第五のお客様:サキュバスとフルーツサンド ―ただの女の子みたいに―
本日の仕込み:
・食パンを数枚
・生クリームを泡立てた鉢
・苺と柑橘の切れ端
・砂糖をひとつまみ
……甘い香りは、夜を呼び寄せやすい。
昼下がり、一人の旅人がやってきた。
埃にまみれた外套を脱ぎ、椅子に腰を下ろす。
麦粥をすすりながら、世間話をぽつりと落とした。
「近くの村で子どもが怪我したらしい。魔物にやられたってよ」
「……そうか」
「仕方ねえよな。魔物だもんな。どうせそのうち討伐隊が出るさ」
匙を置き、今度はにやりと笑う。
「それとな、この辺りで妙な噂もあってな。
夜に若い男がふらふら帰ってきて、
『夢みたいに綺麗な女に抱きしめられた』なんて浮かれてたそうだ。
次の日は骨抜きで寝込んだってさ」
「ほう」
「村じゃ“ああ、サキュバスにやられたんだろう”って笑ってる。
怖がるより、色っぽい話の種にしてるんだ」
旅人はにやついて、匙を突きながら言った。
「羨ましい話だよなあ。怪我するよりずっといい。……まあ命が吸われたら元も子もねえけど」
俺は相槌だけを返した。
怪我をさせた魔物も、噂の女も、同じ「魔物」という一括りにされている。
それ以上深く考えようとする者はいない。
旅人は代金を置き、肩をすくめて去っていった。
扉が閉まると、看板の「魔物歓迎」の文字が夕風に揺れた。
その墨の色が、少し薄く見えた。
夜。
星が冴え、空気が冷える頃、扉が「からん」と鳴った。
灯りの下に現れたのは、妖艶な女。
紫の髪は腰まで流れ、紅い唇が月の光を受けてきらりと光る。
けれど、その大きな瞳には、妙にあどけない輝きもあった。
年の頃でいえば、まだ人間の娘なら十代の終わりくらいに見える。
「こんばんはっ」
軽やかに笑って手を振る。その声は快活で、場を明るくしてしまう。
「ここって、“魔物でも歓迎”なんでしょ? ねえ、ほんとに?」
「……ああ。看板に書いてある通りだ」
「よかったぁ! ね、お願い。
何も聞かないでわたしをただの女の子みたいに扱ってほしいの」
囁くようでいて、照れ隠しの笑顔を浮かべる。
その顔は、妖艶さよりも可愛らしさのほうが勝っていた。
「ただの女の子みたいに」と言う言葉に、一瞬だけ、あの日の台所の景色が脳裏をよぎった。
女は椅子に腰を下ろし、足をぶらぶらさせながらメニューのない卓を見渡した。
「えーっとね、なに食べよっかな~。
お肉もいいけど……あ、でも夜に肉ばっか食べると太るって言うし」
頬に指を当てて考える仕草は、どう見ても普通の娘のそれだった。
しばらく唇を尖らせて悩んだ末、ぱっと顔を上げる。
「あっ、わかった! フルーツサンド! あれが食べたい!」
「了解。少し待ってな」
俺はまな板を整え、パンを取り出す。
彼女を特別な客として構えることはしない。
いつも通り、腹を空かせた客に応えるだけだ。
パンの耳を落とし、真っ白な面を揃える。
泡立てた生クリームを厚めに塗ると、「しゅっ」と木べらが音を立てる。
苺を並べ、蜜柑を散らす。色の配置を整え、もう一枚でふわりと重ねる。
包丁を入れると、断面に赤と橙が花のように咲いた。
皿を差し出すと、彼女は目を丸くして声を上げた。
「きゃー! なにこれ! かわいいー!」
スカートの裾をつまんで揺れながら、ぱちぱちと手を叩く。
ひと口かじると、生クリームを唇につけたまま笑った。
「んんーっ! 甘いっ! 果物ってこんなに甘いんだ!
お砂糖の魔法とけっこんしたみたい!」
もう一口、苺にかぶりつく。
「だめだぁ……顔がゆるんじゃう……
こんな顔、人間の男に見せたら幻滅されちゃうよね」
そう言いながら、照れ隠しに舌を出した。
紅い瞳は楽しげに揺れ、頬はほんのり赤い。
その表情は、誘惑の仮面を外したただの少女のものだった。
皿を押しやって、彼女は小さく溜息をついた。
「……ねえ。わたしたちってさ、みんな同じ顔に見られるんだよね。
男を惑わすとか、危ないとか。ほんとは、ただ可愛いもの食べて笑ってたいだけなのに」
言ってから恥ずかしくなったのか、慌てて笑い直す。
「ごめんごめん! 変なこと言っちゃった。
……でもね、今日みたいに“普通”にしてもらえるの、すっごく嬉しかったんだ」
「うちじゃ客はみんな腹を満たすただの人さ」
俺は淡々と答え、皿を重ねた。
その一言に、彼女は目を丸くしてから、子どものように笑った。
やがて皿は空になり、彼女は深呼吸をひとつ。
立ち上がると、背筋を伸ばして艶やかさをまとったが、声は少し小さかった。
「……ごちそうさま。ね、また来てもいい?」
「腹が減ったら、いつでも」
「ふふっ。じゃ、またねっ!」
手を振って扉を出ていく。
妖艶な姿に戻っていたが、口元にはまだ甘い名残があった。
そして振り返りざま、つい癖のようにウインクと投げキッスをひとつ。
自分でも恥ずかしくなったのか、頬を赤らめて慌てて夜へ消えていった。
残った皿を拭き終えると、俺は布巾を掛けて立ち上がった。
外に出て看板を引き寄せ、端に細い字を加える。
「ただの女の子も歓迎」
墨が木目に沁み、夜風に乾いていく。
厨房にはまだ、果物とクリームの甘い匂いが漂っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は「コボルト親子と蜂蜜ケーキ」。
親と子に残したいひと皿が、静かな夜に並びます。
日曜日の夜、温かい皿を用意して待っています。




