすび」。

大魔術師が生前味わったあまりに素朴なひと口です。


また温かい皿を用意して待っています。

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