上海上陸作戦
1939年5月2日、大日本帝国は陸海空軍共同による上海上陸作戦を開始した。元々上海には大英帝国とアメリカ合衆国の『英米租界』、フランス共和国による『フランス租界』があったが、1935年に大日本帝国主導で租界の中華民国への返還が行われた。これは大日本帝国が中華民国への友好関係向上、大英帝国とフランス共和国には負担軽減による第二神聖ローマ帝国への警戒を注力する事、アメリカ合衆国には単純なる嫌がらせ、等々を目的に実行された。
アメリカ合衆国は猛烈な反対をしたが、この時点で大日本帝国に対抗するのは時期尚早であり、エメラルダ大統領は渋々受け入れたのである。しかし結果的に中華民国は世界枢軸同盟に加盟し、アメリカ合衆国とも戦争状態となり今となっては成功かどうかは判断が分かれている。
だがその上海に対して大日本帝国は陸海空軍による大規模な兵力を投入しての、上陸作戦を敢行する事を決定したのだ。それは現状でも大日本帝国陸軍は満州府と山東県・インドシナ府に、それぞれの方面軍師団を集結させ一斉に中華民国に侵攻しており、そこに上海上陸作戦を行い4方面からの多方面侵攻で中華民国を更に混乱状態にしようというものであった。
その為に皇軍統合作戦司令本部では作戦会議が頻繁に行われ、結実したのが上海上陸作戦だった。何せ大日本帝国海軍連合艦隊は第1艦隊〜第4艦隊と第6艦隊・第11艦隊・第12艦隊を投入し、上海に対して戦略艦砲射撃を敢行した。この時点では世界最大最強の艦砲射撃であり、圧倒的な火力投射量を誇った。そこに空母艦載機と大日本帝国空軍航空総隊の朝鮮道・満州府・沿海州の第3航空方面隊と台湾府・海南道・遼東県・山東県の第4航空方面隊に加えてボルネオ県・インドシナ府・ディエゴガルシア県の第7航空方面隊の合計30個航空群による、大規模空襲が敢行されたのである。
戦略艦砲射撃に加えて空を埋め尽くす数の航空機による大規模空襲により、沿岸部や市街地の区別無く破壊し尽くされた。そしてそこに大日本帝国陸軍総軍は西日本の第2方面軍から5個師団を選抜し、畑俊六大将を司令官とする『上海派遣軍』として上海上陸作戦に投入した。その上海派遣軍は大日本帝国海軍の上陸用舟艇母艦と機動揚陸艦に分乗され、それらは揚陸作戦艦隊に護衛され上海上陸作戦を実行したのである。
揚陸作戦艦隊には上陸用舟艇母艦と機動揚陸艦が配備されており、上陸用舟艇母艦は大発動艇を30隻搭載し船尾ハッチより発進させて兵員を上陸させるのである。事実上の世界初のドック型揚陸艦と呼ばれる先進性があり、更に搭載する大発動艇も先進性があった。
海岸に安定して着底するとともに、容易に離岸できるよう、船首の船底はW字状に、その後ろの船底は平面に成形されていた。また船体後部には小型の錨と巻き上げ機(揚錨機)が装備されている。これは着岸の直前に錨を投げ込んで海底に固着させておき、離岸の際に巻き上げ機を操作すれば錨を引っ張る反力で船体を後退させることができ、迅速に離岸できるようにした機構であったのである。
そして機動揚陸艦は海岸に直接乗り上げて船首の渡し板から戦車などを上陸させる、ビーチング方式の戦車揚陸艦の一種にあたる艦艇だった。これにより戦車や軍用トラック等の車輌を海岸に一気に揚陸させる事が可能であった。これらの揚陸専門艦艇を大量に配備し専門に運用するのは、世界でも大日本帝国のみであり唯一無二の能力であった。
その為に迎え撃つ中華民国軍は驚愕し、あまりの能力差に沿岸部での防衛を諦め内陸部へ後退していった。これにより大日本帝国は上海上陸作戦を成功させ、盤石な橋頭堡を確保したのであった。




