老兵の遺志
1801年、江戸の田沼意次邸。秋の冷気が障子を抜け、病の床に伏す老中の部屋を満たしていた。田沼意次、82歳。1719年生まれの彼は、この時代では類まれな長寿だった。避けられぬ老いに覆われた顔には、なおも燃えるような意志を宿していた。長崎の港に響く蒸気船の汽笛、江戸の街を走る鉄道の轟音――28年間の開国改革が、日ノ本を列強に並ぶ国へと変えた。だが、田沼の胸には、なお危機感が宿っていた。「日ノ本を存続させる。」その唯一無二の決意が、彼を突き動かし、病魔にも抗わせていた。
1800年の後半、田沼は最後の大業を成し遂げた。プロイセン王国とロシア帝国との国交樹立。オランダ、イギリス、フランス、アメリカに続き、西洋列強の主要国全てと幕府は手を結んだ。長崎の出島には各国の船がひしめき、江戸の大使館には外交官と大使が駐在し、各国の大使館では御庭番が暗躍した。田沼の先見性は、欧州の動乱――フランス革命の余波やプロイセンの台頭――を情報として掴み、日ノ本を世界の舞台に押し上げた。幕府の税収は開国前の10倍に膨れ上がり、貨幣経済は天下に金を回した。地方の藩も、幕府の公共工事――街道の石畳、河川の堤防、都市内鉄道――により、民衆の暮らしが安定。飢饉の影は薄れ、市場は活況を呈した。
軍事力もまた、幕府の誇りだった。寛政の改革で編成された常備軍は、徳川家康の時代を凌ぐ強さを誇った。幕府陸軍は、マスケット銃部隊を中核に、フランス・イギリス式の戦術で鍛え上げられた。長崎の造船所では、蒸気船が主力艦として波を切り、堂々たる威容を見せた。幕府海軍は、列強の海軍に匹敵する力を蓄えつつあった。田沼の夢――日ノ本を列強の脅威から守る鉄の盾――は、現実のものとなっていた。
だが、田沼の身体は限界を迎えていた。1801年11月7日、薄暗い部屋で、彼は静かに目を閉じた。側に控える使用人が耳を寄せると、田沼はただ一言、呟いた。「後は任せた」。その声は微かだったが、28年間の改革を貫いた決意を宿していた。息絶えた瞬間、部屋に重い静寂が落ちた。日ノ本の歴史を動かした老兵は、ついに退場したのである。
田沼意次の死去の報は、江戸から長崎、薩摩から蝦夷まで、日ノ本全土を駆け巡った。民衆は市場で、武士は藩邸で、商人たちは港でその死を悼んだ。将軍・徳川家斉は自ら葬儀を執り行うと宣言した。「田沼意次は幕府の更なる礎を築いた。国を挙げてその志を讃えよう」。江戸城の大広間は、盛大な葬送の場と化した。畳の上に設けられた祭壇には、田沼の遺影と開国の象徴――オランダ船の模型が置かれた。家斉は黒の裃に身を包み、静かに香を焚いた。
葬儀には、各藩の大名やその代理が参列した。薩摩の使者は複雑な表情を浮かべ、長州の代理は尊皇の志を胸に秘めながら列席した。オランダ、イギリス、フランス、アメリカ、プロイセン、ロシアの大使も、各国の礼装で参列した。長崎のオランダ商人は「田沼は我々の恩人」と語り、フランス大使は「彼の先見性は欧州にも響く」と弔辞を述べた。朝廷からも、京都所司代を通じて弔慰の使者が遣わされた。白菊の花が祭壇を飾り、江戸の空に秋の風が吹き抜けた。
田沼の遺志は、幕府に深く根付いていた。経済力は列強に匹敵し、陸軍と海軍は日ノ本の盾となった。だが、繁栄の影には試練が潜む。地方の藩、特に薩摩と長州では、経済格差への不満が尊皇攘夷の火を灯していた。幕府の金と鉄が地方に届かぬまま、志士たちは密かに動き始めていた。家斉は祭壇を見据え、呟いた。「意次、そなたの夢は生き続ける。だが、日ノ本の未来は我々が守る」
葬儀の終わり、港では、幕府海軍の蒸気船が汽笛を鳴らした。波を切り、遠く太平洋を見据えた。田沼意次の死は、一つの時代の終わりだった。だが、その遺志は、鉄と海の帝国――やがて来る明治維新と八八艦隊の胎動を、確かに刻み込んでいた。




