中華民国の迷走
1939年7月6日、中華民国首都重慶。そこは臨時に遷都された首都であった。大日本帝国に大規模な軍事侵攻を開始した中華民国であったが、成功したのは侵攻の序盤だけだった。その後に大日本帝国海軍連合艦隊による、圧倒的な戦略艦砲射撃により侵攻していた陸軍は壊滅的打撃を受けたのである。
その惨状は凄まじくその瞬間に攻守逆転し、大日本帝国による大規模軍事侵攻を受ける事になった。首都北京は陥落し紙一重で政府と軍部首脳陣は重慶に脱出したが、中華民国がズタボロに敗北しているのは紛れも無い事実だった。上海に上陸され、昆明は陥落し、香港は文字通り消滅した。目を覆いたくなる程の負けっぷりだった。
そんな状況で重慶では政府と軍部首脳陣による緊急の対策会議が開催された。蒋介石首席は焦っていた。第二神聖ローマ帝国からの海路での輸送ルートは塞がれ、シベリア鉄道のモンゴルルートも断たれていた。
開戦前に入手した装備や燃料・弾薬は既に使い尽くし、中華民国軍は深刻な物資の欠乏に陥っていた。戦争遂行に必要不可欠な物資が欠乏しており、そもそも論として前線部隊は戦う事そのものが難しくなっていた。重砲等の砲撃ではそれは顕著であり、中華民国陸軍は砲弾を1発1発慎重に砲撃していたが、大日本帝国陸軍は砲兵連隊や自走砲旅団単位で砲身交換が必要な程に苛烈な砲撃を加えて来ていた。
その圧倒的な砲撃差を中華民国陸軍兵士達は『お釣りを貰う』と揶揄した。何せ1発砲撃すれば最低でも20発は撃ち返される状態だったのだ。これは偏に大日本帝国陸軍の圧倒的な砲撃能力を見せ付けると共に、そもそもの砲撃戦を重視するドクトリンによるものだった。
蒋介石首席には奇譚なき意見が発せられた。そもそもの世界枢軸同盟加盟と、それによる大日本帝国への宣戦布告が間違いだったのでは無いか、というものだった。それは軍部首脳陣でさえ頷いている事から、戦略の重要な過ちだとされた。実は蒋介石首席自身も、それは思い始めていたのである。そして率直に謝罪を行った。
だがもはや事態は深刻であり、大日本帝国は攻撃の手を緩めない事から絶望的ではあるが、最後まで戦い続けるしか無い、そう断言したのだ。その言葉に空気は重くなった。しかし戦い続けるしか無いのは事実であり、結局は自分達の気合いを入れ直し大日本帝国に立ち向かうのであった。




