はじまりのお客様:スライムとオーク ―魔物歓迎の看板が立つまで―
かつて冒険者だった俺は、怪我で前線を退き辺境に食堂を開いた。
だが訪れるのは人間ではなく、冒険者に討たれる寸前の“魔物”たちだった。
スライムはゼリーを見て笑い、オークは肉に涙し、ドラゴンは「人間の料理を味わいたい」と願う。
敵だと思っていた魔物の小さな願いに触れ、俺は料理人として彼らを見送ることを決めた――。
※短編版を読んでくださった方は1~2話に既読感があると思いますが、連載版はより掘り下げています
※短編を読んでいない方もこの1話から楽しめます。
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本日の仕込み:
・柑橘ゼリーひと皿
・塩漬けの肩肉
・薪を多めに
・東の森の岩塩
……初日から客が来るかどうかは分からない。
俺の食堂は、地図の端っこにある。
正直に言えば、畑もないし、隣家もない。あるのは折れた柵と、風に鳴る看板だけ。
看板には、誰もが二度見する一文が踊っている。
魔物歓迎。倒される前の晩餐、承ります。
こう書くようになったのは、足をやって冒険者を引退してからだ。剣を杖に替え、盾をフライパンに替えた。
最初は人間相手の安い食堂にするつもりだったのに、初日の客がスライムだったのが運の尽きだ。
⸻
昼下がり、扉が「からん」と鳴った。
入ってきたのは、掌ほどのスライム。
床をてしてし歩く姿が、洗い忘れのゼリーみたいで、思わず笑ってしまう。
「……お客さん、椅子には座れないよな」
スライムは返事の代わりに、ぷる、と一度弾んだ。
透明な身体の奥で、光がふっと揺れる。
俺はカウンターの上に小皿を置き、冷やしていた柑橘ゼリーを一口盛った。
細い皮を少し散らして香りを立てる。
スライムは皿のふちにぷちょんと乗り、じっとゼリーを見つめる。
「食べ……ないのか?」
ぷるぷる。
わずかに色が明るくなり、内側にきらめきが走る。
――ああ、こいつは“眺めて嬉しい”のだ。
自分に似たものを見て、安心するのだろう。人間の赤子が鏡を見て笑うのと同じだ。
「持ち帰るかい?」
スライムは、ぷしゅ、と小さな泡を一つ弾けさせると、
皿の縁に残った露を一滴すくい、床の埃をまとめて転がしてくれた。
食事代ってことらしい。
「ありがとな」
スライムはしばらくゼリーを眺めてから、満足したのか、ぷるんと身体を傾けて扉の隙間から出ていった。
残ったのは小皿の水の輪と、床に丸くまとまった埃だけ。
俺は布で輪を拭き取り、ついでに竈の火を整える。
炎は機嫌を損ねやすい。火口の向き、薪の乾き、鍋の重さで、すぐ気持ちを変える。
その日の売上はゼリー一口分の香りと、床掃除。
帳面に「ゼリー(見るだけ)」と書いて、値段の欄に横棒を引いた。
俺は笑って、看板に小さく「スライム割引あり」と書き足した。
⸻
店を出して二週間ほど、客はまばらだった。井戸水を汲みに来る旅人が、ついでに薄いスープを飲む。
森の中へ薬草採りに行くおばあが、腰を伸ばすために座って麦粥をゆっくり食べる。
たまに、若い冒険者が「安いから」と言って卵焼きを二人前も頼む。
そんな調子だ。
昼の間に、俺は仕込みをする。玉ねぎを刻む。涙が出る。
泣いていると誤解されるのは面倒だから、窓は少し曇らせておく。
豚肩を塩と胡椒と乾かした香草で揉んでおく。
脂身の縁に小さく切れ目を入れると、焼いたときに反らない。
大鍋では骨から出汁を引く。ごく弱い火で、表面の泡だけ静かにすくう。
こうして火と煙に囲まれていると、戦の匂いを思い出すことがある。
焦げた革、湿った鉄、乾きかけの血。
あの匂いを、俺はもう、料理の匂いで上書きしていくと決めた。
夕方、元パーティの斥候だったリーナが顔を出した。
猫みたいな目つきと、やたら広い耳が風の音をよく拾う女だ。
「よう、まだ生きてた?」
「店がある限り生きるさ」
「番犬は置かないの?」
「吠える代わりに、湯が沸く音がある」
リーナは笑って、窓越しに看板を眺めた。
板の木目が荒く、風に鳴るたび、薄い影が地面を渡る。
「……変わった場所に、変わった店」
「辺境ってのは、変わったものが自然になる場所だからな」
彼女は肩をすくめ、「また偵察の帰りに寄るよ」と軽く手を上げていった。
残った空気が少し軽くなる。
俺は塩をひとつまみ指先で砕き、乾いた鍋底に落として匂いを確かめた。
今日の塩は機嫌がいい。湿り気がちょうどいい。こういう日は、肉も野菜も素直に味を受ける。
夜が来る。星が増える。
そして、扉が重く開いた。
天井に届く肩。裂けた皮鎧。腕には新しい矢傷。
土間に大きな影が落ちた。
「……肉を、くれ」
声が低く、そして震えていた。
入ってきたのは、オークの親父だった。
歳は、俺とそう変わらないかもしれない。牙は太いが、目の皺の寄り方が人間のそれに似ていた。
俺は問わない。事情は、聞けば重くなる。
塩をふった肩肉を炭火にあて、脂が弾く音を聞く。にんにくを潰して、鉄板で香りを立てる。
鉄の音は、戦場のそれと違う。ここで鳴る音は、誰も傷つけない。
「焼き加減は?」
「……よく焼きで。血の匂いは、もう、いらん」
素直でいい。俺も、もう血の匂いは嫌だ。
肉を返すたび、焼き目が深くなっていく。脂が縁から落ち、火が喜ぶように小さく跳ねる。
焼ける音は、鼓動と似ている。速すぎても遅すぎてもいけない。ちょうどいいところで、手を止める。
皿に山のように盛ると、親父は手で掴み、むしゃむしゃと頬張った。
大粒の涙が、肉に落ちる。
脂で光る指先に、塩味の涙がひと粒、二粒。
「うめえ……。今まで、こんなにうめえ肉を食ったことは……なかった」
「そりゃ、たいていの場合、会った時には殴り合ってるからな」
親父は苦笑した。
表情が緩むと、顔つきが変わる。
恐ろしいか、哀しいか、うつろいの幅が人間と同じくらいあることに、あらためて気づく。
「峠の向こうの巣が、見つかった。人間の、若いのらしい」
「……そうか」
「逃げることもできる。だが、背負えねえやつが多すぎる。
あいつらを置いて走るくらいなら、ここで腹いっぱい食って、逝きてえ」
淡々と言うが、言葉の端に、握り潰した泥のような重さがある。
俺は頷いて、鉄板の端で芋を少し潰し、塩を振って焼き目をつける。
肉だけでは胃が驚く。ふかした芋の甘さが、舌をなだめる。
「水を、くれ」
「井戸の、冷たいのがある」
「……ああ」
木のコップを両手で包み、オークはゆっくりと喉を鳴らした。
喉の太い筋が上下し、胸が静かに持ち上がって、下がる。
見ているだけで、不思議とこちらの呼吸も落ち着く。
皿はやがて空になった。
脂の名残を指でぬぐい、彼は深く息を吐いた。
「会計だ」
腰の革袋から金貨が二枚。
表面が擦れて、刻印の片側が薄い。
「前に奪ったやつだ。おめえに返す」
親父はそう言って、俺の手を両手で包んだ。
ごつごつした掌の熱が、炭火よりも重かった。
「……返す相手は、俺じゃないかもしれないが」
「奪った町の名も、顔も、もう覚えてねえ。覚えてねえから、せめて飯に替える」
「なら、受け取るよ。飯の代金として」
言葉にした瞬間、金の重みが変わる。
金というのは、そういうふうに姿を変えるから面白い。
帰り際、親父は扉の前で振り向いた。
「人間の坊主が、前に言ってたんだ。『いただきます』って。あれ、なんの呪文だ?」
「感謝の言葉さ。これから食べる命へ、作った人へ」
「……じゃあ、もう一回」
オークは空の皿に、ゆっくりと頭を下げた。
「いただきます」
扉が閉まると、外の夜気がいっそう冷たく感じられた。
俺はしばらく立ち尽くし、皿を重ね、布で拭いた。
皿の縁に残った指の跡が、月明かりで細く光る。誰かがしっかり生きて、しっかり食べた跡だ。
夜が深くなると、辺境の音がよく聞こえる。
遠くのフクロウ、土の中の虫が動く擦れ、乾いた草が互いにこすれる音。
こういう音を聞いていると、戦場の叫び声は、だんだんと遠い別の世界の音になる。
食堂にはもう誰の影もない。
子供用の小さな椅子は、もう客を待たないまま物置の隅で埃をかぶっている。
カウンターの下から、小さな工具の箱を取り出した。
釘、鑿、小さな刷毛、すり減った炭。
看板は、まだ空白が多い。店名の下に、何を書いてもいい、広い空き地がある。
最初に書いた文字は、震えていた。
人間相手の商売をやるつもりで、「安い/早い/腹いっぱい」と並べた。
けれど、今日の夜、皿に頭を下げたオークの背中を見て、俺は気づいた。
この店に必要なのは、別の言葉だ。
刷毛の先に、つぶした木炭を軽く含ませる。
板に近づけると、辺境の夜風が、すっと袖を引いた。
「……よし」
一文字目を置く。二文字目。
薄い音で、木が墨を飲む。
下手でもいい。丁寧に書けば、下手は味になる。
しばらく眺める。
「……いい。これでいい」
次に、細い字で残りを書き足す。
書き終えて、息を吐いた。胸の奥に、冷たい水を一杯飲んだような清涼が走る。
これは商売の文句であると同時に、俺自身への宣言だ。
俺はもう、剣を握らない。ここで火を守り、腹を空かせて来た者に温かいものを出す。
それしかできないが、それで充分だと、今は思える。
刷毛を洗い、竈の火を落とす。
灰をならし、鉄板に油を薄く塗っておく。
道具は生き物だ。眠る前にひと撫でしてやると、翌朝の機嫌がいい。
ふと、あの時のスライムを思い出す。
あいつにも読みやすい字で書けているといいのだが。
――たぶん読めなくても、看板に映る自分の姿を眺めて満足するのだろう。
それもまた、立派な客だ。
看板の板には、これまでの客たちの影が刻まれている気がした。
ぷるんと揺れたゼリーの光も、涙で濡れた肉の皿も。
どちらも確かに、この食堂に“生きて来た証”を残していったのだ。
ならば、この一文もまた、彼らと共に残るだろう。
《魔物歓迎。倒される前の晩餐、承ります》
(この店に看板が立った日の話は、ここでおしまい。
明日の夜、別の影が扉をふさぐ――その話はまた、次にしよう。)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
短編として書いたものを、今回から連載として少しずつお届けしていきます。
魔物たちは人にとっては討伐の対象ですが、彼らにも最後に食べたいものがあります。
この食堂は、そんな“見送りの場”として生まれました。
次回はドラゴンと「オムライス」の物語です。
また腹をすかせて覗きに来てください。




