東京講和条約
1904年9月5日、大日本帝国帝都東京にロシア帝国の特命全権大使セルゲイ・ウィッテ以下の代表団が到着した。大日本帝国は中沢琴総理以下、閣僚全員がウィッテ特命全権大使達を出迎えた。ウィッテ特命全権大使にとっては、話としては聞いていたが女性総理である中沢総理を目の当たりにして、その異質さに驚いた。しかも中沢総理の180センチの長身(史実では170センチだが、田沼意次の早期開国政策により洋食も早くに広まり、日本人の摂取カロリーも増大している為に、史実より日本人の体格は向上していると設定)にも驚いた。中沢総理はウィッテ特命全権大使達が予想外に、大日本帝国の事を知らな過ぎるとして講和会議の前に、帝都のみながらも視察してもらう事を決めた。
そして始まった帝都観光だが、それもウィッテ特命全権大使達を驚愕させた。大日本帝国は1900年前後から経済成長五カ年計画の達成により、全土で摩天楼の建設が始まっていた。世界初の摩天楼としてよく挙げられるのは、アメリカ合衆国のシカゴに1885年に建設されたホーム・インシュアランス・ビルであり、この建物は高さ42メートル・10階建てのものだが鉄骨を主要な構造体として使用した点で画期的であり、それを皇軍戦略情報局の諜報員が設計図を奪取していた。更には設計者も女性諜報員のハニートラップにより引き抜く事に成功し、大日本帝国は空前の摩天楼建設が始まっていた。
ウィッテ特命全権大使達の視察した大日本帝国帝都東京は、そのように摩天楼が建ち並び建設も競争するように行われていた。都内の主要道路はアスファルト塗装された6車線道路であり、地下鉄と路面電車も運行されていた。大日本帝国は政治経済の中心地たる帝都東京の開発を常に行い、他の都市もそれを参考に開発を行っており国家としての発展に勢いがあった。それを目の当たりにしたウィッテ特命全権大使達は、ただただ驚くしかなかった。
そして視察の締めとして少し移動して海軍横須賀鎮守府と工廠・燃料廠も視察する事になった。ウィッテ特命全権大使達は横須賀海軍工廠の300メートルにも及ぶ巨大さに目を見張った。しかも横須賀のみならず呉・佐世保・舞鶴・ダッチハーバー・釜山・大連・高雄にも同じ規模で存在すると説明され、そこに至り遂にウィッテ特命全権大使達は言葉を失った。
こうして翌日1904年9月6日から講和会議が始まったが、それは終始大日本帝国のペースであった。ウィッテ特命全権大使に対して、ロシア帝国皇帝ニコライ2世は体制変更以外ならどんな条件でも受け入れるように伝えており、大日本帝国の提示した条件を全てウィッテ特命全権大使は受け入れた。大日本帝国の中沢総理も、やや予想外ながら条件を全て受け入れてくれた事に感謝した。そして1904年9月13日に大日本帝国とロシア帝国は、東京講和条約に調印し正式に日露戦争は終結したのである。
『東京講和条約
1.ロシア帝国はレナ川以東のシベリア地方、沿海州、カムチャツカ半島、樺太を大日本帝国に譲渡する。
2.ロシア帝国は賠償金として大日本帝国に対して10億ルーブルを支払う。
3.シベリア鉄道は以後日露両国に乗り入れる、国際鉄道として運行する。』
以上のように大日本帝国の一方的な要求が突き付けられ、それをロシア帝国は全て受け入れた。賠償金の10億ルーブルは日本円にして20億円であり、日露戦争の戦費総額18億2629万円以上もの金額であった。身も蓋も無い言い方をすれば儲かったのである。賠償金は戦費以上となり、領土も更に拡大した。しかもこの歴史的大勝利により、大英帝国は日英同盟の改訂を提案して来たのである。
大日本帝国陸海軍の精強さを目の当たりにした観戦武官達の報告が、大英帝国政府の決断を促した。その決定打となったのが、大日本帝国海軍連合艦隊に同乗した観戦武官が語った、バルト海海戦の一方的大勝利だった。練度・能力・装備・兵站能力、その全てが高いレベルで維持された大日本帝国は大英帝国の力強い味方になると、観戦武官の誰もが断言した。それを受けて大英帝国は日英同盟を純粋な『攻守同盟』へと改訂する事を提案したのだ。
これを大日本帝国の中沢総理は好機だと捉え、交渉は本格的に進んだ。交渉の中で大英帝国側は、史上始めて大英帝国を公式に寄港した大日本帝国海軍連合艦隊の勇姿を称賛した。バルト海遠征時は極秘裏の補給整備であったが、帰国する時は隠す必要が無いので堂々と連合艦隊は寄港していた。バルト海海戦の歴史的大勝利の報せは大英帝国にも轟いており、数多くの人々が一目見ようと駆け付けていた。
そのような事もあり交渉は滞り無く進み、1904年10月3日に日英同盟は攻守同盟へと改訂された。これにより大日本帝国か大英帝国、どちらかが攻撃されればもう片方の国が自動的に参戦するという、攻守同盟に発展した。
1904年11月1日には東京講和条約が批准された。ヤクーツク周辺を占領していた蒼井悠香大将率いる第3軍も、割譲地域の平定を1904年11月11日には皇軍統合作戦司令本部に報告した。
そして大日本帝国は1904年11月15日に、レナ川以東のシベリア地方、沿海州、カムチャツカ半島、樺太の併合を宣言した。




