戦争特需
1939年5月5日、上海上陸作戦の成功を受けて陸軍の更なる増援が輸送される中、大日本帝国は史上稀に見る戦争特需に沸いていた。1939年2月25日世界枢軸同盟は連合国に対して全面的に宣戦布告を行い、世界規模での同時多発侵攻を開始し世にいう『第二次世界大戦』が勃発したが、それ以後大日本帝国は戦時体制に突入し『連合国の兵器廠』として大規模な軍事援助を開始した。
そしてそれは大日本帝国の軍需企業にとっては空前絶後の受注となった。軍需企業のみならず民間企業も戦争遂行に協力し、自動車企業は戦車・装甲車・軍用トラックを量産し、造船企業は戦時標準船の量産を開始した。電子機器企業は無線通信機やレーダーの量産を行い、汎ゆる企業が国防省軍需庁の指導により戦争遂行に協力したのである。
もちろんある程度は民需品は生産されたが、それは第二次世界大戦前の20%という極端な数字に抑制され、大日本帝国の巨大な生産力は大多数が軍需に投入されたのだ。それは民需品の『抑制』となり軍需が優先されたが、生活物資(食料や衣料品など)は国内で調達できたため、極端な飢餓や物資不足には陥らなかったのである。民間企業は自動車や冷蔵庫などの生産を制限されたが、これは『生産能力がない』のではなく、『軍需のために生産を止めていた』という状態だった。
そしてその戦争特需は国民所得の増大と『強制貯蓄』をもたらした。軍需企業や民間企業汎ゆる企業は戦争特需により人手不足であり、大日本帝国での失業率はほぼゼロになり人手を集める為に賃金も高く設定した事から、国民の賃金と所得が大幅に増加したのである。だが購買力の温存というか民需が抑制されており労働者が手に入れた高収入は、民間消費財(自動車、家電、住宅など)の生産が停止されていた為に、使う場所が限られていた。これにより国民は『戦時貯蓄』という形で資金を貯め込むことを事実上強制されたのである。
これは戦後の内需爆発の土台となりこの時の巨額の戦時貯蓄(温存された購買力)が、終戦後すぐに住宅建設や自動車購入などの消費に一気に放出され、戦後の内需の爆発と長期的な好景気の土台となった。そして更にはインフレの抑制にも成功したのである。ある種統制の成功で戦費のほとんどを無責任な通貨増発(日銀引き受け)で賄うことは避け、増税と国債の国民への販売で賄う事が出来それは結果として物価統制も相まって、戦時中のインフレは他の主要国ほど激しくならず、通貨の信頼が保たれた。
これにより大日本帝国は戦争中『モノは買えないが、お金は貯まる』という特殊な需要抑制の状態にあったため、戦後の内需経済再起動の準備が最も整っていたのである。
話が逸れたが大日本帝国はこの戦争特需の関連により総戦費の約60%を借入(国債)、約40%を税収で賄う事が可能になった。まず1つ目は国債(戦時貯蓄債券)の国民への販売だった。戦費調達の最大柱であったが、その調達方法には複数あった。まずは国民の貯蓄の活用である。大日本帝国政府は[戦時貯蓄債券]を大々的に宣伝し、国民や企業に購入を強く奨励したのである。これにより国民に強制した、戦時貯蓄を市場から吸い上げて戦費に充てたのである。
そして戦争特需に沸く軍需企業や民間企業の高収益により税収は拡大し、戦費として活用する事が可能になったのである。これにより第二次世界大戦の間は国民に消費を抑制させ、大日本帝国は戦費を確保し戦争を遂行したのであった。




