第三のお客様:吸血鬼とにんにくパスタ ―母の味を求めて―
本日の仕込み:
・にんにくの房をいくつか
・乾いた赤唐辛子
・熟れすぎたトマト
・香草をひとつまみ
……月が明るい夜は、妙に扉が鳴りやすい。
朝、リーナが戻ってきた。
汗に土の匂いを混ぜ、目の縁が赤い。
鎧が焦げ付いている。
「……見たよ、看板」
「どうだ」
「似合ってる。似合ってるけど、危ない」
「危ないのはいつもだろ。戦でも、店でも」
彼女は黙って、椅子に腰を下ろした。
出した麦粥を、ゆっくり食べる。匙が器の縁に当たる音が、やけに静かだ。
最後の一口を呑み込んで、彼女は言った。
「もし、ほんとうに“最後の晩餐”を求めて来る魔物がいたら、あなたは、どうするの」
「出す。温かいのを」
「それで、あなたは救われるの?」
「さあな。救われるかどうかは、いつもあとで分かる。
だが、腹が満ちると、人は少しだけ正気に戻る。魔物も、そうだといい」
「いつか死人が出るよ」
「俺にそれをいうのか」
「……っ!」
「あの日、俺はわかったんだ」
リーナは目を伏せた。
「わたしは、後悔しないで欲しいだけ」
「後悔なんてもう2度とすることはないさ」
「俺はもう、何も持ってない」
⸻
その夜は満月。月は異様に明るく、白い光が大地を昼のように染めていた。
窓越しに射し込む光は、厨房の刃物を銀に変え、刃先は細い月のかけらのように輝いた。
扉が「からん」と鳴る。
入ってきたのは、背の高い蒼白な紳士だった。
青白い肌は蝋のように滑らかで、紅玉めいた瞳は月明かりを映し、口元には静かな誇りが宿っていた。
黒い外套が床をすり、歩みは静かだが、影が広がるように感じられた。
「……いらっしゃい」
俺は声を整えて言った。
「ここは、人も、魔も、迎える店と聞いた」
低く、乾いた声。
その瞳は赤く光り、夜を切り裂くように鋭い。だが、瞳の奥にあるものは、飢えだけではない。
「注文を聞こう」
「……にんにくの効いたパスタを」
思わず眉をひそめた。
吸血鬼といえば、にんにくを忌むはずだ。
「いいのか」
「いいのだ。それが欲しい」
その声には、揺るぎない静かな決意がこもっていた。
竈に薪を足し、鉄鍋を温める。
にんにくの塊を取り、包丁で潰す。
とん
軽く刃を当てると、にんにくの香りが一気に広がる。
油に入れると「じゅっ」と音がして、黄金色の泡が弾けた。
赤唐辛子を一本落とす。
弱火でじっくりと、香りを油に移す。
にんにくの匂いが、夜の冷気を押し返すように漂った。
トマトを刻み、木べらで崩す。酸味が混じり、香りに厚みが出る。
塩を一つまみ、香草を細かく砕いて散らす。
茹で上がった麺をすくい、ソースに絡める。
とろりとした赤が、白い蒸気の中で揺れる。
俺は鍋を振りながら、ちらりと客を見る。
吸血鬼は、にんにくの匂いを深く吸い込んでいた。
嫌悪ではない。むしろ懐かしさを噛みしめるように。
麺をソースに絡め、艶やかに赤く染める。
白い皿に静かに盛ると、湯気とともににんにくの香りがふわりと広がった。
仕上げに刻んだ香草を散らすと、赤と緑が月明かりに映えて、一皿はまるで絵画のように整った。
赤いソースがにんにくの香りをまとい、月明かりの下で艶めく。
吸血鬼は皿を前にし、しばし見つめた。
漂うにんにくの香りに、赤い瞳がかすかに揺れる。
「これは……人間だった頃、母が作ってくれた香りだ」
赤い瞳が揺れる。
声は震えていたが、そこに渇きはなかった。
ただ、遠い日を思い出す者の声だった。
母の味を求めるその姿に、俺は思わず目を伏せた。――同じ匂いを、二度と届けられなかったからだ。
「血に飢えるほどに、人だった頃の記憶が崩れていく。
だが、最後にもう一度……この味を確かめたかった」
俺は答えず、ただ銀のフォークを差し出した。
吸血鬼はそれを受け取り、静かに麺を巻き取り、口へと運んだ。
最初の熱に、わずかに瞳を細め、ひとつ息を洩らす。
噛むたびに、にんにくの香ばしさとトマトの酸味が広がる。
青白い指がわずかに震え、目尻に透明な雫が浮かんだ。
「……これだ」
低い声が、はっきりとした喜びを帯びる。
その横顔は、一瞬だけ人間の青年のように幼く、同時にどこまでも気高かった。
赤い瞳は涙に揺れ、静かな微笑みを添える。
「母の……味だ」
俺は黙ってうなずいた。
湯気に溶けたにんにくの香りが、その涙とともに立ちのぼり、夜気の中に淡く漂った。
皿はすぐに空になった。
最後に少しだけソースを残し、吸血鬼は背筋を正したまま深く息をついた。
「これで、思い残すことはない」
「……勘定はどうする」
吸血鬼は静かに指先を切り、赤い雫を小瓶に落とした。
光を帯びた滴は、まるで宝石のように揺れる。
「血の一滴を置いていこう。
これが私の糧であり、私の残り火だ」
その声には、揺るぎない静かな決意がこもっていた。
小瓶を俺に渡すと、彼は外套を翻し、扉の前で一度だけ振り返った。
「料理人……ありがとう」
その一言を残し、月明かりの下で影となり、夜の闇に溶けた。
俺は瓶を棚の隅に置いた。
赤は月光を受けてかすかに輝き、まだ熱を宿しているようだった。
いずれ消えるのか、それとも――その時は来るのか。
翌朝、遠い空に白い靄が立ちのぼる。
誰も知らぬ城の奥で、確かにひとつの夜が終わったのだろう。
空を眺めていると薬草採りのおばあが通りがかった。
「字は下手だけど、いいこと書くねえ」
「下手でも、心は込めた」
「字はね、うまいと心が疑われることがあるのよ。下手のほうが沁みるときがある」
おばあは笑い、また歩いていった。
午前の風が看板を鳴らす。
短い影が石畳に揺れて、消える。
俺は竈の火を起こし、鍋の蓋を開けた。昨日の骨の出汁に、新しい水を継ぎ足す。
湯気の向こうに、文字がぼんやりと浮かんだ。
これは、呪いでも祝福でもない。
ただの文句だ。
だが、店の戸口に掲げる言葉は、ただの言葉であり続けることが難しい。
その文字に、客が、料理が、誰かの涙が、息が、熱が、次々と意味を重ねる。
文字は、だんだんと店そのものになっていく。
俺は店に戻り、竈を磨き、鍋に火を入れた。
厨房には、まだにんにくの香りが漂っていた。
その匂いは、失われつつある誰かの記憶を、わずかにここに留めていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回は「ゴブリンたちと大鍋カレー」。
仲間と分け合うごちそうの匂いが、食堂いっぱいに広がります。
また火を焚いてお待ちしています。




