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鉄と海の帝国  作者: 007
第0章 巨艦の胎動

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第一次世界大戦前夜

1904年11月20日、中沢総理は帝国議会に『戦後経営計画』を提出した。東京講和条約での賠償金10億ルーブル、日本円にして20億円の使い道を決める重要な会議だった。大日本帝国は日露戦争の戦費として総額18億2629万円以上もの金額を消費した。国家予算15億円を上回る戦費が必要となったが、中沢総理は増税は行わず純粋に『赤字国債』を発行して戦費を確保した。

国債は銀行や財閥・華族等の富裕層に限定し、一般庶民の経済的負担は最小限にした。何と言っても戦争という非常時であるが、国民に過度な負担を強いてはならない、という中沢総理の方針によるものだった。戦争自体は連戦連勝で、最終的な講和条約で戦費以上の賠償金と、広大な領土を割譲させた事から国民世論や内閣支持率は驚異的に高まった。併合された地域は『シベリア府』『沿海州』『カムチャツカ県』『樺太県』として編入された。これにより領土は約920万km²(世界4位)となり、人口も約9200万人(世界5位)となって共にアメリカ合衆国を上回る数字となったのである。

この日露戦争の大勝利を経て大日本帝国は、正真正銘の『五大国』に君臨する事になった。これは非常に意味が大きく、『東洋の不思議な国』という印象を拭い去り、『東亜の覇者』という立場に大日本帝国はなった。その大日本帝国を更に強固な国にする、と中沢総理は帝国議会で演説し『第二次経済成長五カ年計画』と『第二次軍備拡張三カ年計画』を提案した。1905年からの五カ年計画で経済成長を行い、その間に新型兵器は設計開発を行い経済成長五カ年計画完遂後の1910年から、間髪入れずに軍備拡張三カ年計画を始動するものだった。

その為に『第二次経済成長五カ年計画』は賠償金約20億円を全て投入した、過去最大規模の経済成長政策だった。これは東京講和条約で併合した地域も含め、工業団地を新設する事になった。これにより製鉄所を筆頭に重工業を育成し、工業力の基盤を更に高める事が目指された。

更に特筆すべきは商工省官僚の提案により、工場にベルトコンベアーが採用された事だった。今迄もベルトコンベアーはあったが、それは荷物の搬入出や輸送による『物流の効率化』に利用されていた。

それを商品そのものをベルトコンベアーで移動させて作業員が、それぞれ担当の部品を取り付けて完成させるという画期的な生産方式だった。この驚異的な生産性向上は『大量生産方式』と呼ばれ、新設される工業団地のみならず既存の工場も改良されてベルトコンベアーが採用された。そしてこれにより電化製品が大量生産され、一般庶民に爆発的に普及した。特に冷蔵庫・掃除機・洗濯機・白熱電球照明が一般的に普及し、『家電商品』が一般的になった。

更に中沢総理が優先的に努めた道路整備政策により、大量生産方式により自動車が一般庶民にも普及し大日本帝国はモータリゼーションを迎えた。これにより移動手段は鉄道・地下鉄・路面電車のみならず、自動車・タクシー・バスが爆発的に増加した。そして移動手段が手軽に容易になれば、それは経済的にも波及効果を及ぼし経済成長は加速された。

併合された地域の『シベリア府』『沿海州』『カムチャツカ県』『樺太県』にも、大規模な開発により工業団地と道路網・鉄道網が整備され『日本人』として併合された元ロシア人達も経済的繁栄を受ける事になった。ここで更に中沢総理は改革を行い衆議院議員選挙法を改正し、日清戦争・日露戦争で併合した地域にも選挙区を設定し完全なる自由選挙を整備した。

この衆議院議員選挙法改正により、歴史学者は大日本帝国が『植民地』では無く『領土の拡大』という、大日本帝国独自の施策である最たる例だと断言している。他国では類を見ない施策であった。

更に中沢総理は次世代エネルギーである石油開発にも精力的に取り組んだ。『大日本帝国石油機構(国油)』を設立し、全領土での石油調査を行った。その3年にも及ぶ調査によりアラスカ県・満州府・樺太県・シベリア府で、それぞれ石油が産出する事が可能だと判明した。

アラスカ県から産出するのは、重質で硫黄分が多いサワー原油であり、比較的粘度が高いのが特徴でそれにより精製にはより多くのエネルギーとコストが必要だと分かった。その為に海軍連合艦隊や海運用の重油として使用される事になり、海軍連合艦隊の艦艇機関が石油を使用した蒸気タービンに切り替わる切っ掛けとなった。

樺太県からは軽質で硫黄分が少ないスイート原油が産出されると判明した。非常に高品質な原油として評価され精製が容易な為、ガソリンや軽油など付加価値の高い石油製品に加工される事になった。

満州府からは中質から重質で硫黄分は少ないスイート原油が産出されると判明した。規模も非常に大規模な油田であり産出する原油は精製しやすく、艦船用とガソリン等への両方の加工が行われる事になった。シベリア府からは軽質で硫黄分が少ないスイート原油が産出されると判明した。シベリア府の原油も精製が容易であり、樺太県と同じ精製が行われる事になった。

この大日本帝国国内での石油の大量発見は、世界を驚愕させた。次世代エネルギーたる石油の確保が、次の覇権国に必須条件であるにも関わらず大日本帝国が日清戦争日露戦争で割譲させた地域から、続々と産出すると分かったのである。

大英帝国はそれが分かると石油の輸入を申し入れ、大日本帝国は日英同盟の間柄である為に受け入れた。それは大英帝国連邦たるインドやオーストラリア・ニュージーランド・カナダも同じで、商業ベースでの輸入のみならず各種資源とのバーター取引も行われた。

これにより大日本帝国は純粋なる内需拡大経済成長に加えて、資源輸出による利益も増大した。その為に第二次経済成長五カ年計画は大成功を納め、大日本帝国のGDPは約885億円にもなり、大英帝国やアメリカ合衆国を上回り世界最大規模の経済大国になっていたのである。


大日本帝国は経済大国としての道を驀進していたが、世界は次なる嵐に揺れていた。『モロッコ危機』を契機に大英帝国とフランス共和国は英仏協商を結びドイツ帝国との対立姿勢を鮮明にし、ロシア帝国では『血の日曜日事件』を契機に皇帝ニコライ2世が憲法制定に動き専制君主制から舵を切った。

そんな中で大英帝国が海軍の歴史を決定的に揺るがす、革新的な戦艦を建造した。それはバルト海海戦の戦訓から極秘裏に『設計委員会』を設け1904年冬に画期的な新戦艦の設計が完成した。そしてポーツマス工廠に本艦を1年で完成することを命じ、 工廠は他の工事の全てを犠牲にして記録的な早さで『戦艦ドレッドノート(Dreadnought)』を竣工させたのである。この戦艦は従来の戦艦に比べて高速航行が可能な上に2倍以上の火力を備えており、それまでの世界の全ての戦艦は一挙に旧式化の烙印を押された。

その為、これ以前の戦艦(計画・建造中、竣工・就役直後の戦艦を含む)を前弩級艦、同程度の性能を有する戦艦を弩級艦として区別する。ここでいう『弩』とは、ドレッドノートの頭文字である。そしてこれが世界的な大艦巨砲主義による海軍拡張競争の始まりだった。

大英帝国は英仏協商からフランス共和国に技術指導を行い、海軍拡張を推進させた。ドイツ帝国は大英帝国の挑戦に真っ向から立ち向かうとして、史上最大規模の海軍拡張計画を進めた。

アメリカ合衆国も遅ればせながら海軍拡張に邁進し、改革により一定の国内安定を取り戻したロシア帝国も英露協商による大英帝国からの技術指導によりバルチック艦隊の再建を掲げ、海軍拡張を開始した。

それをやや離れた位置から見ていたのが、大日本帝国だった。大日本帝国にとって幸運だったのは、第二次経済成長五カ年計画により経済力拡大を行っていた時のドレッドノート竣工であり、保有戦艦の旧式化で済んだ事だった。そして他国よりも海軍拡張は遅く1910年からの第二次軍備拡張三カ年計画により開始する為に、皇軍戦略情報局を総動員した欧米列強各国の戦艦設計図入手を行い後に世界最大の戦艦を建造する事になったのである。

大英帝国とドイツ帝国間の熾烈な軍備拡張競争は全ヨーロッパとアメリカ合衆国を巻き込み、列強の全員が自国の工業基盤を軍備拡張に投入し、汎ヨーロッパ戦争に必要な装備と武器を準備したのである。1908年から1913年までの間のヨーロッパ列強の軍事支出は50%上昇していた。

それは陣営に別れた対立に発展し、大英帝国・ロシア帝国・フランス共和国の『三国協商』、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・イタリア王国の『三国同盟』であった。そしてこれに大日本帝国が日英同盟から三国協商側についており、アメリカ合衆国が大日本帝国の経済成長と軍拡に危機感を抱いた事から三国同盟側についていた。当初はオスマン帝国も三国同盟側であったが大日本帝国がオスマン帝国の負債を全面的に肩代わりし、更には大英帝国とフランス共和国の負債分の金額を支払った。そしてオスマン帝国の負債総額分は大日本帝国が低金利での超長期返済を認めた為に、オスマン帝国は三国同盟側から三国協商側に移り変わったのである。

そんな混沌とした世界情勢だったが、1912年7月6日に大日本帝国帝都東京にて『第5回オリンピック競技大会』が開催された。帝都東京青山の明治神宮外苑内に建設された、『帝都国際競技場』にて開会式が行われた。帝都国際競技場は大日本帝国がオリンピック開催の為に建設した、国際競技場であり収容人数75000人を誇る超巨大施設だった。競技場入り口にはバスターミナルと路面電車駅が作られ、地下には専用の地下鉄駅があった。バスと路面電車は国鉄最寄り駅の、千駄ケ谷駅・信濃町駅を経由しており全てに於いてアクセスしやすい競技場となっていた。東京オリンピックは閉会式の行われる1912年7月22日まで開催され、28カ国から2512人が参加した。

世界が緊張状態にある中で開催された為に、大日本帝国は『平和の祭典』を全面に押し出して日英同盟により三国協商側についているが、両陣営の平和的交流の橋渡しに奔走した。その甲斐もありオリンピック期間中は比較的穏やかな状態となり、両陣営の外交官や政府関係者達が帝都国際競技場で観戦する写真が新聞で報じられた。

その状態が続くかに思われたが東京オリンピック終了後から、再び両陣営の対立は深まった。そしてこの対立構造はヨーロッパ情勢を複雑にしていたが、遂に1914年6月28日にサラエボ事件が発生した。僅か数発の銃弾が、約15億発の砲弾を使用する人類史上初の大規模戦争に発展したのであった。

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