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鉄と海の帝国  作者: 007
第0章 巨艦の胎動

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第一次世界大戦

1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国のフランツフェルディナント大公がボスニアヘルツェゴビナの首都サラエボを訪問した。そこで悲劇が発生した。セルビア王国の民族主義者によって大公夫妻が暗殺されたのである。この事件はオーストリア=ハンガリー帝国を激怒させ、1か月間にわたるオーストリア=ハンガリー帝国・ドイツ帝国・ロシア帝国・フランス共和国・大英帝国間の外交交渉が行われた。これは後に『七月危機』と呼ばれる事になる。

オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国当局、特に黒手組関連が大公暗殺の陰謀に加わっていると考え(後に事実であると判明)、セルビア人のボスニアヘルツェゴビナにおける影響力を消滅させようとした。そしてオーストリア=ハンガリー帝国は7月23日にセルビア王国に対し最後通牒を発し、セルビア王国へ犯人の黒手組を調査させるべく10条の要求を突き付けた。セルビア王国は7月25日に総動員をおこなったが、破壊分子の運動の抑圧のための帝国政府の一機関との協力の受け入れを要求した第5条と、暗殺事件の調査にオーストリア=ハンガリー帝国代表をセルビア王国に招き入れるという第6条を除いて、最後通牒の要求を受諾した。

だがその後、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国との外交関係を断絶、翌日に一部動員を命じた。そして1914年7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に宣戦布告したのである。こうなると後は連鎖反応のように、拡大していった。ロシア帝国はセルビア王国を支持し総動員を開始、この事態にドイツ帝国はロシア帝国とフランス共和国に最後通牒を突き付け、それを黙殺された事からドイツ帝国はロシア帝国に宣戦布告した。

これに呼応してオーストリア=ハンガリー帝国も総動員を開始し、ドイツ帝国は8月2日にルクセンブルクを攻撃し、8月3日にフランス共和国に宣戦布告した。8月4日ベルギー王国がドイツ帝国軍に対し、フランス共和国へ進軍するためにベルギー王国を通過することを拒否すると、ドイツ帝国はベルギー王国にも宣戦布告した。大英帝国はドイツ帝国に最後通牒を発し、ベルギー王国は必ず中立に留まらなければならないと要求したが、『不十分な回答』を得た後、8月4日の午後7時にドイツ帝国に宣戦布告した。

これによりドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・ブルガリア王国の『中央同盟国』と、大英帝国・ロシア帝国・フランス共和国・セルビア王国の『連合国』による、『第一次世界大戦(当時は当然ながら単に世界大戦か、大戦争と呼ばれた)』が勃発した。


第一次世界大戦勃発は大英帝国の同盟国たる大日本帝国に衝撃を与えた。サラエボ事件がヨーロッパ全体を巻き込んだ、大戦争に発展したのである。この事態に大日本帝国は1914年8月6日に御前会議を開催した。御前会議で加藤高明外務大臣はヨーロッパ情勢について説明を行った。そして結論として大英帝国との攻守同盟たる日英同盟を理由に、即時の第一次世界大戦参戦を表明したのである。それは全面的に中央同盟国側に宣戦布告を行い、参戦するものだった。だが国防大臣天海響子元帥は皇軍戦略情報局の情報をもとに、即時の全面的宣戦布告には反対した。

その理由は皇軍戦略情報局の諜報員がアメリカ合衆国で入手した情報にあった。それによるとアメリカ合衆国は中央同盟国側での第一次世界大戦参戦を目論んでおり、その目的は大日本帝国にあると語った。

皇軍統合作戦司令本部総長蒼井悠香元帥が、天海国防大臣の説明を補足した。大日本帝国が日英同盟を理由に中央同盟国側に宣戦布告すれば、アメリカ合衆国は喜んで宣戦布告してくる事。そうなればアメリカ合衆国は自動的に中央同盟国側となり、大日本帝国への宣戦布告はそのまま連合国側への宣戦布告としても利用されてしまう事。我が国の参戦と、経済力・軍事力共に大日本帝国に次ぐ世界2位のアメリカ合衆国の中央同盟国側での参戦は、現状の『欧州大戦』を『世界大戦』にしてしまう危険性がある、と断言したのである。

ここでようやく桜庭静香総理大臣が口を開いた。日英同盟の攻守同盟の観点から即時参戦という外務大臣の意見も一理あるが、アメリカ合衆国の参戦を呼び込むのも宜しく無い。そこで私は大英帝国に伝えこの欧州大戦を中立で過ごし、単純に軍事援助を行って凌ぐ事を提案する、と語ったのである。

外務大臣と国防大臣の折衷案的意見に、誰もがそれに賛同した。そして桜庭総理大臣は陛下に対して、御聖断を仰いだのである。そして陛下は最終的に桜庭総理大臣の折衷案を採用し、中立による軍事援助を行うように語られた。更に陛下は大英帝国の国王ジョージ5世に対して、親書をしたためると語り直接中立を維持する理由を説明すると語った。こうして加藤高明外務大臣が大日本帝国の特使として、直接大英帝国に出向き陛下の親書を渡すと共に大日本帝国の国家方針を伝える事になった。



大日本帝国でそのような決定が下されて動き出したのと同じタイミングで、第一次世界大戦も激しく動いていた。ドイツ帝国陸軍は1914年8月5日ベルギー王国のリエージュ要塞への攻撃を開始した(リエージュの戦い)。この時点でフランス共和国攻撃の『西部戦線』とロシア帝国攻撃の『東部戦線』という二正面作戦により、ドイツ帝国陸軍が長年に渡り構想を練ってきた『シュリーフェンプラン』は瓦解しかけていた。

そしてそれは9月6日、フランス軍によるドイツ軍への側面攻撃が始まり(第一次マルヌ会戦)、ドイツ帝国陸軍第1軍と第2軍は撤退を余儀なくされ、残りの軍勢もそれに続いた。ドイツ帝国陸軍がエーヌ川の後方に撤退したことで9月13日に第一次エーヌ会戦が生起したが、この戦闘は塹壕戦への移行のきっかけとなった。ドイツ帝国陸軍はエーヌ川の後方に撤退した後、塹壕を掘って守備を整え、態勢を回復した。9月17日にはフランス共和国陸軍が反撃したが、戦況が膠着した。

東部戦線に於いてもドイツ帝国陸軍がシュリーフェンプランで想定していたよりも遥かに早く、ロシア帝国陸軍は動員体制を整え開戦から僅か1週間でロシア帝国陸軍はドイツ帝国東プロイセンに侵攻した。これによりドイツ帝国陸軍は西部戦線用の兵力を東部戦線に動員する必要があり、二正面作戦という悪手をドイツ帝国に強いる事になった。そして西部戦線と東部戦線は塹壕戦による膠着状態と、苛烈な砲撃戦へと発展したのである。


そんな中で大日本帝国の特使として加藤高明外務大臣が、シベリア鉄道・陸路・飛行機を乗り継いで大英帝国を訪れた。第一次世界大戦は膠着状態に陥り、大英帝国としては大日本帝国の参戦を期待していた。だが加藤外務大臣は開口一番に、大日本帝国は中立を維持すると語ったのである。これには大英帝国政府は慌てた。

日英同盟は日露戦争以後に攻守同盟に改訂されており、大英帝国は大日本帝国の参戦に期待していた。何せ今や経済力は世界最大であり、軍事力も海軍は世界最大だった。陸軍はドイツ帝国やロシア帝国・フランス共和国に劣るが、領土規模によりかなりの規模を誇っていた。その大日本帝国が参戦しないのは、大英帝国にはかなりの痛手だった。

大英帝国アスキス総理大臣は、加藤外務大臣に何故大日本帝国は第一次世界大戦に参戦しないのか尋ねた。もはや力関係は大日本帝国の方が上である為に、それはかなりの低姿勢な尋ね方だった。加藤外務大臣は皇軍戦略情報局が掴んだ、アメリカ合衆国が中央同盟国側として第一次世界大戦に参戦しようとしていると説明した。それは大英帝国政府としては驚くべき情報だった。

加藤外務大臣は、もし我が国が日英同盟を理由に中央同盟国側に宣戦布告すれば、アメリカ合衆国は我が国に宣戦布告し自動的に中央同盟国側として、連合国側全てと戦争状態に突入する事が可能になると語った。

それは大英帝国政府としても避けたい事態だった。ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・ブルガリア王国相手でも、現状は塹壕戦による膠着状態が続いている最中であり、そこにアメリカ合衆国が敵となるのは避けなければならなかった。加藤外務大臣は、だからこそ日英同盟を理由に安易に参戦すればそれはアメリカ合衆国に利用される為に、大日本帝国は敢えて中立を維持すると説明したのである。

そう説明されると大英帝国政府は、中立を受け入れるしかなかった。大日本帝国の参戦を得られないのは痛手だが、アメリカ合衆国の参戦を呼び込むのは避けなければならないからだ。そして加藤外務大臣は中立を維持する代わりに、食料・原材料・軍需物資等のありとあらゆる物資を輸出し、大日本帝国の各銀行からの多額の融資を行うと表明した。軍事援助は大英帝国としても有り難い話だった。更に加藤外務大臣は、これは大英帝国に限らずにロシア帝国とフランス共和国にも行うと語ったのである。

その言葉にアスキス総理大臣や他の閣僚達は喜んでいたが、ロイドジョージ財務大臣だけは頭を抱えていた。加藤外務大臣が『無償提供』や『資金提供』とは一切言わずに、大日本帝国の各銀行から多額の融資を行うと言ったからである。大日本帝国からの融資とは、大英帝国には借款であり経済的にますます大日本帝国の影響力が増大する事を意味した。だがいくら同盟国とはいえタダで助けてくれる訳はない、とロイドジョージ財務大臣は割り切り何とか納得するしかなかった。

加藤外務大臣は陛下からの国王ジョージ5世陛下への親書を、アスキス総理大臣に手渡した。そして更に加藤外務大臣は、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国と同盟国のイタリア王国は、『未回収のイタリア』と呼ばれる地域を巡り、オーストリア=ハンガリー帝国と対立している為に、交渉次第では連合国側に寝返らせる事が可能だと皇軍戦略情報局が知らせている、と情報提供を行い大英帝国政府との会談を終えた。


そして加藤外務大臣はフランス共和国とロシア帝国にも軍事援助と資金融資を申し入れ、大日本帝国に帰国した。そしてその直後から大日本帝国は空前絶後の『戦争特需』に沸いた。大英帝国とフランス共和国にはスエズ運河経由での海運により、ロシア帝国にはシベリア鉄道経由で大量に食料・原材料・軍需物資が輸出された。

それらを購入する為に大英帝国・フランス共和国・ロシア帝国は大日本帝国の銀行から多額の融資を受け、その債務はみるみる積み上がっていった。尋常では無い規模の融資額となったが、戦争に勝利する為には大英帝国・フランス共和国・ロシア帝国は手段を選んでられなかった。

さすがの大日本帝国も債権回収が不可能になるのを恐れて、資源とのバーター取引を提案したが肝心の資源は大日本帝国領内で大多数は賄えてしまっていた。だが大量生産により資源が必要不可欠なのも事実である為に、一部はバーター取引で決済される事になった。

そして第一次世界大戦はイタリア王国が大英帝国とフランス共和国との間に、『ロンドン密約』を結び連合国側として参戦。オスマン帝国も大日本帝国に債務を全て肩代わりしてもらった事による恩義から、連合国側として第一次世界大戦に参戦した。敵が次々と増えた中央同盟国側だが、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・ブルガリア王国はしぶとかった。というよりも中央同盟国側にはアメリカ合衆国が軍事援助を行っていたのである。

アメリカ合衆国は大英帝国の『北海封鎖』とイタリア王国による『地中海封鎖』を全く無視し、中立国だと高らかに宣言し強行突破で中央同盟国側に軍事援助の輸送船団を送り込んだ。大英帝国以下連合国側はアメリカ合衆国の輸送船団を阻止したかったが、実力行使はアメリカ合衆国の直接的参戦理由になってしまい、かと言って中立国でありながら輸送船団を送り込んでいる事を糾弾しようにも、それは大日本帝国も同じ手法を採っていた為に自分達の首を絞める結果になる為に、その非難も出来なかった。

これにより連合国側と中央同盟国側は、それぞれ大日本帝国とアメリカ合衆国の軍事援助を阻止する手立てがなく、ただただ不毛なる消耗戦を繰り広げるばかりだった。



そして3年が経過した。1917年を迎え第一次世界大戦は総力戦の疲弊を、連合国側と中央同盟国側に強いていた。そんな中で大日本帝国は汎ゆる軍事兵器を大量生産した。新兵器たる戦車も大英帝国とフランス共和国は設計図を直接大日本帝国に提供し、大日本帝国は国内軍需企業により大量生産を行い輸送船団で直接的に送り込んだ。

特に工業力の低いロシア帝国は大日本帝国からの軍事援助に大きく依存していた。日露戦争での死闘も過去の出来事であり、日露協商を結んだ今となってはお互いに重要な間柄であった。そのおかげでロシア帝国は銃弾・砲弾、そして食料を大日本帝国から大量に輸入する事により国内の安定を維持出来た。というより大日本帝国は皇軍戦略情報局の諜報員によりロシア帝国での革命の芽を摘み、事態が悪化しないように先手を打ったのである。かつての日露戦争時に反ロシア帝国として共闘していた事もあり、全ての革命勢力は歴史の表舞台から秘密裏に消し去られた。

特にスイスに亡命していた社会主義革命家のウラジーミルレーニンは、最重要危険人物として抹消されドイツ帝国に利用されるのを防いでいた。このように大日本帝国という世界最大の経済大国のありとあらゆる支援により、ロシア帝国は革命が起きる事無く挙国一致で第一次世界大戦を戦い抜く事が出来たのである。

それにより総力戦の疲弊を連合国側と中央同盟国側に強いていたが国力と後ろ盾の差から、より疲弊していたのは中央同盟国側であった。アメリカ合衆国が軍事援助を行っていたが中央同盟国側で大国と呼べるのが、ドイツ帝国だけでオーストリア=ハンガリー帝国とブルガリア王国は経済的には大国とは呼べず疲弊の度合いは連合国側より大きかった。

そこでドイツ帝国はアメリカ合衆国と極秘裏に、ドイツ帝国ハンブルクで協議を行った。そこでドイツ帝国はアメリカ合衆国に対して軍事援助の感謝を述べたが、いよいよ直接参戦をお願い出来ないか尋ねたのである。驚いたのはアメリカ合衆国であった。だがアメリカ合衆国としても直接参戦の機会は伺っており、絶好のチャンスだと判断した。

ドイツ帝国がアメリカ合衆国に直接参戦として攻撃するように要請したのは、大日本帝国だった。何と言っても大日本帝国が連合国側の後ろ盾である限り、連合国側は無尽蔵とも呼べる軍事援助を受ける事が可能だった。ドイツ帝国の戦略としては大日本帝国に対抗するべくアメリカ合衆国が整備した海軍により、大日本帝国を太平洋に釘付けにして連合国側への軍事援助どころどは無いようにし、その間にドイツ帝国以下中央同盟国側がヨーロッパ大陸を制圧し、最終的に太平洋側とユーラシア大陸側から大日本帝国を挟撃するというものだった。

後世の歴史学者は口を揃えて『誇大妄想』だと唾棄する、歴史上最大規模の愚策だった。この時点でドイツ帝国以下の中央同盟国側にヨーロッパ大陸を制圧する体力は無く、仮にアメリカ合衆国が大日本帝国に勝てたとしても挟撃は不可能だった。そしてそもそものアメリカ合衆国海軍も大日本帝国海軍に敗北した為に、戦略は完全に絵に描いた餅だった。

だが後世の歴史学者が一様に不思議がるのだが、アメリカ合衆国はドイツ帝国の戦略に賛同してしまうのである。これを一部歴史学者は日露戦争以後の日米の軋轢が高まり、大日本帝国に一矢報いたいというアメリカ合衆国の願望が全ての現実を見誤らせた、と結論付けていた。そして誇大妄想の戦略は『ハンブルク合意』として結実し、アメリカ合衆国は大日本帝国との本格的な戦争準備を開始した。1917年1月29日の出来事だった。



このハンブルク合意を大日本帝国は、やはり皇軍戦略情報局により知る事になった。ドイツ帝国にアメリカ合衆国から特使が訪れた事が判明し、その後からアメリカ合衆国が軍事援助とは別に海軍太平洋艦隊とアジア艦隊を動員している事が判明したのである。そして皇軍戦略情報局長官明石元二郎大将は、アメリカ合衆国が大日本帝国への攻撃を計画していると判断しアメリカ合衆国に於いて重点的な諜報活動を命令した。そしてその結果太平洋艦隊とアジア艦隊の動員のみならず、大西洋艦隊も一部が回航され太平洋艦隊へ増強されている事が判明した。アメリカ合衆国国内の軍需物資の流れも、軍事援助から戦争準備にシフトされている事も掴んだ。

その情報を明石長官は皇軍統合作戦司令本部総長蒼井悠香元帥に報告し、蒼井総長は国防大臣天海響子元帥に報告した。そして天海国防大臣の報告により桜庭静香総理大臣はアメリカ合衆国の戦争準備を知る事になり、1917年2月1日に御前会議を開催した。

そこでアメリカ合衆国の戦争準備が説明され、閣僚達はいよいよ時期が来たと判断した。しかもその御前会議の最中に、皇軍戦略情報局がハンブルク合意の詳細を掴み報告された。こうして大日本帝国としても戦争は避けられないと判断され、陛下の御聖断により大日本帝国も戦争準備を開始する事になった。

皇軍統合作戦司令本部では作戦会議が開かれた。アメリカ合衆国海軍太平洋艦隊を迎え撃つ事に、作戦会議の重点が置かれた。日露戦争のバルト海海戦以来の大規模海戦になる事が予想された。何せ日露戦争時は大日本帝国とロシア帝国海軍それぞれの戦艦は、『前弩級戦艦』であったが、今回は大日本帝国とアメリカ合衆国海軍のそれぞれの戦艦は『超弩級戦艦』となる。二世代も進歩した戦艦同士の海戦であり、1916年5月31日から6月1日にかけて戦われた『ユトランド沖海戦』に匹敵する、大海戦になる事が予想された。

海戦は基本的にはバルト海海戦を踏襲しての砲撃戦を遂行する事になったが、海戦初期に於いて新兵器たる潜水艦による雷撃が行われる事になった。更には巡洋艦と駆逐艦を主体とした『水雷戦隊』による雷撃も実施する事になった。大日本帝国海軍は海戦の補助としての雷撃に注目しており、独自装備の『酸素魚雷』を開発していた。その期待の酸素魚雷で真価が発揮される機会でもあった。

皇軍統合作戦司令本部での作戦会議は、決してアメリカ合衆国海軍を過小評価する事無く、侮れない強敵として捉え詳細な作戦を練った。そして大日本帝国とアメリカ合衆国は戦争準備を続け、1917年4月6日に遂にアメリカ合衆国が大日本帝国を筆頭に連合国側に対して宣戦布告を行った。その直後にアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊は『ハワイ真珠湾』を出港し、大日本帝国海軍連合艦隊との決戦に突き進んだ。

対する大日本帝国も陛下の御聖断によりアメリカ合衆国以下中央同盟国側に対して、1917年4月7日に宣戦布告を行いこの瞬間に『欧州大戦』は『世界大戦』に発展したのである。

そして1917年4月15日。ミッドウェー島南西250キロ地点で、大日本帝国海軍連合艦隊とアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊が激突し、世にいう『ミッドウェー海戦』が勃発した。


アメリカ合衆国海軍太平洋艦隊は超弩級戦艦ニューヨーク級2隻・ネバダ級2隻・ペンシルベニア級2隻を主力とし、弩級戦艦サウスカロライナ級2級・デラウェア級2隻・フロリダ級2隻・ワイオミング級2隻の合計14隻の戦艦を投入した。というよりアメリカ合衆国海軍が保有する全ての戦艦を太平洋艦隊に集中配備したのである。

大西洋艦隊からも戦艦を回航し、大西洋艦隊は巡洋艦と駆逐艦だけの沿岸哨戒艦隊に成り下がっていた。だがそれでも戦艦数では大日本帝国海軍連合艦隊に及ばなかった。大日本帝国海軍連合艦隊は戦艦16隻・巡洋戦艦16隻を保有する大海軍国家であり、しかも保有戦艦全てが超弩級戦艦だった。巡洋戦艦も超弩級戦艦に匹敵する艦容を誇り、戦力差は絶望的に開いていた。

海戦は皇軍統合作戦司令本部での作戦通り、潜水艦と水雷戦隊による雷撃から始まった。アメリカ合衆国海軍太平洋艦隊は、大日本帝国海軍連合艦隊水雷戦隊の雷撃動作に警戒したがどう考えても魚雷の射程圏外である為に、その雷撃動作に困惑していた。その為に機雷の敷設だと誤判断してしまったのである。そして機雷回避により進路を僅かに変更したが、それが寧ろ魚雷に対して艦体を晒す結果となってしまった。

その結果大日本帝国海軍連合艦隊の潜水艦と水雷戦隊が発射した魚雷は、面白いようにアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊の艦艇に命中した。この時の命中率は83%を記録し、演習より命中率が高過ぎると、発射した本人達が驚愕した程であった。これによりアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊の外縁部と、艦隊機動は致命傷とも呼べる被害を受けたのである。

そこにまずは巡洋戦艦を主体とした大日本帝国海軍連合艦隊第2艦隊と第4艦隊が、アメリカ合衆国海軍太平洋艦隊に襲い掛かった。巡洋戦艦金剛級と巡洋戦艦鞍馬級を中心とする第2艦隊と第4艦隊は、その俊足と速射を活かしてアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊を圧倒した。そこにアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊の弱点が露呈した形となった。アメリカ合衆国海軍は伝統的に、『重武装・重装甲・低速』という設計思想であった。

だがそれはアメリカ合衆国海軍に於いて、という前提であり大日本帝国海軍連合艦隊からすれば『軽武装・軽装甲・鈍亀』という酷い有様だった。それはユトランド沖海戦で大英帝国海軍とドイツ帝国海軍の戦艦・巡洋戦艦の水平防御が弱いという、戦訓に如実に表れていた。そしてそれはアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊にしても同じであり、大日本帝国海軍連合艦隊の巡洋戦艦による砲弾の垂直命中に耐えきれず、艦によっては僅か1発の直撃で弾薬庫が誘爆し轟沈する有様だったのである。

あまりの惨状に退避行動に入ったアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊だが、そこに本命たる超弩級戦艦を配備する大日本帝国海軍連合艦隊第1艦隊と第3艦隊が、一斉砲撃を開始した。超弩級戦艦河内級と超弩級戦艦香取級16隻の砲弾は、面白いようにアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊の戦艦に命中していった。

だがアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊もやられっぱなしでは無く、超弩級戦艦ニューヨークの放った砲弾3発が巡洋戦艦鞍馬級の生駒に命中し、艦体を両断する大爆発を起こして轟沈させる戦果を挙げた。これはこの当時の世界各国の設計思想で、水平防御が薄いという欠点を大日本帝国海軍も抱えていたという証明だった。

だがアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊の戦果は、巡洋戦艦生駒の撃沈だけだった。それ以外の艦艇は駆逐艦でさえも撃沈出来ずに、大日本帝国海軍連合艦隊に一方的に蹂躙され海戦から5時間後には、アメリカ合衆国海軍太平洋艦隊は駆逐艦2隻を残して撃沈された。

これにより大日本帝国海軍連合艦隊は、日露戦争時のバルト海海戦と同じく歴史的大勝利を納めたのである。





ミッドウェー海戦の大勝利を受け大日本帝国は、太平洋地域の平定を開始した。第一次世界大戦が勃発してから大英帝国連邦諸国が、太平洋地域でのドイツ帝国領を一部占領していた。ドイツ帝国領ニューギニアはオーストラリア軍が占領し、ドイツ帝国領サモアはニュージーランド軍が占領していた。

そこで大日本帝国は残る地域で重要度の高いドイツ帝国領南洋諸島(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)とアメリカ合衆国領グアム島、ミッドウェー島の占領を行った。アメリカ合衆国自治領のフィリピンはアメリカ合衆国海軍アジア艦隊が駐留している為に、アジア艦隊を全滅させ軍事施設のみを占領しフィリピン自治政府には戦後の完全な独立を約束し、戦争終結までの駐留を開始した。

そしてこのミッドウェー海戦での敗北により、アメリカ合衆国は急速に継戦意欲を失ってしまった。何せ海軍の主力戦艦が全滅し、太平洋は制海権を完全に喪失し大西洋も残された艦隊は、大英帝国海軍に太刀打ち出来ない規模だった。現有兵力に自信を持っていたアメリカ合衆国は、海軍の拡張計画を一切立案していなかった。

この為にアメリカ合衆国は大日本帝国による太平洋平定が完了すると、連合国側に対して降伏を表明したのである。それを大日本帝国は連合国側を代表して受け入れ、戦争終結までの完全中立を命令した。こうして意気揚々と参戦したアメリカ合衆国は、大日本帝国に海軍を壊滅させられ早々に降伏してしまったのだ。



アメリカ合衆国に頼っていた中央同盟国側は、狼狽えた。戦争遂行に必要不可欠な軍事援助が一切受けられなくなったのである。それに対して連合国側は大日本帝国が参戦してから、軍事援助を一段と強化された為に質量共に充実していた。

そして大日本帝国陸軍は常備軍102万人(40個師団各2万人と要塞要員20万人、司令部等後方勤務要員2万人)から動員時280万人(90個師団を予備役・後備役含むから編成)までの編成を完了していた。

そしてその戦力が西部戦線と東部戦線に大挙して送り込まれた。大日本帝国陸軍は各方面軍に1個師団しか残さず、ほぼ全力を派遣した。大日本帝国陸軍が派遣したのは全てが自動車化歩兵師団であり、3分の1には大英帝国とフランス共和国から入手した新兵器たる戦車を配備していた。更に増強した陸軍航空隊も大挙派遣された。

この大日本帝国陸軍の派遣はまずはシベリア鉄道を使ってロシア帝国に送り込まれ、東部戦線に投入された。西部戦線に投入する大日本帝国陸軍は大日本帝国海軍連合艦隊に護衛された輸送船団で送られ、到達するのに時間が必要になった。

その為に東部戦線での反攻作戦が先行して行われ、1917年6月8日に大日本帝国陸軍とロシア帝国陸軍によりドイツ帝国陸軍に総攻撃が開始された。

その攻勢をドイツ帝国はもはや防げずに、大日本帝国陸軍とロシア帝国陸軍に押され続けた。こうなると後は雪崩を打って崩れていった。1917年7月29日には大日本帝国陸軍とロシア帝国陸軍、そしてオスマン帝国陸軍による侵攻を受けたブルガリア王国が降伏。1917年9月3日には更にオーストリア=ハンガリー帝国が降伏した。

1917年10月7日には遂に西部戦線に展開した大日本帝国陸軍と、大英帝国陸軍・フランス共和国陸軍がドイツ帝国陸軍に対して、大規模攻勢を開始。東部戦線でも大日本帝国陸軍・ロシア帝国陸軍・オスマン帝国陸軍が攻勢を開始し、イタリア王国陸軍もドイツ帝国の南部から侵攻を開始した。

もはや勝敗は目に見えていた。大日本帝国はドイツ帝国に対して降伏勧告を行い、ドイツ帝国海軍根拠地であるキール軍港を艦砲射撃で海軍連合艦隊が徹底的に破壊した。日清戦争の頃から艦砲射撃を多用した大日本帝国は、この頃から『戦略艦砲射撃』という概念を産み出し沿岸都市部に限定されるが、その驚異的な火力投射量を戦略的に利用する事にしていた。

事実この『戦略艦砲射撃』という恫喝で大日本帝国は、今迄戦争を終わらせており今回の第一次世界大戦もドイツ帝国は、大日本帝国の軍事的恫喝により降伏を決意した。

こうして1918年1月28日にドイツ帝国が降伏を表明し、第一次世界大戦は終わりを迎えたのである。

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