大規模侵攻
1939年4月25日大日本帝国は第二次世界大戦における最初の攻勢作戦として、中華民国侵攻を開始した。それはある意味で味方だと思っていた中華民国の裏切りに対する、徹底的な粛清も意味していた。何せ大日本帝国にとっては予想外の戦場となった地域を舞台に、戦いを行わざるを得なかった。だが大日本帝国にしても近隣の中華民国とばかり戦っていては、いつまで経ってもアメリカ合衆国やヨーロッパの第二神聖ローマ帝国と本格的に戦う事が出来なかった。
その為に中華民国との戦いは1日でも早く終わらせる事が重要だった。開戦後に中華民国の侵攻を阻止してからは、大日本帝国は動員体制の強化、中華民国は戦力の再編を行う為にお互いに大規模な作戦は行っていなかった。大日本帝国はその動員体制を完了し皇軍統合作戦司令本部での作戦会議を経て、約2ヶ月後に実行された作戦である為に投入兵力は大規模なものであった。大日本帝国海軍連合艦隊第1艦隊〜第6艦隊と第11艦隊・第12艦隊を投入、大日本帝国陸軍総軍は朝鮮道・満州府・沿海州の第3方面軍と台湾府・海南道・遼東県・山東県の第4方面軍に加えてボルネオ県・インドシナ府・ディエゴガルシア県の第7方面軍の合計35個師団を投入、大日本帝国空軍航空総隊は朝鮮道・満州府・沿海州の第3航空方面隊と台湾府・海南道・遼東県・山東県の第4航空方面隊に加えてボルネオ県・インドシナ府・ディエゴガルシア県の第7航空方面隊の合計30個航空群を投入した。
大日本帝国海軍連合艦隊は中華民国沿岸部全てに展開し戦略艦砲射撃と空母艦載機による空襲を敢行した。沿岸部のありとあらゆる構造物は戦略艦砲射撃により灰燼に帰し、空母艦載機による空襲も航続距離の範囲内ながら内陸部にも及んだ。そして大日本帝国陸軍は満州府と山東県・インドシナ府に、それぞれの方面軍師団を集結させ一斉に中華民国に侵攻した。
それを大日本帝国海軍連合艦隊と大日本帝国空軍航空群が支援を行った。大日本帝国空軍は第3・4・7の各航空方面隊を投入し、中華民国に対しての空襲を開始した。九七式戦術爆撃機は大日本帝国陸軍の侵攻を支援し、九七式戦略爆撃機は中華民国内陸部に侵入し戦略爆撃を行い首都北京は猛烈な爆撃が加えられた。この大日本帝国の壮絶なる攻撃に、中華民国は全く対応出来なかった。何せ約2ヶ月前の侵攻時に大日本帝国海軍連合艦隊の戦略艦砲射撃と空母艦載機による空襲で、約75万人の死傷者を出しておりその為の戦力再編が未だに完了していなかった。
頼みの第二神聖ローマ帝国からの軍事援助も開戦により大日本帝国が、中華民国へのルートを全て封鎖した事から不可能になっていた。何せ海上は大日本帝国海軍連合艦隊と潜水艦隊・領海警備戦隊により封鎖され、陸路は周辺が大日本帝国領を筆頭に連合国側や連合国寄りの国々ばかりである為に不可能だった。唯一中央アジアを車輌輸送すれば可能性は僅かにはあったが、超長距離を車輌輸送するのは効率的に非常に悪くコスト的にも不可能だった。
その為に中華民国は意気揚々と世界枢軸同盟に加入したが、現状では単独で大日本帝国と戦争するしかなかったのである。そんな中での大日本帝国による侵攻作戦は中華民国の想像以上のものであり、被害は拡大するばかりであった。




