ロシア帝国の決意
1939年6月22日、ロシア帝国は必死の防衛戦を展開していた。6月1日のロシア平原会戦に敗北し、防衛線が崩壊すると第二神聖ローマ帝国軍の侵攻は、更に激しいものになった。ウクライナ地方は占領され、サンクトペテルブルクにも第二神聖ローマ帝国軍が近付いている事から、皇帝ニコライ3世以下政府首脳陣や軍部そして多数の民間人はモスクワに避難し帝都を明け渡す事になってしまった。
第二神聖ローマ帝国軍のサンクトペテルブルク突入直前に皇帝ニコライ3世は、ロシア帝国の帝都をサンクトペテルブルクからモスクワに遷都させると宣言したが、それはある意味で形式的なものでしかなかった。だがこれにより『帝都陥落』では無く『都市陥落』という事で、事態は済ます事にされた。
とはいえロシア帝国が劣勢なのは、事実でありロシア帝国軍総司令部では連日連夜対策会議が開かれていた。ロシア帝国軍最高総司令官のミハイルトゥハチェフスキー陸軍元帥は、皇帝ニコライ3世の列席のもとに対策を協議していた。
事態は深刻ながら、大日本帝国の大規模軍事援助に全員が感謝していた。この援助があるからこそ現在進行形で、第二神聖ローマ帝国の侵攻に対抗出来ているのだ。シベリア鉄道と空輸により汎ゆる武器・兵器・燃料・弾薬・食料・補修機材が、ロシア帝国に大量に送り込まれていた。更にそれは増える事はあれども、減る事は無かったのである。
その為にロシア帝国は戦え続けていたが、戦況事態は悪化し続けていた。サンクトペテルブルクからモスクワに遷都させるという小細工により、帝都陥落はギリギリで回避したが侵攻は食い止められていなかった。既にモスクワ郊外に80センチ列車砲の砲撃が降り注ぐのは、日常となっていたのである。
前線では血みどろの戦いが続いており、スタフカは対策を迫られていた。陸軍参謀総長ゲオルギージューコフ陸軍元帥は前線指揮から離れ、全力で予備役召集と国家の生存をかけた、なりふり構わぬ極限の総動員を開始した。
第二神聖ローマ帝国軍が侵攻を開始してから、ロシア帝国は即座に総動員令を発令した。その初動は凄まじく僅か1週間で500万人以上が召集された。徴兵対象年齢層は当初は10代後半から30代が中心とされ、何としても第二神聖ローマ帝国の侵攻を防ぐ事が優先された。
とにかく兵力を確保する事が最優先事項とされ、それを可能とするだけの汎ゆる武器・兵器・燃料・弾薬・食料・補修機材が大日本帝国から送り続けられていたのだ。何とかして侵攻を食い止めるだけの兵力を確保し、それから反撃を開始する計画だった。
そんな中で日常となっていた80センチ列車砲の砲撃が突如として止んだのである。




