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はじまりのお客様:スライムとオーク ―魔物歓迎の看板が立つまで―

かつて冒険者だった俺は、怪我で前線を退き辺境に食堂を開いた。

だが訪れるのは人間ではなく、冒険者に討たれる寸前の“魔物”たちだった。

スライムはゼリーを見て笑い、オークは肉に涙し、ドラゴンは「人間の料理を味わいたい」と願う。

敵だと思っていた魔物の小さな願いに触れ、俺は料理人として彼らを見送ることを決めた――。


※短編版を読んでくださった方は1~2話に既読感があると思いますが、連載版はより掘り下げています

※短編を読んでいない方もこの1話から楽しめます。

https://ncode.syosetu.com/n6646kz/



本日の仕込み:

・柑橘ゼリーひと皿

・塩漬けの肩肉

・薪を多めに

・東の森の岩塩


……初日から客が来るかどうかは分からない。



俺の食堂は、地図の端っこにある。

正直に言えば、畑もないし、隣家もない。あるのは折れた柵と、風に鳴る看板だけ。

看板には、誰もが二度見する一文が踊っている。


魔物歓迎。倒される前の晩餐、承ります。


こう書くようになったのは、足をやって冒険者を引退してからだ。剣を杖に替え、盾をフライパンに替えた。

最初は人間相手の安い食堂にするつもりだったのに、初日の客がスライムだったのが運の尽きだ。







昼下がり、扉が「からん」と鳴った。

入ってきたのは、掌ほどのスライム。

床をてしてし歩く姿が、洗い忘れのゼリーみたいで、思わず笑ってしまう。


「……お客さん、椅子には座れないよな」


スライムは返事の代わりに、ぷる、と一度弾んだ。

透明な身体の奥で、光がふっと揺れる。

俺はカウンターの上に小皿を置き、冷やしていた柑橘ゼリーを一口盛った。

細い皮を少し散らして香りを立てる。

スライムは皿のふちにぷちょんと乗り、じっとゼリーを見つめる。


「食べ……ないのか?」


ぷるぷる。

わずかに色が明るくなり、内側にきらめきが走る。

――ああ、こいつは“眺めて嬉しい”のだ。

自分に似たものを見て、安心するのだろう。人間の赤子が鏡を見て笑うのと同じだ。


「持ち帰るかい?」


スライムは、ぷしゅ、と小さな泡を一つ弾けさせると、

皿の縁に残った露を一滴すくい、床の埃をまとめて転がしてくれた。

食事代ってことらしい。


「ありがとな」



スライムはしばらくゼリーを眺めてから、満足したのか、ぷるんと身体を傾けて扉の隙間から出ていった。

残ったのは小皿の水の輪と、床に丸くまとまった埃だけ。

俺は布で輪を拭き取り、ついでに竈の火を整える。

炎は機嫌を損ねやすい。火口の向き、薪の乾き、鍋の重さで、すぐ気持ちを変える。


その日の売上はゼリー一口分の香りと、床掃除。

帳面に「ゼリー(見るだけ)」と書いて、値段の欄に横棒を引いた。

俺は笑って、看板に小さく「スライム割引あり」と書き足した。





店を出して二週間ほど、客はまばらだった。井戸水を汲みに来る旅人が、ついでに薄いスープを飲む。

森の中へ薬草採りに行くおばあが、腰を伸ばすために座って麦粥をゆっくり食べる。

たまに、若い冒険者が「安いから」と言って卵焼きを二人前も頼む。

そんな調子だ。


昼の間に、俺は仕込みをする。玉ねぎを刻む。涙が出る。

泣いていると誤解されるのは面倒だから、窓は少し曇らせておく。

豚肩を塩と胡椒と乾かした香草で揉んでおく。

脂身の縁に小さく切れ目を入れると、焼いたときに反らない。

大鍋では骨から出汁を引く。ごく弱い火で、表面の泡だけ静かにすくう。

こうして火と煙に囲まれていると、戦の匂いを思い出すことがある。

焦げた革、湿った鉄、乾きかけの血。

あの匂いを、俺はもう、料理の匂いで上書きしていくと決めた。


夕方、元パーティの斥候だったリーナが顔を出した。

猫みたいな目つきと、やたら広い耳が風の音をよく拾う女だ。


「よう、まだ生きてた?」

「店がある限り生きるさ」

「番犬は置かないの?」

「吠える代わりに、湯が沸く音がある」


リーナは笑って、窓越しに看板を眺めた。

板の木目が荒く、風に鳴るたび、薄い影が地面を渡る。


「……変わった場所に、変わった店」

「辺境ってのは、変わったものが自然になる場所だからな」


彼女は肩をすくめ、「また偵察の帰りに寄るよ」と軽く手を上げていった。

残った空気が少し軽くなる。

俺は塩をひとつまみ指先で砕き、乾いた鍋底に落として匂いを確かめた。

今日の塩は機嫌がいい。湿り気がちょうどいい。こういう日は、肉も野菜も素直に味を受ける。


夜が来る。星が増える。

そして、扉が重く開いた。





天井に届く肩。裂けた皮鎧。腕には新しい矢傷。

土間に大きな影が落ちた。


「……肉を、くれ」


声が低く、そして震えていた。

入ってきたのは、オークの親父だった。

歳は、俺とそう変わらないかもしれない。牙は太いが、目の皺の寄り方が人間のそれに似ていた。


俺は問わない。事情は、聞けば重くなる。

塩をふった肩肉を炭火にあて、脂が弾く音を聞く。にんにくを潰して、鉄板で香りを立てる。

鉄の音は、戦場のそれと違う。ここで鳴る音は、誰も傷つけない。


「焼き加減は?」


「……よく焼きで。血の匂いは、もう、いらん」


素直でいい。俺も、もう血の匂いは嫌だ。

肉を返すたび、焼き目が深くなっていく。脂が縁から落ち、火が喜ぶように小さく跳ねる。

焼ける音は、鼓動と似ている。速すぎても遅すぎてもいけない。ちょうどいいところで、手を止める。


皿に山のように盛ると、親父は手で掴み、むしゃむしゃと頬張った。

大粒の涙が、肉に落ちる。

脂で光る指先に、塩味の涙がひと粒、二粒。


「うめえ……。今まで、こんなにうめえ肉を食ったことは……なかった」


「そりゃ、たいていの場合、会った時には殴り合ってるからな」


親父は苦笑した。

表情が緩むと、顔つきが変わる。

恐ろしいか、哀しいか、うつろいの幅が人間と同じくらいあることに、あらためて気づく。


「峠の向こうの巣が、見つかった。人間の、若いのらしい」

「……そうか」

「逃げることもできる。だが、背負えねえやつが多すぎる。

 あいつらを置いて走るくらいなら、ここで腹いっぱい食って、逝きてえ」


淡々と言うが、言葉の端に、握り潰した泥のような重さがある。

俺は頷いて、鉄板の端で芋を少し潰し、塩を振って焼き目をつける。

肉だけでは胃が驚く。ふかした芋の甘さが、舌をなだめる。


「水を、くれ」

「井戸の、冷たいのがある」

「……ああ」


木のコップを両手で包み、オークはゆっくりと喉を鳴らした。

喉の太い筋が上下し、胸が静かに持ち上がって、下がる。

見ているだけで、不思議とこちらの呼吸も落ち着く。


皿はやがて空になった。

脂の名残を指でぬぐい、彼は深く息を吐いた。


「会計だ」


腰の革袋から金貨が二枚。

表面が擦れて、刻印の片側が薄い。


「前に奪ったやつだ。おめえに返す」


親父はそう言って、俺の手を両手で包んだ。

ごつごつした掌の熱が、炭火よりも重かった。


「……返す相手は、俺じゃないかもしれないが」

「奪った町の名も、顔も、もう覚えてねえ。覚えてねえから、せめて飯に替える」

「なら、受け取るよ。飯の代金として」


言葉にした瞬間、金の重みが変わる。

金というのは、そういうふうに姿を変えるから面白い。




帰り際、親父は扉の前で振り向いた。


「人間の坊主が、前に言ってたんだ。『いただきます』って。あれ、なんの呪文だ?」


「感謝の言葉さ。これから食べる命へ、作った人へ」


「……じゃあ、もう一回」


オークは空の皿に、ゆっくりと頭を下げた。


「いただきます」


扉が閉まると、外の夜気がいっそう冷たく感じられた。

俺はしばらく立ち尽くし、皿を重ね、布で拭いた。

皿の縁に残った指の跡が、月明かりで細く光る。誰かがしっかり生きて、しっかり食べた跡だ。





夜が深くなると、辺境の音がよく聞こえる。

遠くのフクロウ、土の中の虫が動く擦れ、乾いた草が互いにこすれる音。

こういう音を聞いていると、戦場の叫び声は、だんだんと遠い別の世界の音になる。


食堂にはもう誰の影もない。

子供用の小さな椅子は、もう客を待たないまま物置の隅で埃をかぶっている。

カウンターの下から、小さな工具の箱を取り出した。

釘、鑿、小さな刷毛、すり減った炭。

看板は、まだ空白が多い。店名の下に、何を書いてもいい、広い空き地がある。


最初に書いた文字は、震えていた。

人間相手の商売をやるつもりで、「安い/早い/腹いっぱい」と並べた。

けれど、今日の夜、皿に頭を下げたオークの背中を見て、俺は気づいた。

この店に必要なのは、別の言葉だ。


刷毛の先に、つぶした木炭を軽く含ませる。

板に近づけると、辺境の夜風が、すっと袖を引いた。


「……よし」


一文字目を置く。二文字目。

薄い音で、木が墨を飲む。

下手でもいい。丁寧に書けば、下手は味になる。


しばらく眺める。


「……いい。これでいい」


次に、細い字で残りを書き足す。


書き終えて、息を吐いた。胸の奥に、冷たい水を一杯飲んだような清涼が走る。

これは商売の文句であると同時に、俺自身への宣言だ。

俺はもう、剣を握らない。ここで火を守り、腹を空かせて来た者に温かいものを出す。

それしかできないが、それで充分だと、今は思える。


刷毛を洗い、竈の火を落とす。

灰をならし、鉄板に油を薄く塗っておく。

道具は生き物だ。眠る前にひと撫でしてやると、翌朝の機嫌がいい。


ふと、あの時のスライムを思い出す。

あいつにも読みやすい字で書けているといいのだが。

――たぶん読めなくても、看板に映る自分の姿を眺めて満足するのだろう。

それもまた、立派な客だ。


看板の板には、これまでの客たちの影が刻まれている気がした。

ぷるんと揺れたゼリーの光も、涙で濡れた肉の皿も。

どちらも確かに、この食堂に“生きて来た証”を残していったのだ。

ならば、この一文もまた、彼らと共に残るだろう。






《魔物歓迎。倒される前の晩餐、承ります》






(この店に看板が立った日の話は、ここでおしまい。

明日の夜、別の影が扉をふさぐ――その話はまた、次にしよう。)

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


短編として書いたものを、今回から連載として少しずつお届けしていきます。

魔物たちは人にとっては討伐の対象ですが、彼らにも最後に食べたいものがあります。

この食堂は、そんな“見送りの場”として生まれました。


次回はドラゴンと「オムライス」の物語です。


また腹をすかせて覗きに来てください。

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