表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鉄と海の帝国  作者: 007
第0章 巨艦の胎動

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/36

日露戦争

1904年2月6日の大日本帝国によるロシア帝国への宣戦布告で、史上名高い『日露戦争』が勃発した。経済力は同等、軍事力は陸軍がロシア帝国優勢、海軍は大日本帝国がやや優勢、という非常に拮抗した国家同士の戦争であった。日露戦争は20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、また日露2国間のみならず帝国主義各国の、思惑・外交関係が関与したグローバルな規模をもっており一部学者は『第零時世界大戦』だと呼ぶ者もいた。



日露戦争開戦時の大日本帝国とロシア帝国の基本戦略は明確に定められていた。

まず大日本帝国は開戦と同時に海軍連合艦隊の主力艦隊たる4個艦隊を投入し、ロシア帝国海軍太平洋艦隊とその母港ウラジオストクを強襲し、陸軍2個師団を上陸させて占領するものだった。

満州府要塞の要員8万人と15個師団は、当面はロシア帝国陸軍の攻勢に対して防衛するとなっていた。何にせよロシア帝国海軍太平洋艦隊を撃滅しウラジオストクを占領して、日本海の制海権を絶対的に確保し日本列島と大陸側の輸送路を確保するのが最優先事項だった。その為に皇軍戦略情報局の特殊工作員を大挙してウラジオストクに派遣し、作戦開始と同時にウラジオストク軍港の要塞に対して破壊工作を行う事になっていた。

それに対してロシア帝国は満州府国境沿いにシベリア鉄道を使い派遣した陸軍で、大規模攻勢を仕掛ける計画だった。ウラジオストクの太平洋艦隊は無理に作戦を行わず、ヨーロッパ方面からの増援を受けて作戦行動を開始するものだった。

その為に日露戦争の本格的な戦いは大日本帝国陸海軍共同作戦の、『ウラジオストク強襲戦』から始まった。皇軍統合作戦司令本部が立案した陸海軍共同作戦により、大日本帝国海軍連合艦隊は主力の4個艦隊を日本海に展開させ陸軍の2個師団も輸送した。

攻撃は1904年2月11日に開始された。大日本帝国にとっては紀元節という重要な日であり、ロシア帝国は完全に油断していた。そんな中で1904年2月11日の未明に突如として、ウラジオストク軍港

の要塞が爆発した。突然の出来事にロシア帝国陸海軍は混乱の極みに陥った。最初は不慮の事故と思ったが同時多発的に全要塞が爆発した為に、攻撃だと判断した。だがどこから誰が攻撃してきたのかが、一切分からなかったのである。

そうして混乱状態にあるなかで、ウラジオストク軍港全体に探照灯が照射された。突然の明かりに狼狽えるロシア帝国陸海軍だったが、探照灯を照射する艦艇に旭日旗を確認しようやく大日本帝国海軍だと認識したのだ。

だがあまりにも遅すぎた。32センチ砲64門、25.5センチ砲64門が一斉に砲撃を開始したのである。未明であり探照灯照射による艦砲射撃である為に、外れた砲弾もあったがそれでも半数はロシア帝国海軍太平洋艦隊に命中した。連合艦隊の練度と士気は高く維持されており、砲撃速度も高かった。大日本帝国海軍連合艦隊司令長官天海響子大将は全艦に、弾薬庫を空にしてでも太平洋艦隊とウラジオストク要塞を殲滅せよ、と苛烈な命令を出した。

その命令により全艦は壮絶な艦砲射撃を行った。大日本帝国海軍連合艦隊は新技術として『伊集院信管』と『下瀬火薬』を実用化し、その艦砲射撃の威力はロシア帝国海軍太平洋艦隊の想像を遥かに上回り、次々と命中弾を受けて撃沈されていった。

だが大日本帝国海軍連合艦隊も一方的では無かった。ある意味自滅的ではあるが『膅発』により、装甲巡洋艦日進は主砲塔の砲身を喪失した。膅発とは、連続射撃を経た砲身が赤熱することによって、発射時に砲弾が砲身内で爆発する事故で、第一次世界大戦直前に防止装置が発明されるまでは発生確率は高かった。そしてこの爆発事故により装甲巡洋艦日進の乗組員8名(最高位は高野五十六少尉候補生)が死亡した。

しかし被害はそれだけであり、大日本帝国海軍連合艦隊はロシア帝国海軍太平洋艦隊を全滅させ、ウラジオストク要塞を破壊したのである。そして海軍連合艦隊の艦砲射撃による援護の下で、大日本帝国陸軍2個師団が上陸しほぼ無血占領を果たしたのである。こうしてロシア帝国の極東における拠点は陥落した。


ロシア帝国は開戦劈頭に於いて大敗北を喫した。海軍太平洋艦隊は全滅し、ウラジオストク軍港も占領されたのである。ロシア帝国の極東海軍は戦力と拠点たる太平洋艦隊とウラジオストク軍港を喪失してしまった。こうなると当初の計画であったヨーロッパ方面からの、バルチック艦隊派遣は増援とする太平洋艦隊と拠点たるウラジオストクが存在しなくなった為に、ロシア帝国海軍は作戦行動の無期延期を決定した。こうしてロシア帝国は陸軍による大日本帝国満州府侵攻を決定し、1904年2月20日にロシア帝国陸軍30個師団が一斉に侵攻を開始したのである。

大日本帝国としては満州府に建造した巨大要塞群の効果を発揮させる機会だった。『満州府要塞』は満州府に建造された巨大要塞群の総称であり、正確には複数箇所に建造された。そのなかで中心的役割を果たす要塞は、沿海州側からの侵攻を防衛する『虎頭要塞』、満州府北西からの侵攻を防衛する『海拉爾要塞』、満州府北部からの侵攻を防衛する『アムール要塞』となり、それ以外にも複数箇所要塞が建造された。

その為に1904年2月20日にロシア帝国陸軍が侵攻したのは、アムール要塞であった。後世の歴史学者は清国統治地域のモンゴルから侵攻しなかった点が、ロシア帝国最大の愚策だと指摘している。だがその地点からではシベリア鉄道を利用した補給と輸送が出来なかった為に、ロシア帝国は侵攻したくても出来なかったのである。

満州府要塞群はその規模が大きい為に、経済成長五カ年計画の段階で先行して建造が開始された。要塞群建造はある種の公共事業とされ、満州府の住民を動員して建造された。軍事機密である要塞の建造に民間人を動員するのに国防省は反対したが、坂本龍馬総理が併合したばかりの満州の人々を引き寄せるにはこれしか方法がない、と断言した。その為に国防省や皇軍戦略情報局の諜報員・陸軍憲兵隊の身元調査や、作業場所のローテーションを採用し建造された。

そのアムール要塞にロシア帝国陸軍は総攻撃を開始した。アムール要塞には要塞要員3万人と5個師団が配備されておりその13万人で、ロシア帝国陸軍30個師団45万人を迎撃する事になった。虎頭要塞と海拉爾要塞を筆頭に各要塞からの増援も決定され、全力で移動が開始された。

46センチ連装砲は各要塞に2基ずつ設置されており、ロシア帝国陸軍に対して壮絶な砲撃が行われた。要塞砲である46センチ連装砲は30口径であり、射程は短いがその発射される46センチ榴弾は絶大な威力を発揮した。技術的に鋼材の耐久性に難があり発射間隔は1分間に1発となり、主砲塔の重量が過大で油圧機構がギリギリの範囲内で旋回速度が遅すぎる等の課題があったが、破壊力は絶大であった。この為に海軍の艦載砲としての技術知見に大いに役立つ事になった。

また海軍連合艦隊の戦艦が装備する32センチ連装砲も6基設置されており、榴弾を発射し続けていた。

ロシア帝国陸軍にとっては凄惨な光景が広がっていた。大日本帝国陸軍の要塞は想像以上に重武装だったのである。どの距離にいてもロシア帝国陸軍は砲撃を受けた。

46センチ砲・32センチ砲・28センチ砲と、まるでハリネズミのように砲塔が設置されており断続的に砲撃を受けた。その為にロシア帝国陸軍の総攻撃は失敗し、13万人の死傷者を出してロシア帝国陸軍は後退した。

それに対して大日本帝国陸軍は要塞砲による砲撃に終始した為に、損害は皆無だった。満州府要塞群を統括する第3軍司令官蒼井悠香大将は、ロシア帝国陸軍の陸軍集結の動向からアムール要塞に移動し今回の作戦指揮を行った。大日本帝国陸軍始まって以来の大規模砲撃戦に、蒼井司令官は陸軍の砲撃重視策を推し進める事を決断した。

大規模な砲撃戦を実行出来たのは大日本帝国の高い工業力によるものでもあった。日清戦争時は大阪砲兵工廠と名古屋砲兵工廠のみだったが、軍備拡張三カ年計画でアンカレッジ・釜山・旅順・基隆・青島・元山・三亜に砲兵工廠が新設され、銃弾・砲弾の大量生産体制が、欧米列強に比べて格段に整えられていた。

その為に観戦武官として『アムール砲撃戦』を目の当たりにした観戦武官達は、大日本帝国の物量に驚愕した。大日本帝国には13ヶ国から合計70名以上が来訪しており、その国籍は大英帝国、アメリカ合衆国、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、スペイン帝国、イタリア王国、スイス、スウェーデン、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン帝国であった。同盟国である大英帝国からが最多で、エイルマーホールデンをはじめ33名を数えた。アメリカ合衆国からはダグラスマッカーサーの父親であるアーサーマッカーサーJrが赴任していた。

アムール砲撃戦で大日本帝国陸軍は10万発もの砲弾を消費しており、28センチ砲以下の口径の砲は砲身寿命を超過した為に砲身交換が必要だった。その為に後の歴史学者は日露戦争で既に近代戦における工業力の重要性を示し、日露戦争が近代戦の幕開けであったと定義し、更には後の第一次世界大戦を引き合いに出し『準総力戦』であったと断言している。




1904年3月11日。大日本帝国の歴史上始まって以来の大規模軍事行動が開始された。

大日本帝国陸軍25個師団が、満州府国境から一斉にロシア帝国に侵攻を開始したのである。25個師団は満州府要塞群を統括する第3軍の指揮下に集結させられ、第3軍司令官蒼井悠香大将は大日本帝国陸軍の過去最大戦力を指揮統制する事になった。驚いたのはロシア帝国と観戦武官達であった。両者共に大日本帝国陸軍が師団を集結させているのは分かっていたが、それは満州府の防衛を強化する為だと思っていた。だが当事者の大日本帝国は侵攻を計画していたのである。

それは早くもアムール砲撃戦の3日後1904年2月23日に、皇軍統合作戦司令本部で議論された。その議論での最大の論点は、大日本帝国とロシア帝国の経済力と軍事力が拮抗している事から、戦争が長期戦になる可能性だった。そこで皇軍統合作戦司令本部では日清戦争のような、ロシア帝国への直接的な軍事的恫喝が必要となったが、清国とは違いロシア帝国はユーラシア大陸に広がる広大な国家だった。その為にどのように軍事的恫喝を行うか議論が繰り広げられた。

そこで意見を述べたのが、皇軍戦略情報局ヨーロッパ課課長の明石元二郎大佐だった。明石大佐はヨーロッパでの諜報活動の責任者であり、日露関係が悪化してからロシア帝国に対して重点的に活動していた。しかも明石大佐は部下に任せるのみならず自らも直接ロシア帝国に潜入して、諜報活動を行うという活躍を見せていた。

その明石大佐の意見は、ロシア帝国ではロマノフ朝への忠誠や支持が低下している、というものだった。明石大佐はそもそも大日本帝国とロシア帝国は同じ『帝国』でありながら、大日本帝国は立憲君主制であり、ロシア帝国は専制君主制であり、根本的に国家としての統治体制が違うと語った。

その為にロシア帝国臣民の不満は燻り、ある種明治維新前の我が国と似ていると説明した。そして明石大佐はその政情不安のロシア帝国から継戦能力を奪う為にも、ここで大日本帝国は3方面からロシア帝国を揺さぶるべきだと語った。

明石大佐の提案した3方面は大日本帝国陸軍によるシベリア侵攻、大日本帝国海軍連合艦隊によるバルト海遠征、皇軍戦略情報局によるロシア帝国での反政府工作、以上であった。どれも大規模な軍事行動だった。大日本帝国陸軍によるシベリア侵攻と皇軍戦略情報局による反政府工作は然ることながら、特に大日本帝国海軍連合艦隊のバルト海遠征は無謀だと当の海軍側から意見が出た。

海軍軍令部と連合艦隊司令部の参謀達は荒唐無稽だと唾棄した。だが大日本帝国海軍連合艦隊司令長官天海響子大将は、その作戦は大英帝国の支援があれば可能だと答えたのである。軍備拡張三カ年計画で建造した八八艦隊の艦艇である、第1艦隊と第2艦隊なら航続距離も外洋海軍を目指した為に長く、大英帝国の各植民地に寄港して補給と整備を行えば、十分に可能だと答えた。更に大英帝国のスエズ運河が使用可能である為に、アフリカ大陸を廻る距離よりも短く済むと天海連合艦隊司令長官は語った。そう言われると海軍側の参謀達も艦艇のスペック的にも、大英帝国の植民地での補給整備が行える前提なら可能だと考え直したのである。

大日本帝国陸軍のシベリア侵攻も第3軍司令官蒼井悠香大将が、ロシア帝国のシベリア鉄道を抑えれば補給が可能であり、作戦は可能だと答えた。ロシア帝国での反政府工作は言い出した明石大佐が、再び自らロシア帝国に赴き直接工作を行うと断言した。

こうして陸海軍と皇軍戦略情報局それぞれの責任者が可能だと断言した事から、皇軍統合作戦司令本部はその作戦を正式に決定。中沢総理に上奏した。中沢総理はその作戦を持って宮城に参内したのである。そこで中沢総理は大日本帝国陸海軍大元帥であられる陛下に対して、3方面作戦を説明した。陛下は陸軍の補給兵站線と海軍の遠征に対して、強い懸念を示された。

それは中沢総理も同感であった為に、皇軍統合作戦司令本部に確認していた。まずはシベリア侵攻であるが建設工事で利用している、『パワーショベル』を大量投入して道路整備と、シベリア鉄道の確保による補給兵站線の確立を最優先事項とする、と皇軍統合作戦司令本部は決定していた。そして海軍連合艦隊のバルト海遠征は大英帝国の植民地での補給整備と、スエズ運河通航が必要な為に政府として大英帝国に交渉して欲しいと、皇軍統合作戦司令本部は要請した。

それを受けて中沢総理は皇軍統合作戦司令本部の作戦を了承し、外務省に大英帝国への協力を要請するように命じた、と陛下に説明したのである。それを聞かれた陛下は、陸海軍もこのような大規模な作戦を行えるようになったのだな、と感慨深げに語られ作戦を了承された。

こうして1904年3月11日に作戦は動き出した。大日本帝国陸軍25個師団を擁する第3軍は、司令官の蒼井悠香大将の指揮下によりロシア帝国に侵攻した。そして大日本帝国海軍連合艦隊は司令長官天海響子大将の指揮下により第1艦隊と第2艦隊が、バルト海目指して呉を出港した。更に遠く中立国スウェーデンのストックホルムにて、明石大佐自らが反政府工作を開始した。日露戦争勃発によりロシア帝国帝都サンクトペテルブルクの大使館は、中立国のスウェーデンのストックホルムに移動していた為だった。

皇軍戦略情報局は皇軍統合作戦司令本部の指揮下であるが、予算上の扱いは国防省外局とされ軍事予算とは別の独立した予算が計上されていた。日露戦争開戦時の皇軍戦略情報局の予算は、約7500万円であり人員も約1万人に達する巨大組織だった。その為に明石大佐は今回のロシア帝国での反政府工作の予算として、約250万円を臨時予算として支出させていた。

こうして明石大佐は豊富な資金力を活かしてロシア帝国支配下にある国や地域の反ロシア運動を支援し、またロシア帝国内の反政府勢力と連絡を取ってロシア帝国を内側から揺さぶるため、様々な人物と接触した。例を挙げると、フィンランドの反ロシア抵抗運動指導者カストレーン、シリヤクス、スウェーデン陸軍将校アミノフ、ポーランド国民同盟ドモフスキ、バリツキ、社会革命党チャイコフスキー、グルジア党デカノージ、ポーランド社会党左右両派など、ロシア国内の社会主義政党指導者、民族独立運動指導者などである。特に当時、革命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクス率いるフィンランド革命党などを通じ、様々な抵抗運動組織と連絡を取っては資金や銃火器を渡すと、デモやストライキ、鉄道破壊工作などのサボタージュが展開されていった。そして鉄道破壊工作やデモ・ストライキは先鋭化し、ロシア帝国陸軍はその鎮圧のために一定の兵力を割かねばならず、極東へ派遣しにくい状況が作られた。

そしてそれは大日本帝国陸軍第3軍のシベリア侵攻を容易にしたのである。25個師団でシベリア侵攻を開始した第3軍は司令官の蒼井悠香大将の指揮により着々と侵攻を続けた。防衛するロシア帝国陸軍は大日本帝国陸軍の砲兵部隊による砲撃により、身動きが取れない状況で歩兵部隊や騎兵部隊の攻撃を受けて次々と敗退した。

シベリア鉄道は補給兵站線の要として確保され国鉄から派遣された鉄道作業員が運用し、大日本帝国陸軍第3軍のシベリア侵攻の補給を支えた。パワーショベルによる道路整備は劣悪なロシア帝国の道路事情を改善し、大日本帝国陸軍第3軍による侵攻を支えた。こうして大日本帝国陸軍は侵攻開始から約4ヶ月後の1904年7月15日に第3軍の快進撃により、レナ川中流に接するヤクーツクまで進出し占領する事に成功した。そして同じ頃、大日本帝国海軍連合艦隊はバルト海への遠征を果たしたのである。


大日本帝国海軍連合艦隊は大英帝国の植民地での補給整備と、スエズ運河通航により約4ヶ月でバルト海に到達した。大日本帝国海軍連合艦隊の史上初の大遠征は大英帝国が同盟国であるからこそ可能な、超長距離航海だった。各植民地での補給整備を行い、スエズ運河が通航可能だからこその約4ヶ月の航海で可能だった。ロシア帝国に悟られない為に地中海航海時には、大英帝国海軍地中海艦隊が『偶然進路が同じ』だとして連合艦隊の外周を囲むように航海し、傍目からみて大英帝国海軍だと誤認するような艦隊行動を行った。

史上初の大英帝国本土寄港も大英帝国海軍本国艦隊の拠点であるスカパフローで、極秘裏に行われ補給整備が行われた。その後目的地であるバルト海を目指して出港した大日本帝国海軍連合艦隊だが、ユトランド半島を廻り込み北海からバルト海に入ってから遂にドイツ帝国海軍に捕捉されてしまった。

ドイツ帝国はロシア帝国と同盟関係には無いが、ロシア帝国寄りなのは確かでありこの大日本帝国海軍連合艦隊を捕捉した事は、大至急ロシア帝国に伝えられた。ロシア帝国は驚愕した。自分達はウラジオストクが陥落した事からバルチック艦隊を遠征を中止し、シベリアでの陸戦やサンクトペテルブルク等の都市部で反政府活動が活発化している最中での、大日本帝国海軍連合艦隊の襲来である。慌ててロシア帝国はバルチック艦隊を出撃させた。そして1904年7月18日。史上名高い『バルト海海戦』が勃発した。


大日本帝国海軍連合艦隊がバルト海に遠征させたのは第1艦隊と第2艦隊である。第1艦隊編成は戦艦8隻・巡洋艦4隻・駆逐艦20隻からなり、第2艦隊編成は装甲巡洋艦8隻・巡洋艦4隻・駆逐艦20隻からなる総数64隻であった。全艦が日露戦争前の軍備拡張三カ年計画の『八八艦隊計画』で建造された最新鋭艦だった。

対するロシア帝国海軍バルチック艦隊編成は戦艦8隻・海防戦艦5隻・装甲巡洋艦5隻・巡洋艦10隻他総数62隻だった。投入艦船数はほぼ互角だったがロシア帝国は自らのお膝元であるバルト海で戦う為に、地理的優位性があった。

海戦は大日本帝国海軍連合艦隊旗艦三笠が北東微北の針路に進むバルチック艦隊を艦首方向真正面に視認し、三笠が戦闘旗を掲揚して戦闘開始を命令した事から始まった。大日本帝国海軍連合艦隊司令長官天海響子大将は旗艦戦艦三笠でZ旗の掲揚を指示、すなわち全麾下に「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」と号令を掛けた。そしてここから世界の海戦史上稀に見る、歴史的大勝利となる砲撃戦が始まった。

大日本帝国海軍連合艦隊の第1艦隊に所属する戦艦8隻は、32センチ連装砲を一斉に発射した。その砲弾は面白いようにバルチック艦隊に命中し、この時の斉射の命中率は68%にも及んだ。大日本帝国海軍連合艦隊の猛訓練による練度と、高い士気による成果だった。

これに驚いたのがロシア帝国海軍バルチック艦隊だった。異常なまでの命中率に、動揺が広がっていた。そしてさらに動揺が広がりパニック状態になったのが1発の命中弾しか受けていなかった戦艦が、みるみる艦内延焼を起こし僅か数分で艦全体が火の海になった事であった。

下瀬火薬による爆発力の驚異的な破壊力は、バルチック艦隊を恐怖の渦に叩き落とした。バルチック艦隊の艦艇では居住性が悪くなるとして、木製家具を搭載したままの艦艇も多くそれが更に艦内延焼に拍車をかけていた。大日本帝国海軍連合艦隊第1艦隊の戦艦による圧倒的な砲撃に、ロシア帝国海軍バルチック艦隊艦隊は堪らず進路を変更しようとした。

だがそこにすかさず大日本帝国海軍連合艦隊第2艦隊が速度を活かして、バルチック艦隊の進路を塞ぐように廻り込んだ。そして25.5センチ連装砲を勢いよく連射した。その連続した打撃力にバルチック艦隊は勢いを削がれ、そこに再び大日本帝国海軍連合艦隊第1艦隊が32センチ連装砲を発射した。ロシア帝国海軍バルチック艦隊も反撃を行い、連合艦隊に命中弾を与えたが全艦健在だった。大日本帝国海軍連合艦隊の命中率は異常なレベルに高く、バルチック艦隊は次々と撃沈された。

そして海戦勃発から2時間後、バルト海には大日本帝国海軍連合艦隊だけが存在していた。ロシア帝国海軍バルチック艦隊は全艦が撃沈され、大日本帝国海軍連合艦隊は駆逐艦2隻の沈没だけの被害であり、残存艦も小破でしかなかった。海戦史上類を見ない一方的大勝利だった。この歴史的大勝利により大日本帝国海軍連合艦隊と、連合艦隊司令長官天海響子大将の名は世界に轟いた。何せバルト海まで長距離を遠征し駆逐艦2隻の撃沈だけで、バルチック艦隊を全滅させたのである。

その後大日本帝国海軍連合艦隊はバルト海東部のフィンランド湾最奥部に進出し、全艦の砲門をサンクトペテルブルクに向けた。時に1904年7月19日の事であった。時を同じく中立国のスウェーデンのストックホルムに移動していた駐ロシア帝国大使が、ロシア帝国外務省に乗り込み降伏勧告を行った。

それは即時に全面的降伏を要求し、大日本帝国帝都東京にロシア帝国特命全権大使を派遣しての、講和会議開催を突き付けた。ロシア帝国外務大臣ウラジーミル・ラムスドルフは、その要求は到底呑めないと答えた。駐ロシア帝国大使は、それではまたお会いしましょう、と言い残し去って行った。その言い草に胸騒ぎを覚えたラムスドルフ外務大臣だったが、それは現実のものとなりサンクトペテルブルク沖合に停泊する大日本帝国海軍連合艦隊が砲撃を開始した。

壮絶なる艦砲射撃はサンクトペテルブルクを火の海にした。あまりの事態に皇帝ニコライ2世は緊急会議を招集し、ラムスドルフ外務大臣は大日本帝国駐ロシア帝国大使から降伏勧告と講和会議の参加を要求されたと語った。

それにどよめきが起こったが、ロシア帝国が開戦以来連敗続きなのは事実だった。そして帝都サンクトペテルブルクに対しても、今この瞬間も艦砲射撃が行われていた。会議の空気はもはや要求の受け入れしかない、との雰囲気であった。皇帝ニコライ2世は、日本人如きに負けるとは、と語ったと伝えられている。

そして翌日、駐ロシア帝国大使を通じてロシア帝国は大日本帝国に降伏を伝えた。

こうして1904年7月20日、日露戦争は終結した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ