香港消滅
1939年6月18日、大日本帝国海軍連合艦隊により香港への戦略艦砲射撃が開始された。香港は1841年1月26日から大英帝国統治下にあった。帝国主義全盛期であり大英帝国は最終的には条約まで調印して、99ヶ年の割譲という事にまで成功していた。そんな土地柄であり中華民国が1939年3月1日に、大日本帝国の満州府と山東県に侵攻を開始したが、その数日後に香港にも侵攻を開始していたのである。世界情勢的(作者的)には忘れられたような突然の侵攻であり、香港は中華民国の人海戦術に呑み込まれてしまっていた。
そんな香港に対して大日本帝国黒崎妖華総理は奪還でも解放でも無く、海軍連合艦隊による戦略艦砲射撃による殲滅戦を決定したのである。だが中華民国が占領したとはいえ長年大英帝国の支配下にあった香港であり、そこには大英帝国の不動産資産が大量にあるのも事実だった。民間人は中華民国の侵攻が始まりそうな気配がしている段階から、大日本帝国の台湾府や海南道に海路で避難しており最終的には中華民国の侵攻が開始されてから香港総督も、海路で台湾府に脱出しており民間人は香港から避難出来ていた。
その為に民間人の被害を考慮する必要が無いとの事から、香港への戦略艦砲射撃は簡単に決定したのである。しかしそうなると大英帝国の香港にある不動産資産が消滅する事になる為に、黒崎総理は松岡洋右外務大臣を伴い大英帝国駐日大使館を訪れたのである。そこで黒崎総理は大英帝国駐日大使に作戦を説明し、大英帝国に作戦の賛同を求めた。
内容を聞いた大英帝国駐日大使はその極端な作戦に驚愕した。何せ全土を占領されたとはいえ不動産資産も含めて、全てを戦略艦砲射撃で消滅させるというのだ。通常なら荒唐無稽と唾棄されそうだが、実行するのが大日本帝国海軍連合艦隊ならそれは容易に実行可能だった。何せ幕府海軍の頃から艦砲射撃は御家芸であり、中華民国が侵攻した当初の人海戦術を食い止めたのも戦略艦砲射撃であった。
その為に作戦そのものの実行可能性よりも、内容が検討すべきものだった。事が事だけに大英帝国駐日大使は本国に確認すると語り、黒崎総理は当然だとして何時までも待つとして大英帝国駐日大使は退出した。外交暗号により検討された結果、最終的にはチャーチル首相直々の了承により作戦は了承される事になった。
決めては黒崎総理からの、中華民国を早期に降す事により大英帝国救援も可能になる、との意見だった。黒崎総理以下大日本帝国政府の統一見解として、大英帝国救援は時期尚早であり中華民国を降したとしても、太平洋を挟んでアメリカ合衆国が存在する為にヨーロッパ遠征は完全に未定の話だった。
だが大英帝国に希望を持たせる事により、作戦を了承させようという黒崎総理の思惑であったのだ。海千山千の老獪なチャーチル首相は通常なら黒崎総理に、ヨーロッパ遠征の言質をとった筈である。だが第二神聖ローマ帝国による海上封鎖で孤立している現状での、黒崎総理からの話は藁にも縋る思いで飛び付いたのだ。
こうして大英帝国の了承を得た為に戦略艦砲射撃は実行される事になり1939年6月18日、大日本帝国海軍連合艦隊により香港への戦略艦砲射撃が開始されたのであった。




