同時攻撃
1939年7月17日午後12時。大日本帝国は武漢と西安に対して同時に、全面攻撃を開始した。中華民国は遂に大日本帝国の降伏勧告を黙殺したのである。それは蒋介石首席で決断と、中華民国軍首脳陣の半ば諦めにも似た判断によるものだった。だがこれにより武漢と西安は大規模な攻撃を受ける事になった。西安には第3方面軍と第4方面軍を一時的に統合した司令官松井石根大将率いる北中派遣軍が、武漢には上海上陸作戦以後第2方面軍全てを派遣した司令官畑俊六大将率いる上海派遣軍が攻撃を開始した。
第7方面軍を主力とする司令官小磯国昭大将率いる南中派遣軍は、中華民国が首都を遷都させた重慶に接近を続けていた。かつて日清戦争に於いて中華民国の旧体制である清国は、坂本龍馬総理の降伏勧告を受け入れる事で日清戦争は終結を迎える事になった。
だが後継者たる中華民国は黒崎総理の降伏勧告を黙殺するという愚を犯し、大日本帝国は一種の殲滅戦を開始したのであった。それは徹底的なものだった。包囲を続ける大日本帝国陸軍は、この為に備蓄した砲弾を大量に消費する事になった。摩耗による交換を前提とした、砲身も用意されており準備万全だった。
摩耗による交換用砲身を用意するのは大日本帝国陸軍だけであり、物量を重視するアメリカ合衆国でもそこまではしていなかった。その圧倒的な砲撃は中華民国の覚悟を打ち砕く程であり、そこに更に大日本帝国空軍の爆撃まで開始された。比喩では無く文字通り空を埋め尽くす数の、九七式戦術爆撃機と九七式戦略爆撃機が飛来し大量の爆弾を投下した。
既に大日本帝国は新型爆撃機の開発が大規模に行われており、九七式戦術爆撃機と九七式戦略爆撃機の退役は確定されているが未だに新型爆撃機は開発中であり、存在感を誇示するように爆撃を行っていた。
それは徹底しており大日本帝国は容赦無い攻撃を行った。唯一の救いは香港の時と同じくと民間人は避難しており、軍人や建造物の被害で済んでいた点だった。そして数時間にも及ぶ爆撃と砲撃により西安と武漢は、煙と舞い上がる土埃に包まれた。そこに今までに大日本帝国が捕虜にした、中華民国軍将兵達が降伏を呼び掛けた。
それは当然ながら攻撃している大日本帝国陸軍の北中派遣軍と上海派遣軍が、中華民国軍捕虜に対して行わせたものだった。捕虜達は一様に大日本帝国はジュネーブ条約を遵守しており、捕虜の待遇は保証されており寧ろ中華民国軍時代よりも待遇は良いとさえ語った。
そしてその呼び掛けが伝わり、生き延びていた中華民国軍将兵は大日本帝国に降伏した。こうして武漢と西安は大日本帝国が占領する事になったのである。




