第二次世界大戦前夜
第一次世界大戦は大日本帝国の一人勝ちだった。ジュネーブ講和条約とジュネーブ覚書で、大日本帝国の領土は約1020万km²に、人口は約1億5000万人に拡大した。拡大した領土の南洋諸島(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)とグアム島・ミッドウェー島は、纏めて『南洋府』に、大英帝国領北ボルネオと保護国サラワク王国は『ボルネオ県』に、ディエゴガルシア島は『ディエゴガルシア県』に、フランス共和国領インドシナは『インドシナ府』に、クレタ島は『クレタ県』として大日本帝国に併合された。そしてジュネーブ講和条約による賠償金102億円の活用方法として桜庭総理大臣は1918年10月3日『第三次経済成長五カ年計画』と『第三次軍備拡張三カ年計画』を帝国議会に提出した。世界はようやく享受した平和を満喫する筈であった。所謂『ジュネーブ体制』と呼ばれる戦後秩序となり、大日本帝国の主導した平和が訪れる筈だった。
だがそれは1919年に早くも、崩壊した。1919年2月3日オーストリア=ハンガリー帝国がアンシュルスによりドイツ帝国に併合されたのである。アンシュルスは第一次世界大戦敗北直後からドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国で構想が出ていたが、大日本帝国はジュネーブ講和会議の時にそれは実行しないように『進言』していた。大英帝国とフランス共和国もその進言に賛同した。日英仏三カ国にとっては荒唐無稽な構想だった為に、進言によりさっさと処理したのである。
だが構想は実現したのだ。しかも1919年10月9日にはブルガリア王国もドイツ帝国に併合され、更にドイツ帝国は1919年11月1日に『第二神聖ローマ帝国』の建国を宣言したのである。そしてドイツ帝国皇帝であったヴィルヘルム2世は、新時代を皇太子に任せると言い自らは退位し、皇太子のヴィルヘルムが『ヴィルヘルム3世』として第二神聖ローマ帝国皇帝に即位した。そして第二神聖ローマ帝国は建国早々にジュネーブ講和条約を無視すると宣言し、自国内での経済復興を加速させたのである。
それが将来的な軍拡を招くのは目に見えていた。そこで大日本帝国の呼び掛けにより、大日本帝国・大英帝国・フランス共和国・ロシア帝国・イタリア王国・オスマン帝国による協議が行われた。その協議で大日本帝国以外は第一次世界大戦による疲弊により、第二神聖ローマ帝国の行動を黙認する事を提案した。特に大英帝国とフランス共和国はジュネーブ講和会議での件もあり、一時的に国内世論では反日感情が高まった事も一因だった。
だが大日本帝国としては第二神聖ローマ帝国の行動は看過できないとしたが、そこにアメリカ合衆国もジュネーブ講和条約を無視するとの宣言が飛び込んで来たのである。
これによりますます大日本帝国以外の国々は黙認に傾いた。大日本帝国としても看過できないのは確かだが、連合国側が経済復興していないのも事実でありしかも最悪の場合、大日本帝国単独で第二神聖ローマ帝国とアメリカ合衆国との戦争になる可能性もあった。こうして協議では全会一致で
第二神聖ローマ帝国とアメリカ合衆国の行動を黙認する事が決定された。
このようにしてジュネーブ体制は1年も保たずに崩壊し、両陣営による軍拡競争が行われる事になった。
大日本帝国は連合国の協議終了後の1919年12月15日に、桜庭総理大臣がジュネーブ体制崩壊の責任をとって辞任した。そして大命降下により高橋是清が総理大臣に就任し、組閣を行った。財政家の高橋是清が総理大臣に選ばれたのは、軍拡競争の前に何としても大日本帝国経済を更に発展させる必要があったからだ。この点が後世の歴史学者が一致して称賛する点だが、大日本帝国は常に経済力という体力を強化してから、軍事力という筋肉を強化した点である。これにより正面戦力だけで無く、後方支援補給兵站線の確保が万全に整った精強な軍隊が形成されたのである。
高橋総理大臣は桜庭総理大臣の提出した『第三次経済成長五カ年計画』と『第三次軍備拡張三カ年計画』を修正し、『第三次経済成長五カ年計画』に重きをおいた。『第三次軍備拡張三カ年計画』は新たに併合した地域に対して、陸軍は方面軍と砲兵工廠新設、海軍は鎮守府と工廠燃料廠の新設だけを行う事にした。そして『第三次経済成長五カ年計画』に於いて内需経済拡大を推し進める事にし、大日本帝国全土での社会インフラ整備が強力に進められた。
高架化した自動車用高速道路と、同じく高架化した都市間高速鉄道の建設が開始された。この2つは約1020万km²という大日本帝国の広大な領土の大動脈として、主要都市部を通して建設される事になった。技術力の限界により海峡は輸送船により繋ぐ事になったが、この時点で将来的な海底トンネルの建設が決定されていた。
大規模な建設であり、更には主要都市部での更なる摩天楼の建設と電化の普及が推し進められ、工場や家庭での効率化が図られた。その電化による電力不足にも先手を打ち、大規模火力発電所と大規模ダムによる水力発電所が建設された。
そして没収した特許や各財閥の技術開発により、ラジオ・電気冷蔵庫・電気洗濯機・電気掃除機が大量生産され、一般家庭に普及したのもこの時だった。大日本帝国は併合した地域を良くも悪くも、差別無く同列に扱った為に社会インフラ整備や電化製品の普及は全く同じタイミングで行われた。
しかも高架化した高速道路と、都市部や地方全域でのアスファルト化による道路整備と、爆発的なモータリゼーションにより経済波及効果は分け隔て無く行われた。これにより経済格差を出来る限り小さくした、『大日本帝国型資本主義』とも呼ばれる経済を産み出す事になった。一部歴史学者が世界的に普及せずそして成功しなかった社会主義が、大日本帝国こそ成し遂げていると語る程の国になっていたのである。
このようにして大日本帝国は『第三次経済成長五カ年計画』を成し遂げた1923年に、直ぐ様『第四次経済成長五カ年計画』を策定し実行した。だがそれは同年9月1日に発生した『関東大震災』により震災復興計画に置き換えられた。関東大震災は大日本帝国史上最大最悪の自然災害だった。帝都圏830万人が被災し、35万9000人あまりが死亡あるいは行方不明になったと推定されており、犠牲者の殆どは帝都東京都と神奈川県が占めていたのである。
これ程までに甚大な被害になったのは、何と言っても摩天楼の建設が影響していた。幕末辺りから始まり明治維新以後急速に、大日本帝国は木造建築から鉄筋コンクリート建築に代わっていた。そして摩天楼建設は鉄筋コンクリート建築の最高峰といわれ、大日本帝国の経済成長に合わせて帝都東京都や大阪府等の大都市部では100メートルを超える高層ビルは当然であり、300メートルを超える高層ビルが建設され関東大震災発生時には455メートルの『帝都最高峰ビル』が建設中だった。
だが問題は耐震補強が明確化されておらず、施工業者に一任されていた事であった。その為に大多数の高層ビルが耐震補強工事が気休め程度にしか行われておらず、地震大国の大日本帝国に於いて耐震補強に問題のある高層ビルが次々と建設されたのである。そして関東大震災の悲劇は、その高層ビルが大量に倒壊・崩壊した事にあった。高層ビルの倒壊は倒れる方向の建物全てを巻き添えにし、犠牲者を増大させた。それは崩壊した高層ビルも同じで、内部の人間を根刮ぎ死に至らしめた。そこに発生した火災が更に被害を拡大させ、瓦礫に挟まれ身動きが取れない人々を満遍なく焼き殺したのである。
あまりの惨劇に山本権兵衛総理大臣は、『帝都復興院』を創設し内務大臣の後藤新平に帝都復興院総裁を兼任させ、全ての権限を与えて帝都復興に全力を尽くすように命じた。そして後藤新平総裁の提案した『帝都復興計画』は、元老の天海響子海軍元帥と蒼井悠香陸軍元帥の賛同と後ろ盾により強力に推し進められた。陸海軍の有力者であり政財界に影響のある2人が賛同するとあっては、山本総理大臣を始め大蔵省や内務省の官僚達も従うしかなかった。
これにより後藤新平総裁の陣頭指揮により復興予算65億円を投入しての、『第四次経済成長五カ年計画』改め『帝都復興計画』は推進された。帝都復興計画はまずは防火林を兼ねた都市公園を、整備する事が優先された。そして徹底的な耐震補強を明文化した『建築基準法』を制定し、汎ゆる建築物に対して耐震補強が義務化された。この時に制定された建築基準法による耐震補強は、世界最強と呼ばれるまでに厳格な規定が明文化された。これにより汎ゆる建築物の建設費が1割は高くなったと言われるが、安全性への対価として誰しもが納得した。
更に帝都復興計画は被災地域の一括買い上げを行い、効率的な都市計画を推進する事になり、耐震補強を施した高架化高速道路である『帝都高速道路』と、国鉄山手線の全線高架化を筆頭に全路線の高架化と電化・複々線化を推し進めた。これにより地上の道路は従来通りの6車線道路のアスファルト化された物であり、地上と高架化に分離して交通の効率化を図った。
また関東大震災の被災は対立が深まっていた連合国側と同盟国側(中央同盟国側から単に同盟国側に呼称が変わっていた)の双方から、震災復興援助が行われた。第一次世界大戦で艦隊決戦を行ったアメリカ合衆国も、ハワイ真珠湾から太平洋艦隊を急行させ東京湾に入港し、援助物資の揚陸と瓦礫の撤去を手伝った。日英同盟を結ぶ大英帝国も大艦隊を派遣し、援助物資を揚陸し半年以上の長期に渡り復興作業に協力してくれた。
ロシア帝国・フランス共和国・オスマン帝国・イタリア王国・ベルギー王国、そして第二神聖ローマ帝国も遥々船団を派遣し大日本帝国に援助物資を提供した。これが両陣営の雪解けの切っ掛けになれば良かったが、残念ながらそこまではいかなかったのである。
1923年の『第四次経済成長五カ年計画』改め『帝都復興計画』完遂後、1928年には『第五次経済成長五カ年計画』が始動され、1930年には『第四次軍備拡張三カ年計画』が始動した。これにより大日本帝国経済は関東大震災による未曾有の被害から華麗に復興し、更に世界最大の経済大国としての地位を盤石にしたのである。そして一歩遅れていた軍拡競争に再度合流したが『第四次軍備拡張三カ年計画』は陸軍の新兵器開発と空軍の新設が優先され、海軍は近代化改修が行われただけだった。だがそれは大日本帝国が陸軍と空軍を優先したからでは無く、寧ろ逆に海軍を優先する為だった。
それは大日本帝国が『第五次経済成長五カ年計画』と『第四次軍備拡張三カ年計画』の完遂した1933年に、海軍連合艦隊の大規模拡張を行う『第五次軍備拡張三カ年計画』を始動させ、世界最強の戦艦群の大量建造を開始し世界各国を驚愕させた。その艦載砲は世界最大を誇り、慌てて連合国側と同盟国側も大日本帝国に対抗出来る戦艦の建造を開始した。
だが大日本帝国はその遥か上をいき、1936年の『第五次軍備拡張三カ年計画』完遂後に早々と『第六次軍備拡張三カ年計画』を始動し、更に強力な戦艦の建造を開始した。これに各国も焦り個艦性能の更なる向上を行った新型超弩級戦艦の建造で対抗したのである。
そしてそんな中で第二神聖ローマ帝国とアメリカ合衆国では、強烈な『反大日本帝国主義』が台頭していた。まず第二神聖ローマ帝国だが、大日本帝国への反発とナショナリズムが起こっていたのである。
大日本帝国の圧倒的な経済力を背景とした影響力が『支配』と見なされ、第二神聖ローマ帝国ではナチスドイツが躍進を遂げていた。ナチスドイツ(正式名称は国民社会主義ドイツ労働者党)の指導者であるヒトラーは『反大日本帝国主義』を掲げて台頭したのである。軍拡競争で軍部と国民の支持を集め、1933年には政権を奪取した。
大日本帝国がジュネーブ講和会議でみせた温情が『甘さ』と誤認され、つけ上がりを生む結果となった。そして更に戦時中の特許没収が既成事実となり、ジュネーブ講和会議に於いて正式に決定された事も第二神聖ローマ帝国のプライドを傷つける事になった。その結果がヒトラー率いるナチスドイツの台頭だった。
ヒトラーは演説で第二神聖ローマ帝国皇帝ヴィルヘルム3世の父親である、ヴィルヘルム2世が戦争責任を押し付けられ連合国に謝罪させられたジュネーブ講和条約を持ち出し、ナショナリズムを高めていた。そして大日本帝国は劣悪なユダヤ人と結託して世界経済を牛耳り、私利私欲を貪っていると糾弾したのである。その演説にはかなりのフェイクニュースが混じっていたが、嘘は宣伝大臣ゲッベルスによる巧みな宣伝により真実と歪曲され第二神聖ローマ帝国の国民を洗脳した。そして経済大国となった第二神聖ローマ帝国を、大日本帝国に対抗するとして強力な軍備拡張を行った。それはヒトラーが首相になる前から第二神聖ローマ帝国が行った軍備拡張を遥かに凌ぐ規模であった。
そしてアメリカ合衆国に於いてもナチスドイツに賛同する『アメリカナチス党』が、二大政党たる民主党と共和党よりもアメリカ合衆国国民に支持された。何と言っても第一次世界大戦での艦隊決戦に完膚なきまでに敗れた事が、アメリカ合衆国のプライドを傷付けていた。そこにナチスドイツ譲りの『反大日本帝国主義』とナショナリズムを掲げる、アメリカナチス党にアメリカ合衆国国民は熱狂したのである。そしてそれは1932年のアメリカ合衆国上下両院選挙で、アメリカナチス党が改選議席を総取りする事で上下両院で過半数を制し、続く1933年の大統領選挙でアメリカナチス党党首のローズエメラルダが女性初の大統領として当選する結果を出したのである。そしてエメラルダ大統領も第二神聖ローマ帝国と同じく、アメリカ合衆国がそれまで行っていた軍備拡張以上の大軍拡を開始した。
この同盟国側の動きに、大英帝国・フランス共和国・ロシア帝国・イタリア王国・オスマン帝国も対抗し、大軍拡を開始した。大英帝国とフランス共和国ではジュネーブ講和会議での大日本帝国の態度から反日感情が高まったが、今やそれ以上の脅威となった第二神聖ローマ帝国が目の前に存在する為に、一段と強固な関係になっていた。
しかしこの世界的な軍拡競争は過度な負担を与える事になり、オスマン帝国は大規模な軍備拡張は再び国家財政を圧迫し、それは遂に1935年にオスマン帝国の経済破綻を招いた。それはロシア帝国とフランス共和国にも波及し、両国も軍拡競争から脱落し軍備拡張のペースを大幅に後退させた。更には過剰な軍備拡張による別の意味のナショナリズムが高まり、独自のファシズムを掲げるムッソリーニが台頭するとイタリア王国は連合国離脱を宣言し、同盟国側に変節するという事態を招いた。
これを全て大日本帝国の皇軍戦略情報局は掴んでおり、政府に報告していたが時の内閣総理大臣たる岡田啓介の外交認識の欠如により全てが後手後手に回る結果となった。唯一の救いは『第五次軍備拡張三カ年計画』が進行中であり、『第六次軍備拡張三カ年計画』も国防省で滞り無く計画中だった事である。だが陛下の代理人たる国政の長の外交認識の欠如は深刻であり、ますます同盟国側をつけ上がらせる結果となった。
そして遂には1938年12月25日第二神聖ローマ帝国・アメリカ合衆国・イタリア王国により、反大日本帝国を明確にした『世界枢軸同盟』が結成された。これは文字通り大日本帝国に代わり、世界の枢軸となる事を目標にした国家同盟だったのである。この事態に大日本帝国は遂に本格的に動き出す。岡田内閣は世界情勢悪化の責任をとって内閣総辞職し、大命降下により海軍元帥たる黒崎妖華に首班指名が行われた。黒崎総理大臣は戦時内閣としての気概で臨み、大日本帝国軍に動員体制に入るように命じ皇軍戦略情報局を活用し世界枢軸同盟の動向を探った。
だが世界枢軸同盟の方が一歩早かった。1939年2月1日に第二神聖ローマ帝国がセルビア・ルーマニア・ギリシャに侵攻を開始した。これは非常事態だった。直ぐ様大日本帝国は、連合国側各国と連携して対応を取ろうとしたが大日本帝国以外の国々の動きが鈍かった。その為にセルビア・ルーマニア・ギリシャは第二神聖ローマ帝国の電撃作戦により、僅か2週間で占領されたのである。
ここに至り連合国各国も危機感を強め、大日本帝国の動きに呼号すると見えたが、世界枢軸同盟側の動きの方が早かった。1939年2月25日に世界枢軸同盟は、連合国に対して全面的に宣戦布告を行い世界規模での同時多発侵攻を開始したのである。世にいう『第二次世界大戦』が勃発した瞬間だった。




